20世紀初頭にソシュールによって始まった哲学の革命を「言語論的転回」と呼んだのはローティだが、『認知文法のエッセンス』は、いま人文科学で認知論的転回が起こっているという。それはチョムスキーに代表される分節言語をモデルとする形式主義を否定し、言語が非言語的な生活の中から生成するプロセスをとらえようとする方法論だ。

その元祖レイコフの理論のコアにあるのは、メタファーの概念である。彼は、言語や知性は先天的に与えられたものではなく、特定の文化圏の中で形成されたフレームに依存するものだと主張する。たとえばブッシュ政権の"tax relief"という政策には「納税者を救済する」というフレームが暗黙のうちに含まれている。この"relief"というフレームの中で論争したことが民主党の敗因だった。

ピンカーの『思考する言語』は、このテーマを心理学の立場から論じ、言語をフレームの概念で理解する。著者はレイコフの理論をゲシュタルト心理学やKahneman-Tverskyのframingの概念と結びつけ、分節言語をモデルにする古い言語学を否定して、脳科学(メタファーはシナプスの結合に対応する)にもとづく言語理論を提唱する。FodorやFillmoreを引用しながら、フレーム問題に言及していないのは奇妙だが、フレームの概念はもともと人工知能の行き詰まる中から出てきたものだ。

こうした暗黙知を分節言語に先立つ本源的な知識と考える哲学の元祖は、ポラニーである。その影響を受けたクーンのパラダイムの概念は、フレームの典型だ。ソシュール的な構造(ラング)を否定してエクリチュールの生成を論じたデリダの議論も、認知論に近い。そしてポラニーの影響を受けて、脳の中で知覚が形成される過程を論じたのが、ハイエクの『感覚秩序』である。これは最近、コネクショニズムの先駆として再評価され、エーデルマンも「脳科学者はハイエクを読むべきだ」とのべている。

今回の金融危機が示しているのも、ブラック=ショールズ式に代表される形式主義の金融理論が、現実によって完膚なきまでに否定されたということだ。新古典派経済学の「モデル」も、一つのメタファーにすぎない。しかも数学や物理学に比べても、すぐ反例の見つかる出来の悪いメタファーだ。それは生成文法と同様、理論よりも例外のほうがはるかに多く、意味のある結果のほとんどは「不完全性」の仮定から導かれる。

21世紀の経済学の出発点は、タレブもいうように新古典派ではなくカーネマンだろう。この点で経済学はようやく、人文・社会科学の主流に追いつこうとしているわけだ。しかし行動経済学の実験結果を説明する理論が、新古典派のような体系をそなえたパラダイムになるかどうかは疑問だ。ただ生成文法に比べて形式美では明らかに劣る認知言語学が、学界で(主流とはいわないまでも)有力になりつつあるのをみると、「認知経済学」を試みる価値はあるかもしれない。