かつて「学生運動10年周期説」というのがあった。1950年前後に共産党が指導した山村工作隊などの武装闘争の時代、1960年の安保闘争、そして1970年ごろの学園闘争である。この法則からいうと、1980年にも同じような事件が起こって不思議ではなかったが、何も起こらなかった。
世界的にも「1968年反乱」以降、大きな学生運動は起こっていない。特にイラク戦争は、ベトナム戦争と同じぐらい不人気なのに、かつてのような暴力的な抗議行動は起こっていない。この原因をベッカーは、1973年に徴兵制がなくなったことに求めている。徴兵制の廃止を提案したのはミルトン・フリードマンで、彼はこれを「自分の人生でもっとも有意義な仕事だった」と回顧している。
これに対してポズナーは、他にもいろいろな原因をあげているが、おもしろいのはインターネットなどの電子メディアが暴力に訴える前の「ガス抜き」になったという点と、学生反乱の究極の理想としての社会主義が崩壊したという点だ。これは当ブログの「2ちゃんねるが学生運動の代わりになっている」という話と同じ趣旨だ。
日本で学生運動がなくなったもう一つの原因は、もはや学生が社会を指導するエリートではなくなったからだろう。途上国では、いまだに学生が反体制運動を指導する傾向が強い。社会主義革命が成功したロシア、中国、ベトナム、カンボジアなどをみても、欧米に留学したエリート学生が革命を指導したケースが多い。
そういう革命が成功しなかったことは日本にとって幸運だったが、70年安保を闘った団塊の世代では、多くの人が人生を棒に振った。最近、新著を出した山本義隆氏は、かつては将来のノーベル物理学賞候補ともいわれたが、東大全共闘の議長になってドロップアウトし、予備校教師になった。彼の『磁力と重力の発見』という難解な大著が予想外のベストセラーになったのも、そうした団塊の世代のルサンチマンに訴えたからだろう。
そういう意味では、学生運動なんかないほうがいいのだが、最近のあまりにも無気力な学生を見ていると、かつてキャンパスで怒号が飛び交った時代がなつかしくなる。学生時代にマルクス主義の影響を受けたことは、私にとっては貴重な経験だった。いわばマルクス主義は思想的な「父」であり、こうした「大きな物語」と格闘し、それを乗り越えることで初めて思想的な自立ができたように思う。その意味では、今の学生はいつまでも乳離れしないように見える。
世界的にも「1968年反乱」以降、大きな学生運動は起こっていない。特にイラク戦争は、ベトナム戦争と同じぐらい不人気なのに、かつてのような暴力的な抗議行動は起こっていない。この原因をベッカーは、1973年に徴兵制がなくなったことに求めている。徴兵制の廃止を提案したのはミルトン・フリードマンで、彼はこれを「自分の人生でもっとも有意義な仕事だった」と回顧している。
これに対してポズナーは、他にもいろいろな原因をあげているが、おもしろいのはインターネットなどの電子メディアが暴力に訴える前の「ガス抜き」になったという点と、学生反乱の究極の理想としての社会主義が崩壊したという点だ。これは当ブログの「2ちゃんねるが学生運動の代わりになっている」という話と同じ趣旨だ。
日本で学生運動がなくなったもう一つの原因は、もはや学生が社会を指導するエリートではなくなったからだろう。途上国では、いまだに学生が反体制運動を指導する傾向が強い。社会主義革命が成功したロシア、中国、ベトナム、カンボジアなどをみても、欧米に留学したエリート学生が革命を指導したケースが多い。
そういう革命が成功しなかったことは日本にとって幸運だったが、70年安保を闘った団塊の世代では、多くの人が人生を棒に振った。最近、新著を出した山本義隆氏は、かつては将来のノーベル物理学賞候補ともいわれたが、東大全共闘の議長になってドロップアウトし、予備校教師になった。彼の『磁力と重力の発見』という難解な大著が予想外のベストセラーになったのも、そうした団塊の世代のルサンチマンに訴えたからだろう。
そういう意味では、学生運動なんかないほうがいいのだが、最近のあまりにも無気力な学生を見ていると、かつてキャンパスで怒号が飛び交った時代がなつかしくなる。学生時代にマルクス主義の影響を受けたことは、私にとっては貴重な経験だった。いわばマルクス主義は思想的な「父」であり、こうした「大きな物語」と格闘し、それを乗り越えることで初めて思想的な自立ができたように思う。その意味では、今の学生はいつまでも乳離れしないように見える。
中央教育審議会の方針などで「国家に逆らう人間」を
排除した結果ではないでしょうか?
骨抜きにした結果の弊害も考えずに。