
本書の重要な指摘は、財産権モデルは創作を促進する唯一の手段ではないということだ。歴史的には、重要な発明に国王が賞金を出すしくみのほうが古く、多くの文明圏で採用されてきた。現代でも、Kremerの提案のようにそういうシステムは可能であり、実験も始まっている。また科学研究への政府助成は、賞金システムの一種だ。
かつて農業社会では、あらゆるものが生物をモデルにして理解されたように、工業社会ではすべてのものを工業製品=私有財産をモデルにして考える。これは認知コストを節約する上では合理的だが、情報という財産モデルに合わないものを工業社会の枠組みに押し込もうとするバイアスが、多くの問題を引き起こしている。
廣松渉のいったように、今後200年ぐらいの世界は言語をモデルにした事的世界観で理解されるようになるとすれば、このゲシュタルト転換には、まだ数十年はかかるだろう。知的財産権をめぐる混乱の根底には、この世界観の違いがあるような気がする。
知的財産といっても著作権、特許権、商標権が待った区別の法律である事が気になります。
それらを纏めて知的財産権と呼ぶところに問題が多いと思います。