マルクスの亡霊たち―負債状況=国家、喪の作業、新しいインターナショナルデリダの「脱構築」の概念とマルクスの関係は、古くから指摘されてきた。これは知識人と左翼が同義だったフランスでは当然のことであり、マイケル・ライアンの『デリダとマルクス』のように両者をストレートに結びつけた本もある。デリダ自身も「私は正統的なマルクス主義者です」と(半分冗談で)インタビューで語ったことはあるが、彼の本格的なマルクス論は、これが最初で最後である。

社会主義が崩壊し、マルクスは死んだと思われた1990年代になって、あえてマルクスを論じるところに、デリダの反時代的な姿勢がうかがえる。本書で彼は、マルクスへの「負債」をはっきり認めている。脱構築の概念は、言説を解体することによって、その裏側にある(意識されない)意味をさぐりだすことだが、そうした方法論が初めて語られたのは、マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』である。
人間は自分自身の歴史を作る。だが、思うままにではない。自分で選んだ環境のもとでではなく、すぐ目の前にある、与えられ持ち越されてきた環境のもとで作るのである。死せるすべての世代の伝統が夢魔のように生けるものの頭脳を押さえつけている。
ここで「夢魔」と訳されている言葉に、デリダは「亡霊」という意味を重ねる。人々のイデオロギーや過去の亡霊が(そうとは意識せずに)人々の言動を拘束する、というマルクスの分析は、脱構築の先駆だった。『資本論』でも、マルクスは商品の価値の「幽霊的な性格」を指摘し、商品の「物神性」を論じている。日常的には自明なモノと見える価値が、資本主義社会の生み出した幻想であり、その背後には「人と人との関係」が隠されているのだ、という議論は有名だ。

しかしマルクスは、こうした資本主義の「宗教的性格」を見事に分析しながら、最後には亡霊を追い払い、その本質を労働、生産、交換の物質的世界に求め、労働がその本来の価値で交換される透明な世界を「自由の国」として描く。彼はブルジョア社会の亡霊を批判しながら、最後には労働価値という実体を導き入れてしまうのだ。しかし(後にオーストリア学派が徹底的に批判したように)、こうした古典経済学以来の労働価値説こそ、亡霊にほかならない。

この批判はきわめて本質的であり、いわゆるポストモダン派によるマルクス論としては、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』と並んで、もっともすぐれたものだ。しかも新しい亡霊として、デリダがサイバースペースをあげているところは興味深い。それは本質論に解消されることのない亡霊としての亡霊であり、そこに彼のいう「新しいインターナショナル」の可能性もあるのかもしれない。

しかし、このデリダの著書の中でも最も重要な作品の一つが、日本語訳が出るまでに14年もかかった訳者の怠慢には、強く反省を求めたい。