北畑隆生氏の「株主はバカ」発言は大反響を呼び、ブログ検索でみると倖田来未の「羊水」発言を上回っている。しかし経産省では、blog.goo.ne.jpは有害サイト(?)としてフィルタリングされているそうなので、官僚諸氏が休日に読めるように、これまでの議論を整理してみた。なお、この記事は専門的で、一部は過去の記事やコメントと重複するので、興味のない人は無視してください。
会社はだれのものか
今回の問題の本質は「バカ」発言ではなく、北畑氏の「真意」を説明した講演録にある。その「会社は株主だけのものか?」というタイトルに示されるように、彼のねらいは会社法の「会社は株主のものだ」という規定の批判にある。彼はこう問いかける:
これに対して、北畑氏は「会社はステークホルダー全体のものだと思います」というが、このステークホルダーとは誰のことだろうか。彼は「株主も含めた、従業員、取引先、消費者など」のことだというが、こういう雑多な利害関係者が、どうやって議決権を行使するのだろうか。こうして関係者を広げていくと「社会的責任」論と似てくるが、これはフリードマンもいうように、株主の金で経営者が名誉を買うモラルハザードだ。逆に、北畑氏のいうように「ステークホルダーを尊重することが企業価値の最大化につながる」のなら、それは結局、株主価値の最大化と同じことだ(Jensen)。
北畑氏は「雇用を維持することも経営者の責任だ」というが、これも逆効果だ。業績が低迷したとき、株主価値を犠牲にして雇用を維持するような企業にはだれも投資しないので、ますます資金繰りが苦しくなり、雇用が維持できなくなる。それより解雇規制を緩和する代わりに、労働者が他社に移動できる技能形成システムを整備したほうがいい。「解雇自由」のスウェーデンで失業率が低いのは、こうした制度のおかげだといわれている。
要するに、会社法105条が規定する意味で、会社は株主だけのものであり、それが経済的にも合理的なのだ。経営者も従業員も会社と契約を結んでいるだけで、所有権(コントロール権)はない。環境や地域社会などの問題については、政府がルールを決め、企業がそれに従うのが民主主義である。
企業買収は悪か
北畑氏のねらいは「株主=無責任」と決めつけることによって、(特に外資系ファンドによる)企業買収を妨害する制度をつくることにあると思われる。彼は、2004年のソトー事件や昨年のブルドックソース事件を例にあげて、堅実経営の企業が、ある日突然、敵対的買収にさらされる恐怖を訴える。しかし、この二つの事件とも、買収は成功しなかった。ソトーの場合は、1株13円だった配当を200円にしたら株価が急騰し、TOB価格を上回った。ブルドックソースの場合は、事後的にポイズン・ピルを導入した。その教訓を北畑氏は、こう要約する:
このように彼の講演録を読んでも、彼の力説する買収防衛策を導入する根拠はどこにも見当たらない。彼は(官僚の習性で)自分の主張に対する批判を先回りして予防線を張っているうちに、自分で自分の論旨を否定してしまったようにみえる。彼の論理を演繹すると、日本で買収防衛策が必要なのは、大部分の日本企業が効率的な経営をしていないからだ、という結論が導かれる。これは残念ながら事実だが、効率の悪い企業を守る制度などというものは資本主義のルールに反する。
種類株式は必要か
しかし経営者が効率的な経営をしていても、何らかの悪意をもって株主価値を下げるために敵対的買収を行なう(あるいは行なうと脅迫する)ファンドがいるかもしれない。それに対抗するために北畑氏が提案している政策が、無議決権株や多議決権株などの種類株式である。北畑氏は、それが買収防衛策として有効だと信じているらしいが、残念ながら経済学の通説は逆である。
いまブルドックソースの株価が100円だが、本来の株主価値(1株あたり)が200円だとする。そこにスティール・パートナーズが150円でTOBをかけてきたが、彼らが経営権を取得してブルドックを切り売りしたら、株価は50円になると予想される。この場合、ブルドックの株主はTOBに応じるべきだろうか?
株式がすべて(議決権つきの)普通株で、すべての株主が合理的であれば、このTOBは成立しない。スティールに売らないで経営を改善すれば、株価を(最大値の)200円まで上げることができるからだ。しかし株式の半分が普通株(A株)、あとの半分が無議決権株(B株)だとすると、スティールはB株にはTOBをかけないで、A株だけにかけるだろう。この場合、A株の株主は、150円でTOBに応じるか、拒否して経営を改善するかの選択に直面する。
これはゲーム理論でよく知られる「複数均衡」だ。もし経営改善の見通しがないと見切りをつけた大株主がTOBに応じると、他の人もなだれをうって同調し、TOBが成立する協調の失敗が起こる。その結果、スティールが会社を投げ売りしたら、A株の株主は利益を得るが、市場でしか売れないB株の株価は50円になるので、株主は損害をこうむる。
したがって無議決権株を買うと、企業買収によって損害をこうむるリスクが高いので、よほど高いプレミアムをつけないと買う投資家はいないだろう。要するに北畑氏の期待とは逆に、無議決権株を導入しても、企業の資金調達コストがかさみ、株主が損害をこうむるだけで、買収防衛策にはならないのだ。したがって1株1票の普通株が合理的だ、というのが通説である(Grossman-Hart 1988)。
買収防衛策は「ぬるま湯経営」を温存する
北畑氏が考えているのは、既存の日本企業をいかに守るかという政策ばかりで、外資系企業やベンチャーの参入障壁は高くなり、古い産業構造の改革もむずかしくなる。そもそも日本の多くの企業は「持ち合い」という鉄壁の買収防衛策をもっているので、大規模な企業買収は不可能だ。おかげで投資家が日本から逃げ、中国やインドに向かっている。それが株安の根本原因である。
企業買収は、非効率なコングロマリットを解体・再構築し、アメリカ経済の復活に貢献したというのが通説だ(Holmstrom-Kaplan)。敵対的買収はその数%しかなく、成功率も低いが、キャッシュフローを浪費している「ぬるま湯」的な経営を改善させる圧力としては大きな意味がある。それによって企業価値が破壊されるリスクよりも、グーグルの時価総額を上回る企業が日本に1社もなくなり、衰退の一途をたどる日本経済で、何もしないリスクのほうがはるかに大きいのではないか。
上のような話は、Tiroleの教科書にていねいに説明してある。もちろん通説がつねに正しいとは限らないので、「企業のかたち研究会」が通説に挑戦しようというのなら立派なことだが、その前に経済学者をまねいてファイナンス理論の勉強会をやってはどうだろうか。
会社はだれのものか
今回の問題の本質は「バカ」発言ではなく、北畑氏の「真意」を説明した講演録にある。その「会社は株主だけのものか?」というタイトルに示されるように、彼のねらいは会社法の「会社は株主のものだ」という規定の批判にある。彼はこう問いかける:
今の会社を見たときに、利益を生み出しているのはだれだと言えるでしょうか。お金は日本に千四百兆円あるわけですし、世界中に金があふれ返っていて、お金を持っている人が「全部、おれのものだ」というので、ほんとうにいいのでしょうか。むしろ会社は、社長以下、研究者、従業員という、現場で日々、創意工夫、改善をする人たちが利益の源泉のはずであって、株主が全部、それを取っていいというのは、今の会社の実態から言うと納得ができません。彼は、経産省が実質的に所管する会社法を理解しているのだろうか。そこには「全部おれのものだ」などということは書いてない。会社法の規定する株主の権利は、次のようなものだ:
第105条 株主は、その有する株式につき次に掲げる権利その他この法律の規定により認められた権利を有する。この1と2は経済学ではキャッシュフロー権、3はコントロール権とよばれる。両者は別の権利だが、コントロール権があればキャッシュフローもコントロールできるので、まとめて所有権(財産権)とよばれる。ここで剰余(residual)というのは、雇用契約などにもとづいて債権者に支払った残り(あるいは損失)であって、「利益を株主が全部とる」権利ではない。「会社は株主のものだ」というのは、こういう具体的で限定された意味である。
1.剰余金の配当を受ける権利
2.残余財産の分配を受ける権利
3.株主総会における議決権
これに対して、北畑氏は「会社はステークホルダー全体のものだと思います」というが、このステークホルダーとは誰のことだろうか。彼は「株主も含めた、従業員、取引先、消費者など」のことだというが、こういう雑多な利害関係者が、どうやって議決権を行使するのだろうか。こうして関係者を広げていくと「社会的責任」論と似てくるが、これはフリードマンもいうように、株主の金で経営者が名誉を買うモラルハザードだ。逆に、北畑氏のいうように「ステークホルダーを尊重することが企業価値の最大化につながる」のなら、それは結局、株主価値の最大化と同じことだ(Jensen)。
北畑氏は「雇用を維持することも経営者の責任だ」というが、これも逆効果だ。業績が低迷したとき、株主価値を犠牲にして雇用を維持するような企業にはだれも投資しないので、ますます資金繰りが苦しくなり、雇用が維持できなくなる。それより解雇規制を緩和する代わりに、労働者が他社に移動できる技能形成システムを整備したほうがいい。「解雇自由」のスウェーデンで失業率が低いのは、こうした制度のおかげだといわれている。
要するに、会社法105条が規定する意味で、会社は株主だけのものであり、それが経済的にも合理的なのだ。経営者も従業員も会社と契約を結んでいるだけで、所有権(コントロール権)はない。環境や地域社会などの問題については、政府がルールを決め、企業がそれに従うのが民主主義である。
企業買収は悪か
北畑氏のねらいは「株主=無責任」と決めつけることによって、(特に外資系ファンドによる)企業買収を妨害する制度をつくることにあると思われる。彼は、2004年のソトー事件や昨年のブルドックソース事件を例にあげて、堅実経営の企業が、ある日突然、敵対的買収にさらされる恐怖を訴える。しかし、この二つの事件とも、買収は成功しなかった。ソトーの場合は、1株13円だった配当を200円にしたら株価が急騰し、TOB価格を上回った。ブルドックソースの場合は、事後的にポイズン・ピルを導入した。その教訓を北畑氏は、こう要約する:
買収を防ぐためには企業価値を高めることが必要だ。時価総額が安いから買収をされる。買収を防ぐためには、日ごろから配当を増やして時価総額を上げていなければいけない。その通りである。経営者が株主価値を最大化することが最善の買収防衛策なのだ。理論的にいえば、経営者が効率的に経営しているかぎり、その企業を買収して利益を上げることはできない(Grossman-Hart 1980)。どうしても買収されるのがいやなら、北畑氏も認めるように、MBOで非上場会社になればいいだけのことだ。
このように彼の講演録を読んでも、彼の力説する買収防衛策を導入する根拠はどこにも見当たらない。彼は(官僚の習性で)自分の主張に対する批判を先回りして予防線を張っているうちに、自分で自分の論旨を否定してしまったようにみえる。彼の論理を演繹すると、日本で買収防衛策が必要なのは、大部分の日本企業が効率的な経営をしていないからだ、という結論が導かれる。これは残念ながら事実だが、効率の悪い企業を守る制度などというものは資本主義のルールに反する。
種類株式は必要か
しかし経営者が効率的な経営をしていても、何らかの悪意をもって株主価値を下げるために敵対的買収を行なう(あるいは行なうと脅迫する)ファンドがいるかもしれない。それに対抗するために北畑氏が提案している政策が、無議決権株や多議決権株などの種類株式である。北畑氏は、それが買収防衛策として有効だと信じているらしいが、残念ながら経済学の通説は逆である。
いまブルドックソースの株価が100円だが、本来の株主価値(1株あたり)が200円だとする。そこにスティール・パートナーズが150円でTOBをかけてきたが、彼らが経営権を取得してブルドックを切り売りしたら、株価は50円になると予想される。この場合、ブルドックの株主はTOBに応じるべきだろうか?
株式がすべて(議決権つきの)普通株で、すべての株主が合理的であれば、このTOBは成立しない。スティールに売らないで経営を改善すれば、株価を(最大値の)200円まで上げることができるからだ。しかし株式の半分が普通株(A株)、あとの半分が無議決権株(B株)だとすると、スティールはB株にはTOBをかけないで、A株だけにかけるだろう。この場合、A株の株主は、150円でTOBに応じるか、拒否して経営を改善するかの選択に直面する。
これはゲーム理論でよく知られる「複数均衡」だ。もし経営改善の見通しがないと見切りをつけた大株主がTOBに応じると、他の人もなだれをうって同調し、TOBが成立する協調の失敗が起こる。その結果、スティールが会社を投げ売りしたら、A株の株主は利益を得るが、市場でしか売れないB株の株価は50円になるので、株主は損害をこうむる。
したがって無議決権株を買うと、企業買収によって損害をこうむるリスクが高いので、よほど高いプレミアムをつけないと買う投資家はいないだろう。要するに北畑氏の期待とは逆に、無議決権株を導入しても、企業の資金調達コストがかさみ、株主が損害をこうむるだけで、買収防衛策にはならないのだ。したがって1株1票の普通株が合理的だ、というのが通説である(Grossman-Hart 1988)。
買収防衛策は「ぬるま湯経営」を温存する
北畑氏が考えているのは、既存の日本企業をいかに守るかという政策ばかりで、外資系企業やベンチャーの参入障壁は高くなり、古い産業構造の改革もむずかしくなる。そもそも日本の多くの企業は「持ち合い」という鉄壁の買収防衛策をもっているので、大規模な企業買収は不可能だ。おかげで投資家が日本から逃げ、中国やインドに向かっている。それが株安の根本原因である。
企業買収は、非効率なコングロマリットを解体・再構築し、アメリカ経済の復活に貢献したというのが通説だ(Holmstrom-Kaplan)。敵対的買収はその数%しかなく、成功率も低いが、キャッシュフローを浪費している「ぬるま湯」的な経営を改善させる圧力としては大きな意味がある。それによって企業価値が破壊されるリスクよりも、グーグルの時価総額を上回る企業が日本に1社もなくなり、衰退の一途をたどる日本経済で、何もしないリスクのほうがはるかに大きいのではないか。
上のような話は、Tiroleの教科書にていねいに説明してある。もちろん通説がつねに正しいとは限らないので、「企業のかたち研究会」が通説に挑戦しようというのなら立派なことだが、その前に経済学者をまねいてファイナンス理論の勉強会をやってはどうだろうか。
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