『帝国』の共著者として有名なアントニオ・ネグリに、来日の直前になって入国許可が出ず、関連行事がキャンセルされた。これについての抗議声明が、主催者側から発表された。私はこの事件の経緯も知らないし、法務省がどういう理由で彼の入国を拒否したのかも知らないが、『帝国』の原著を、あの9/11の直後に読んで衝撃を受けた一読者として、ひとこと感想を書いておきたい。

私は、書評であまり大げさにほめるのは好きではないが、2003年に『帝国』の邦訳が出たとき、週刊ダイヤモンドの書評で「現代の『資本論』」と絶賛した。この評価は、今も変わらない。サヨクにありがちな「反グローバリズム」とか何とかいう幼児的な議論ではなく、グローバル化を超えた先に新しい世界秩序を展望する彼らの思想は、マルクスを(いい意味で)継承するものだ。

特に、今回の事件との関連で興味深いのは、『帝国』で彼らが主張したグローバルな市民権という思想だ。移動の自由が基本的人権であるなら、なぜ国境を超えた移動は査証がないと許されないのか? たとえば中国で飢餓線上にいる人々は2億人とも3億人ともいわれるが、中国に開発援助をしなくても、彼らが日本に入国するのを認めさえすればいいではないか。

もちろん、現実にはそんなことは不可能だろう。しかし少なくとも近代の人権なる概念が、そういうダブル・スタンダードをはらんでいることは知っておいたほうがいい。Krasnerもいうように、主権国家とは組織的な偽善なのである。

デリダやネグリが、こうした偽善を批判する概念として提起したのが、歓待の倫理である。「格差社会」を糾弾する人々は、1日1ドル以下の収入しかない絶対的貧困層が全世界で10億人以上いる現実をどう考えるのか。彼らが日本に密入国してきて「あなたの所得は私の100倍以上あるんだから、その半分をくれれば平等になる」と言ったら、あなたは彼らを歓待するだろうか?

このように人権とか平等とかいう概念は、近代国家の作り出した幻想にすぎない。今回の事件は、日本政府の偽善性を白日のもとにさらしたという意味では、ネグリの来日よりも大きなインパクトがあったかもしれない。

追記:コメントで教えてもらった中日新聞の記事によれば、主催者(国際文化会館)は昨年、パリの日本大使館にOKをとっただけで、法務省には問い合わせていなかったという。日本大使館にも、ネグリの経歴を説明したのかどうか不明だ。これは主催者側の手続き上のミスである疑いが強い。