東京裁判 (講談社現代新書)
5年前、スタンフォード大学でレッシグのやった「電波:財産かコモンズか」というシンポジウムに参加したとき、最後に大学の中にある模擬法廷で、デムゼッツなど3人の「裁判官」が、判決の形で結論を出したのが印象的だった。英米の文化では、裁判というのは「みんなで結論を出すゲーム」なのだ。

これに対して日本では、裁判は犯罪者をこらしめる「お裁き」であり、有罪になった者は一生、その十字架を背負わければならない。この違いが、東京裁判をめぐって延々と続く感情的な論争をもたらしているのだろう。しかし私の世代には「東京裁判史観」を憎む感情もなければ、大江健三郎氏のように子供のころ刷り込まれた絶対平和主義もない。そろそろ戦争について、感情を抜きにして事実にもとづいた議論ができるようになってもいいだろう。

著者も私より1世代下で、どちらの立場でもない。東京裁判が事後的な「勝者の裁き」だというのは明白だが、だからといって全面否定はしない。東京裁判が「正義」かどうかを論じても意味がない。それは第一義的には占領統治の一部であり、裁判という形式をとった連合国の国際政治における安全保障政策だったからである。当時は、国際法上は日本と連合国はまだ交戦状態にあり、日本を無力化してふたたび連合国に宣戦しないようにすることが、東京裁判の目的だった。

だから最大の焦点だった天皇の戦争責任についても、オーストラリア以外は(ソ連でさえ)天皇を起訴する気はなかった。イギリスは「占領コストの削減にとって、天皇を戦犯として起訴することは、重大な政治的誤りであろう」とオーストラリアに反対した。「天皇は占領統治の道具であり、それを破壊したら、第一次大戦でドイツの皇帝を追放したためにドイツ人がヒトラーを求めた失敗を繰り返すことになろう」。天皇を占領コスト削減の道具ととらえるプラグマティックな発想に、この裁判の本質があらわれている。

だから著者の、インドのパル判事についての評価も低い。彼はこのような占領統治の一環としての東京裁判の本質を理解できなかったため、手続き論によって勝者の裁きを否定し、反植民地主義によって日本の戦争を「自存自衛」のためのものとしたが、判事団の主流にはまったく影響を与えることができなかった。

侵略や植民地支配がいけないというなら、弁護団も主張したように、100年以上にわたって世界中を植民地支配したイギリスの罪のほうがはるかに重い。19世紀の植民地化はいいが、1928年の不戦条約以後は侵略は国際法違反になった、という解釈もご都合主義だ。だから論理的には東京裁判の判決は破綻しているが、それは判決という形をとった日本の旧統治機構の破壊なのだから、戦争の終結(サンフランシスコ条約)とともに終わったのだ。

しかし裁判という形をとったことによる限界もあった、と私は思う。特定の軍人や政治家だけが「戦犯」で、無垢な国民は軍に「強制」されただけだという、東京裁判の(コスト削減のために便宜上つくった)図式が今日まで残り、慰安婦問題でも沖縄問題でも、軍にすべての罪をかぶせて勧善懲悪の芝居を演じる人がいまだに残っている。占領統治に使うため、官僚機構を温存したのも間違いだった。それこそが日本を誤った道に導いた主犯だったからだ。

憲法も占領統治のツールにすぎなかったので、いまだにそれを不磨の大典のように頂いているのは滑稽だ。安倍晋三氏のいうのとは違う意味で、占領統治の遺制をいまだに残す「戦後レジーム」を転換し、彼の祖父に代表される官僚社会主義を清算することが、われわれの世代以下の課題だろう。