861806ef.jpgアダム・スミスの「見えざる手」という言葉は有名だが、この言葉は『国富論』で1回しか使われておらず、彼はそれが誰の手か、どうやってそれが経済的な秩序をもたらすのか、といった問題には答えていない。

他方、彼のもう一つの著作『道徳感情論』では、他人に対する共感(sympathy)が秩序の基礎だと論じている。この議論は、人々が利己心にもとづいて行動すれば、おのずと秩序が成立するという『国富論』の結論と矛盾するようにみえる。これは「アダム・スミス問題」として知られ、多くの研究者がこの矛盾を解決しようとしてきた。本書も、この問題に答えることを試みたものだが、率直にいって明快な答とはいいがたい。

本書と無関係にゲーム理論の言葉で考えると、これは「どうすれば人々がともに豊かになるような状態が唯一のナッシュ均衡になるか」という問題と考えることができる。一般的な(混合戦略を含む)ゲームではナッシュ均衡が存在するが、それが一意に定まるとは限らない。複数均衡(よい均衡と悪い均衡)がある場合、よい均衡を選択する一般的な解概念は存在しない。

では、なぜスミスは人々が「よい均衡」を選ぶと信じたのだろうか? その答は、おそらく本書が言及していない理神論にあると思われる。これは神を人格的な存在と考えず、世界の秩序そのものが神の具現化だと考える教義で、ニュートンがその影響を受けていたことはよく知られている。彼の発見した古典力学の完璧な規則性は、まさに神の存在証明ともいえるものだった(いわゆるintelligent designは、理神論の現代版だ)。

スミスは、同時代人ニュートンの発見に強い影響を受け、社会秩序にも同じような「神の手」が働いているはずだと信じた。しかし彼自身は、ニュートンのように手際よく神の存在を証明できなかった。のちにニュートンをまねた新古典派経済学が、均衡の存在を証明したが、Arrow-Debreuの証明した条件はきわめて非現実的で、むしろ均衡の不在証明ともいうべきものだ。

ではスミス自身は、この矛盾をどう理解していたのだろうか? 一つのヒントは、本書の指摘するように、『道徳感情論』にも「見えざる手」という言葉が1回だけ出てくることだ。これは資本家が労働者を雇う際に、利潤最大化のためには労働者をフェアに扱わないと逃げてしまう、といった文脈で使われている。つまり公正(fairness)の感覚を共有していることが均衡を実現するというわけだ。これはRawlsの『正義論』の考え方に近い。

Binmoreも、公正の概念がゲーム理論でいう焦点(focal point)となり、均衡選択の装置として機能すると論じている。公正の概念は社会によって大きく違うが、一つの社会の中では分散が非常に小さいことも実験経済学で確かめられている。見えざる手とは、こうした共通感覚のことだとすれば、スミスが見えざる手の根拠を共感に求めたことは、利己心と矛盾しない。利己心によって実現しうる多くの均衡の中から、人々がフェアな均衡を選ぶような社会だけが群淘汰で生き残ったと考えれば、合理的に説明できる。