20世紀後半の哲学といえば、構造主義とかポストモダンなどフランス系ばかり話題になるが、実は同じ時期に科学哲学でクーンやファイヤアーベントが展開した「通約不可能性」の理論も、ポストモダンと同じ相対主義だった。そこでは科学も宗教の一種で、どういう理論が選ばれるかは科学者の集団心理で決まる。事実、最近のひも理論は、intelligent designと論理的には同格だ。

すると諸学の基礎であるはずの哲学が、逆に心理学に基礎づけられるということになる。たとえば哲学者がデカルト以来、論じてきた「私」とは何か、という問題も、最近では脳科学で実験的に明らかにされている。今日の科学哲学は、こうした実証科学を参照しないで論じることはできない。極論すれば、脳についての哲学的論議は、脳科学に解消されてしまうかもしれない。これを本書では「哲学の自然化」と呼んでいる。

これは哲学だけの問題ではない。人文科学や社会科学の大部分は、厳密な意味での実証手続きをもたず、内省とcasual empiricismで理論を立ててきた。たとえば「限界効用が逓減する」などという法則が厳密に実証された試しはないが、経済学者はご都合主義的に(計算しやすいように)そういう心理を仮定し、理論を構築してきた。だから行動経済学の実験によって、その法則が否定されると、新古典派理論は根底から崩れてしまう。

20世紀の最初に分析哲学で起こった変化は「言語論的転回」と呼ばれるが、それは「新しい脳」の機能としての言語を分析するにすぎなかった。今、心理学や脳科学のフロンティアは、非言語的な「古い脳」の機能である。これは内省では必ずしも明らかにならないので、実験などの実証手続きが必要になる。かつて内省によって構築されたアリストテレスの自然学が近代の実証科学によって否定されたように、人文科学も社会科学も自然化し、自然科学に吸収されるのかもしれない。