先日の中山素平氏の記事について、複数のメディアから取材があって驚いた。いまだに「財界鞍馬天狗」の神話は健在のようだ。中山氏についての記録は山ほどあるが、多くは『小説日本興業銀行』のような彼の栄光の時代の話ばかりだ。私は世代的には彼の孫ぐらいだが、最後までお世話になり、そういう神話とは別の面も見たので、ここでは一つだけエピソードを書いておきたい。

中山氏が興銀の理事としてGHQと交渉し、「戦犯銀行」としてつぶされる予定だった興銀を救ったのは有名な話だが、そのとき彼は「50年先、日本の金融も直接金融になる。それで興銀の使命が終わるのは日本にとって良いことだ。しかしそれまでは我々が担わなけりゃならん」と主張して、GHQに長期債の発行を認めさせた(日経BP)。

大蔵省の「護送船団行政」やメインバンクシステムを実質的に支えたのが興銀であり、中山氏だったことは周知の事実だ。彼は、山一の救済、日産プリンス、新日鉄の合併など、「旧秩序維持派」とみられることが多いが、それなりの論理はあった。私が「国鉄の分割・民営化は支援したのに、NTTの分割に反対したのはなぜですか?」ときいたら、彼が「問題は国内競争ではなく、国際競争だ」と答えたのが印象的だった。その予想は外れたが、これも10年遅れぐらいで、これから通信の国際競争が始まるかもしれない。

彼はずっと興銀のトップだったというイメージがあるが、頭取は7年しかやっておらず、会長も1970年に退いている。それから20年以上も実質的なトップだったのは、彼の人柄によるものだろう。よく言っておられたのは、「目の前の問題よりも、大きな問題から先に考えろ」ということだった。これは国策銀行だった興銀のカルチャーだと思うが、いつも日本経済を数十年のスケールで考え、私心がないところが、彼の信頼される所以だったのだろう。

ただ後輩の経営陣にとっては、大事な取引先が頭取ではなく、まず「12階」(中山相談役の部屋)に行くのは、気分がよくなかったに違いない。こうした「院政」が変則的な意思決定をもたらし、行内に派閥を生み出したことも事実だ。特に規模拡大で「収穫逓増」をめざす西村正雄氏(若いころから経営の中枢だった)との対立は激しく、彼が1998年に中山氏を(70年ぶりに!)興銀から完全に退かせた。

しかし半世紀の単位でみると、「興銀は50年で消えるべきだ」という中山氏の予想は正しかったし、それはファイナンス業界の方向を見事に予見していた。彼は1980年代から「金融債の役割は終わった。興銀は投資銀行としてグローバルなビジネスに出るべきだ」と主張していた。これに対して当時の経営陣は、金融債を守ろうと金融制度調査会で証券会社と泥仕合を演じ、肝心の金融制度改革はまったく進まなかった。

また中規模のホールセール・バンキングをめざした中山氏の思いとは逆に、80年代後半からの金利自由化と資金過剰で、興銀は不動産融資などの規模拡大路線に走った。その結果、尾上縫事件や住専などで経営は実質的に破綻したが、国有化された長銀や日債銀とは違って、みずほグループに吸収される形でソフトランディングした。中山氏は「あれが興銀の運命だった。体裁よくつぶれてよかった」と言っておられた。

中山氏は外資を警戒し、日本の企業秩序を守ろうとする点では保守派だったが、資本のグローバル化は避けられないと考えていたので、それに備えて企業の再編・強化を進めた。これは今日の言葉でいうと、private equityの機能に近い。日産や新日鉄のような規模の企業の買収・合併は、現在でもKKRのような超一流の投資ファンドしかできないだろう。

ただ、その手法として資本の論理ではなく人脈を使ったところが、他の人にはまねできない中山氏の「名人芸」だった。本来はそれをシステムとして行なうファンドが日本にも育たなければいけなかったのだが、邦銀は「金貸し」から脱却できず、世界の金融革命に取り残されてしまった。中山氏が生きておられたら、「鞍馬天狗ファンド」でも立ち上げて、投げ売りされているサブプライム関連資産の買収に乗り出しているかもしれない。