ミシェル・フーコー講義集成〈8〉生政治の誕生 (コレージュ・ド・フランス講義1978-79)本書のタイトルから、生政治という言葉でよく語られる「監視社会」批判の類を想像する読者も多いだろうが、フーコーはこうした問題にはまったく触れていない。彼が主題とするのは、生政治のもっとも洗練された形態としての経済的自由主義であり、その代表はハイエクである。生政治と自由主義というのは、常識的には対極にあるように思われるが、フーコーが晩年の『知への意志』でも警告しているように、自由を抑圧からの解放と考えることは、ナイーブな左翼的錯覚である。逆に、自由主義はきわめて高度な統治技術を必要とするのだ。
大いなる規律の技術、すなわち個々人の行動様式をその最も細かい細部に至るまで毎日規則正しく引き受けるものとしの規律の技術が発達し、急成長し、社会を貫いて拡散するのは、自由主義の時代と正確に同時代のことでした。[・・・]ここにおいて管理はもはやパノプティズムの場合とは異なり、ただ単に自由に対して必要な歯止めではありません。それは自由の原動力なのです。(pp.82-3)
フーコーといえばパノプティコンがお約束のように出てくるが、ここで彼は権力がそのようにわかりやすい中央集権的な形で見えるとは限らず、それとは反対物の自由という形をとる場合もあることを指摘している。この文脈で彼は、ハイエクの強調する法の支配の概念を近代における統治形態のコアとみなす。それは専制君主が真理によって支配する統治から、形式的なゲームの規則の合理性にもとづく統治への転回だった。

このような「ホモ・エコノミクス」による合理的な統治の究極的な理論として、フーコーはベッカーの"Crime and Punishment"を引用する。犯罪を負の財(bads)と考えれば、刑罰はそれに対する負の需要だから、すべての犯罪を撲滅することは可能でも必要でもない。犯罪を処罰するコストとその社会的利益が見合うようにルールを決めるべきであり、麻薬は禁止しないで市場で流通させ、その価格を管理したほうが効率的だ。

このように合理主義的な統治は、スミスの「見えざる手」によって正当化される。その背景にあるのは、ヒュームの意図せざる結果の概念である。重農主義者(あるいは国家社会主義者)のように、賢明な君主が「経済表」にもとづいて正しい経済状態を知っていると想定するなら、市場は不要である。それが必要なのは、政府も企業も全体を知らないときだ。主権者は無知でよく、むしろ無知でなければならないのだ。
経済的世界は、その本性上、不透明で全体化不可能なものです。[・・・]経済学は無神論的な学問分野であり、全体性なしの学問分野です。経済学は、統治すべき国家の全体性に対する主権的視点が、ただ単に不要であるばかりでなく不可能でもあるということを表明し始める学問分野なのです。(p.347)
このようにして経済的自由主義は、ホモ・エコノミクスによって構成される市民社会を正当化し、「遍在する統治、何もそこから逃れ去ることのないような統治」を実現する、もっとも効率的な統治テクノロジーとなる。このように巧妙化した権力装置にとって、その外部から介入する国家が必要な理由は、ほとんど見当たらない。この意味で経済学は、ラディカルな統治理性批判なのである。

本書は「格差社会」とか「市場原理主義」の類のくだらない議論をはるかに超える、自由主義についての深い批判的考察である。フーコーはいわゆる新自由主義を「権力の所在を分散させて隠蔽するイデオロギー装置」として論じるが、結果的にはそれが生政治によって人々を直接コントロールする「内政国家」を否定したことを評価する。その根底にあるのは、ポストモダンにも通じる超越的真理や特権的主体の否定である。

しかし、このように極度に脱中心化された統治形態は、自己否定的な存在である。それは(アロウの不可能性定理に示されるような)非決定性をはらんでいるからだ。したがって逆説的なことだが、自由主義と市場によって合理化された国家は、再中心化としてのナショナリズムや国家理性を必要とする。政府は限りなく合理的な主体として「国家戦略」を立案することを求められる。経済的自由主義をとったサッチャー・レーガン政権が、攻撃的な外交政策をとったことは偶然ではない。

こうして問題は大きく円環を描いて、「真理による統治」という主権の原初形態に回帰する。翌年以降のフーコーは、権力の究極的な実体としての真理の探究に関心を移すのだが、その作業のなかばで世を去った。彼の華麗な言説は「現代思想」の成果を踏まえ、ハイエクの素朴な古典的自由主義を否定するようでありながら、最後には両者は限りなく接近していたようにみえる。