きのうの記事に「中の人」らしき読者から「法律の制定過程としては、省内調整→他省庁調整、法制局審査→与党議員根回し・・・とありますが、キーマンとなる人の誰か1人でも首を縦に振らない人がいたら、全てパーです。今は、この中に民主党も入ります」というコメントがあった。
日本の官僚機構では、こういう非公式のコンセンサスを得る調整のオーバーヘッドが非常に大きく、キャリア官僚の仕事の大半を占め、拘束時間が異常に長い。この原因は、公式の内閣―大臣―各省庁というツリー構造とは別の、族議員や他省庁とのスパゲティ状の非公式ネットワークで実質的な意思決定が行なわれるからだ。
その原因は、天皇制にある。東京の上空を夜、ヘリコプターで飛ぶと、まぶしいほど明るい都心に、ブラックホールのように真っ黒な空間が広がっている。皇居である。ロラン・バルトが、この空虚な中心が日本の社会を象徴しているとのべたのは有名だが、それは日本の法制度の象徴でもある。
明治憲法では、主権者である天皇が実際には政治権力を行使しないため、権力の空白ができた。この空白を埋める調整機能の所在は、時代とともに変化した。明治期には、この中枢に山県有朋などの元老がいたが、こうした非公式の調整機能はたぶんに属人的なものなので、藩閥の力が低下するとともに元老の重みは低下した。
元老に代わって空白を埋めたのは、政党だった。大正期には、官庁の主要ポストは政治任用で、官僚出身者が政治家になって政策を立案するようになり、政党が立法と行政を仲介して調整する機能をもつようになった。しかし二大政党は権力維持のために高級官僚ポストを独占し、財界との関係を強めて腐敗がひどくなった(『政党と官僚の近代』)。
特に昭和期に入って不況に突入すると、国民不在の政争を続ける政治家への不満が官僚にも強まった。岸信介などの革新官僚は軍部と手を結び、商工省を乗っ取って「軍需省」とし、中枢機能を「企画院」に集中した。政党も、政権をとるために軍部に迎合するようになった。戦時体制は、岸の信奉する北一輝の理想とした軍の支配による国家社会主義を実現するものだった。軍は「統帥権の独立」によって議会に制約されなかったため、いつの間にか本来の権力機構の外にあった軍部が権力の中枢になり、他の国家機構を食いつぶし、その暴走は止まらなくなった。
この中心なき官庁セクショナリズムは戦後も続いたが、高度成長期には大蔵省の予算配分機能が空白を埋めた。しかし予算が増え続ける高度成長期が終わると、各省庁の配分が固定化して、大蔵省の裁量の余地は少なくなった。そして90年代には、不良債権処理の失敗で、大蔵省の威信は低下し、金融機能を切り離されて「財務省」に格下げされた。
岸に連なる国家社会主義は、通産省の統制派として残ったが、総合調整機能は失った。通産省には、白洲次郎(初代の貿易庁長官)の流れを汲む国際派もあったが、昔から「平家・海軍・国際派」といわれるように主流にはなれなかった。この対立は「ターゲティング派」と「フレームワーク派」の対立として、その後も残ったが、後者は村上人脈にみられるようにパージされた。
だから中心は今も空虚なままで、むしろブラックホールは広がっている。かつての自民党では、派閥のボスが元老の役割を果たし、族議員にもボスがいて、たとえば郵政族なら野中広務氏に話を通せばOKだったが、今ではそういうボスが(よくも悪くも)いなくなった。最近では、衆参の「ねじれ」によって民主党までコンセンサスを広げなければならないため、政策は全員一致でないと承認されなくなり、政治は完全に止まってしまった。
しかし野党が議会で多数派になる状況は、大統領制の国ではよく起こるもので、フランスではcohabitation(同棲)という粋な名前がついている。アメリカでも、ブッシュ政権の指名した裁判官が上院の公聴会で拒否されるといった事態は珍しくない。日本では、官僚が「同棲初体験」で、野党に根回しするネットワークがないため、政治が止まっているのだろう。
今回の公務員制度改革は、こうしたスパゲティ構造を断ち切ってツリー状に整理しようとするものだが、それが実現するかどうかは、率直にいって疑問だ。怪文書にみられるような官僚の本音と一致しない制度をつくっても、彼らはそれを面従腹背でボイコットするからだ。官僚の人事を集中管理するという構想は、GHQの強要した職階制と人事院でも試みられたが、官僚は法律を制定しながら無視して職階制を空文化し、人事院の機能も最小化した。内閣人事庁も、同じような結果になるおそれが強い。
天皇というブラックホールは、1000年以上も続いてきた構造だ。武士が政権を取った後も、彼らは天皇の「臣下」であり、明治維新も天皇の代理人と称する下級武士による「復古」だった。この空虚な中心を「私が埋める」と僭称するような「不敬」は許されないだろう。だからブラックホールを取り巻くリゾーム状のネットワークも、法律ぐらいで変わるとは思えない。
日本の官僚機構では、こういう非公式のコンセンサスを得る調整のオーバーヘッドが非常に大きく、キャリア官僚の仕事の大半を占め、拘束時間が異常に長い。この原因は、公式の内閣―大臣―各省庁というツリー構造とは別の、族議員や他省庁とのスパゲティ状の非公式ネットワークで実質的な意思決定が行なわれるからだ。
その原因は、天皇制にある。東京の上空を夜、ヘリコプターで飛ぶと、まぶしいほど明るい都心に、ブラックホールのように真っ黒な空間が広がっている。皇居である。ロラン・バルトが、この空虚な中心が日本の社会を象徴しているとのべたのは有名だが、それは日本の法制度の象徴でもある。
明治憲法では、主権者である天皇が実際には政治権力を行使しないため、権力の空白ができた。この空白を埋める調整機能の所在は、時代とともに変化した。明治期には、この中枢に山県有朋などの元老がいたが、こうした非公式の調整機能はたぶんに属人的なものなので、藩閥の力が低下するとともに元老の重みは低下した。
元老に代わって空白を埋めたのは、政党だった。大正期には、官庁の主要ポストは政治任用で、官僚出身者が政治家になって政策を立案するようになり、政党が立法と行政を仲介して調整する機能をもつようになった。しかし二大政党は権力維持のために高級官僚ポストを独占し、財界との関係を強めて腐敗がひどくなった(『政党と官僚の近代』)。
特に昭和期に入って不況に突入すると、国民不在の政争を続ける政治家への不満が官僚にも強まった。岸信介などの革新官僚は軍部と手を結び、商工省を乗っ取って「軍需省」とし、中枢機能を「企画院」に集中した。政党も、政権をとるために軍部に迎合するようになった。戦時体制は、岸の信奉する北一輝の理想とした軍の支配による国家社会主義を実現するものだった。軍は「統帥権の独立」によって議会に制約されなかったため、いつの間にか本来の権力機構の外にあった軍部が権力の中枢になり、他の国家機構を食いつぶし、その暴走は止まらなくなった。
この中心なき官庁セクショナリズムは戦後も続いたが、高度成長期には大蔵省の予算配分機能が空白を埋めた。しかし予算が増え続ける高度成長期が終わると、各省庁の配分が固定化して、大蔵省の裁量の余地は少なくなった。そして90年代には、不良債権処理の失敗で、大蔵省の威信は低下し、金融機能を切り離されて「財務省」に格下げされた。
岸に連なる国家社会主義は、通産省の統制派として残ったが、総合調整機能は失った。通産省には、白洲次郎(初代の貿易庁長官)の流れを汲む国際派もあったが、昔から「平家・海軍・国際派」といわれるように主流にはなれなかった。この対立は「ターゲティング派」と「フレームワーク派」の対立として、その後も残ったが、後者は村上人脈にみられるようにパージされた。
だから中心は今も空虚なままで、むしろブラックホールは広がっている。かつての自民党では、派閥のボスが元老の役割を果たし、族議員にもボスがいて、たとえば郵政族なら野中広務氏に話を通せばOKだったが、今ではそういうボスが(よくも悪くも)いなくなった。最近では、衆参の「ねじれ」によって民主党までコンセンサスを広げなければならないため、政策は全員一致でないと承認されなくなり、政治は完全に止まってしまった。
しかし野党が議会で多数派になる状況は、大統領制の国ではよく起こるもので、フランスではcohabitation(同棲)という粋な名前がついている。アメリカでも、ブッシュ政権の指名した裁判官が上院の公聴会で拒否されるといった事態は珍しくない。日本では、官僚が「同棲初体験」で、野党に根回しするネットワークがないため、政治が止まっているのだろう。
今回の公務員制度改革は、こうしたスパゲティ構造を断ち切ってツリー状に整理しようとするものだが、それが実現するかどうかは、率直にいって疑問だ。怪文書にみられるような官僚の本音と一致しない制度をつくっても、彼らはそれを面従腹背でボイコットするからだ。官僚の人事を集中管理するという構想は、GHQの強要した職階制と人事院でも試みられたが、官僚は法律を制定しながら無視して職階制を空文化し、人事院の機能も最小化した。内閣人事庁も、同じような結果になるおそれが強い。
天皇というブラックホールは、1000年以上も続いてきた構造だ。武士が政権を取った後も、彼らは天皇の「臣下」であり、明治維新も天皇の代理人と称する下級武士による「復古」だった。この空虚な中心を「私が埋める」と僭称するような「不敬」は許されないだろう。だからブラックホールを取り巻くリゾーム状のネットワークも、法律ぐらいで変わるとは思えない。