疎外論的な発想は、新しいものではない。古代に理想的な「始原」を求め、現状をそこからの堕落として描く物語は、『創世記』にもみられる神話のステレオタイプの一つである。その典型が1942年、『文学界』に掲載された座談会「近代の超克」である。
ここでは亀井勝一郎、小林秀雄、河上徹太郎などが、現代風にいえば市場原理にもとづく「ネオリベ」を近代の人間疎外として否定し、「グローバリズム」に対して「アジア的共同体」を対置する。著者も指摘するように、こうした言説は今日も「東アジア共同体」として再生産されているが、それが侵略戦争を追認する論理として「大東亜共栄圏」などに悪用されたことは否定しようがない。
しかし、こうした西欧近代への違和感が繰り返し語られるのは、理由のないことではない。社会を個人に分解し、利己主義を肯定する経済システムは、人々の「利他的な遺伝子」に反するからだ。日本でも、福沢諭吉の国権論は李氏朝鮮を倒そうとする朝鮮独立党と連帯するものだったし、北一輝の「東洋的共和政」は中国の国民党を支援する思想だった。大川周明はガンディーとともにインド独立のために闘い、コーランを全訳した。戦前の知識人は、ビジネスベースで「アジア重視」を語る今日の財界人より、はるかに深いレベルでアジアと連帯していたのだ。
朝鮮や満州の植民地支配も、欧米諸国のように徹底的に搾取するものではなく、むしろインフラを建設してその収益を回収する前に戦争に負けたので、収支は赤字だった。中国や朝鮮が「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」などをいまだに針小棒大に語るのは、ナショナリズムを鼓舞して政権を安定させるための国内向けの宣伝にすぎない。こうした政治的事情のない台湾では、日本を敵視する議論はない。
戦後の占領軍統治によって西洋/東洋という対立軸は侵略戦争のイデオロギーとして葬られ、「大東亜」を語ることはタブーになった。しかし人類の数十万年の歴史の中で、西欧近代はきわめて特殊なシステムであり、文明圏を超えて普遍性をもつかどうかはわからない。それを「超克」しようとする思想はすべて失敗したが、問い続けることは必要である。著者のいう「非戦的国家」などという幻想が、その根拠になるとは思えないが。
ここでは亀井勝一郎、小林秀雄、河上徹太郎などが、現代風にいえば市場原理にもとづく「ネオリベ」を近代の人間疎外として否定し、「グローバリズム」に対して「アジア的共同体」を対置する。著者も指摘するように、こうした言説は今日も「東アジア共同体」として再生産されているが、それが侵略戦争を追認する論理として「大東亜共栄圏」などに悪用されたことは否定しようがない。
しかし、こうした西欧近代への違和感が繰り返し語られるのは、理由のないことではない。社会を個人に分解し、利己主義を肯定する経済システムは、人々の「利他的な遺伝子」に反するからだ。日本でも、福沢諭吉の国権論は李氏朝鮮を倒そうとする朝鮮独立党と連帯するものだったし、北一輝の「東洋的共和政」は中国の国民党を支援する思想だった。大川周明はガンディーとともにインド独立のために闘い、コーランを全訳した。戦前の知識人は、ビジネスベースで「アジア重視」を語る今日の財界人より、はるかに深いレベルでアジアと連帯していたのだ。
朝鮮や満州の植民地支配も、欧米諸国のように徹底的に搾取するものではなく、むしろインフラを建設してその収益を回収する前に戦争に負けたので、収支は赤字だった。中国や朝鮮が「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」などをいまだに針小棒大に語るのは、ナショナリズムを鼓舞して政権を安定させるための国内向けの宣伝にすぎない。こうした政治的事情のない台湾では、日本を敵視する議論はない。
戦後の占領軍統治によって西洋/東洋という対立軸は侵略戦争のイデオロギーとして葬られ、「大東亜」を語ることはタブーになった。しかし人類の数十万年の歴史の中で、西欧近代はきわめて特殊なシステムであり、文明圏を超えて普遍性をもつかどうかはわからない。それを「超克」しようとする思想はすべて失敗したが、問い続けることは必要である。著者のいう「非戦的国家」などという幻想が、その根拠になるとは思えないが。