本書は一般向けとはいいがたいが、扱っているテーマは重要である。歓待というのは英語ではhospitality、やまとことばでは「もてなし」だろうか。これはレヴィナスやデリダを読んだ人にはおなじみだろうが、一般にはわかりにくい。その対義語である排除という言葉と対にして考えたほうがわかりやすいかもしれない。
近代社会は「排除の論理」で成り立つ社会である。その根本原理である財産権は、物を排他的に支配し、他人を排除する権利だ。古代の共同体も、よそものを排除するシステムだったが、折口信夫の「まれびと」信仰のように、他から来る人をもてなす文化があった。本書で取り上げている「鶴の恩返し」もそうだし、四国の遍路もそうだ。本書の冒頭で延々と北欧神話の解説が続くが、こうした神話は北欧に限らない。
しかし近代化とともに、そうした歓待の原理は失われ、共有地は囲い込まれて私有地になる。人々に共有されていた「暗黙知」も、分節言語によって囲い込まれた知識だけが蓄積されるようになる。その極限が、デジタル化である。ここでは1と0に符号化できない曖昧な情報はすべて排除され、効率は極大化するが、同時にコード化できない暗黙知も大きく残る。
そして皮肉なことに、こうした排除の論理の極致であるデジタル技術で構築されたインターネットは、全世界のユーザーを直接つないで歓待するネットワークなのだ。それを排除の論理にあわせるためにファイヤウォールやスパムフィルターなどの技術が開発され、セキュリティや知的財産権という名の排除が制度化されるが、つねにそれを裏切る者が出てくる。
もちろん効率や安全という観点からは、排除は必要なのだが、現代はそれが極端になってはいないか。著作権法や個人情報保護法やJ-SOX法など、排除や監視は強化され、社会は息苦しくなる一方だ。環境問題を「温暖化ガス」に矮小化し、それを排出権という排除の権利に置き換えて取引する制度は、著者のいう自然を歓待して共存するディープ・エコロジーの対極にある。そろそろ排除を強める一方の制度を見直し、他者を歓待して情報を共有する原理を考える必要があるのではないか。
近代社会は「排除の論理」で成り立つ社会である。その根本原理である財産権は、物を排他的に支配し、他人を排除する権利だ。古代の共同体も、よそものを排除するシステムだったが、折口信夫の「まれびと」信仰のように、他から来る人をもてなす文化があった。本書で取り上げている「鶴の恩返し」もそうだし、四国の遍路もそうだ。本書の冒頭で延々と北欧神話の解説が続くが、こうした神話は北欧に限らない。
しかし近代化とともに、そうした歓待の原理は失われ、共有地は囲い込まれて私有地になる。人々に共有されていた「暗黙知」も、分節言語によって囲い込まれた知識だけが蓄積されるようになる。その極限が、デジタル化である。ここでは1と0に符号化できない曖昧な情報はすべて排除され、効率は極大化するが、同時にコード化できない暗黙知も大きく残る。
そして皮肉なことに、こうした排除の論理の極致であるデジタル技術で構築されたインターネットは、全世界のユーザーを直接つないで歓待するネットワークなのだ。それを排除の論理にあわせるためにファイヤウォールやスパムフィルターなどの技術が開発され、セキュリティや知的財産権という名の排除が制度化されるが、つねにそれを裏切る者が出てくる。
もちろん効率や安全という観点からは、排除は必要なのだが、現代はそれが極端になってはいないか。著作権法や個人情報保護法やJ-SOX法など、排除や監視は強化され、社会は息苦しくなる一方だ。環境問題を「温暖化ガス」に矮小化し、それを排出権という排除の権利に置き換えて取引する制度は、著者のいう自然を歓待して共存するディープ・エコロジーの対極にある。そろそろ排除を強める一方の制度を見直し、他者を歓待して情報を共有する原理を考える必要があるのではないか。