ナショナリズムは、現代の謎である。それは自由主義や共産主義のように一定の政治的な主張をもつ「主義」ではなく、ひとつのネーション(民族・国民)に所属しているという感情にすぎない。ところがアメリカのように「国民国家」ともいえない国が極端なナショナリズムを掲げて戦争に突入したり、民族とは関係のない「慰安婦」問題が日韓のナショナリズムを刺激したりする現状は、なかなか合理的には理解しにくい。
ただナショナリズムについては、教科書ともいうべき何冊かの本がある。ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』やエルネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』あたりがナショナリズムをフィクションとする主流の立場で、それをある程度自然な民族感情とする立場としては、アンソニー・スミス『ネイションとエスニシティ』といったところだろうか。
アンダーソン流の理解は、印刷資本主義によって各地の言語や文化が統合された「国語」を母体として「国民」という想像上の共同体が形成され、それを主権国家が「公定ナショナリズム」として利用して国民を戦争に動員した、というものだ。こうした古典的な理解では、国民国家は資本主義の上部構造なので、グローバル資本主義や地域紛争で主権国家の求心力が弱まると、ナショナリズムは衰退するはずだった。
ところが今おこっているのは、最初にのべたように変形したナショナリズムの高揚である。かつて宗教が占めていた座を20世紀にはイデオロギーが占め、それが崩壊した21世紀にはナショナリズムが占めることになるのだろうか。イスラム原理主義も、ある意味ではアラブ民族主義という意味でのウルトラ・ナショナリズムなのかもしれない。
・・・という程度のことは、ナショナリズムについて少し考えた人なら、だれでも思いつくだろうが、この877ページもある大冊に書かれているのは、この程度の既存の学説のおさらいにすぎない。ナショナリズムの入門書としても冗漫で繰り返しが多く、読みにくい。世界各地で大きく異なる問題を無理やり「ナショナリズム」一般の問題として観念的に論じているので、アンダーソンやゲルナーなどの引用が何度も出てくるばかりで、論旨が展開しない。しいていえば文献サーベイとしては意味があるかもしれないが、索引がないので事典としても使えない。
ただナショナリズムについては、教科書ともいうべき何冊かの本がある。ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』やエルネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』あたりがナショナリズムをフィクションとする主流の立場で、それをある程度自然な民族感情とする立場としては、アンソニー・スミス『ネイションとエスニシティ』といったところだろうか。
アンダーソン流の理解は、印刷資本主義によって各地の言語や文化が統合された「国語」を母体として「国民」という想像上の共同体が形成され、それを主権国家が「公定ナショナリズム」として利用して国民を戦争に動員した、というものだ。こうした古典的な理解では、国民国家は資本主義の上部構造なので、グローバル資本主義や地域紛争で主権国家の求心力が弱まると、ナショナリズムは衰退するはずだった。
ところが今おこっているのは、最初にのべたように変形したナショナリズムの高揚である。かつて宗教が占めていた座を20世紀にはイデオロギーが占め、それが崩壊した21世紀にはナショナリズムが占めることになるのだろうか。イスラム原理主義も、ある意味ではアラブ民族主義という意味でのウルトラ・ナショナリズムなのかもしれない。
・・・という程度のことは、ナショナリズムについて少し考えた人なら、だれでも思いつくだろうが、この877ページもある大冊に書かれているのは、この程度の既存の学説のおさらいにすぎない。ナショナリズムの入門書としても冗漫で繰り返しが多く、読みにくい。世界各地で大きく異なる問題を無理やり「ナショナリズム」一般の問題として観念的に論じているので、アンダーソンやゲルナーなどの引用が何度も出てくるばかりで、論旨が展開しない。しいていえば文献サーベイとしては意味があるかもしれないが、索引がないので事典としても使えない。