日本資本主義論争といってもピンと来ない人が多いだろうが、戦前に日本の知識人を二分して行なわれた大論争である。簡単にいうと、日本はまだ封建社会であり、まずブルジョア革命が必要だとする講座派と、日本はすでにブルジョア社会であり、社会主義革命が必要だとする労農派の論争だが、戦後になって高度成長が軌道に乗ると、こういう後進国としての問題意識が薄らいで、うやむやになってしまった。
ただ日本の知識人には、モデルとしての欧米からいかに遅れているかという観点から自己を意識する傾向が強い。大塚久雄も川島武宜も講座派の影響を受けており、マルクス主義から距離を置いた丸山真男にも「自立した市民」を理想とする講座派の影響は色濃い。こうした後進国意識は、「グローバル・スタンダード」を主張する一部のエコノミストや、欧米の基準で日本の「性奴隷」を断罪する左翼メディアにも受け継がれている。
講座派の理論は、実は32年テーゼとよばれるコミンテルンの方針にもとづくものだ。これは天皇制を「絶対主義」と規定し、それを打倒するブルジョア革命を共産党の当面の任務とした。この方針は戦後も日本共産党の綱領に受け継がれ、京大では講座派の教義に忠誠を誓わない者は大学院に進学できなかった。他方、東大は労農派の末裔である宇野経済学の拠点となった。しかし現実の政策としては、日本でブルジョア革命が必要だという「二段階革命論」は現実性を失い、共産党もこれを「民主連合政府」などという表現にしたあげく、事実上放棄した。
日本の後進国コンプレックスは、1980年代に日本企業が世界市場を制覇した時期に克服されたかに見え、「日本は資本主義を超える人本主義だ」といった夜郎自大な議論が流行した。世界銀行は、1993年になって『東アジアの奇跡』という大規模な共同研究を発表したが、それは日本のバブル崩壊やアジア金融危機で吹っ飛んでしまった。今われわれは、講座派が出発した時点に戻ってしまったようにみえる。やはり資本主義には、英米型をモデルにする以外の道はないのだろうか。
75年前にも、究極の近代化論としての二段階革命論が提唱される一方で、近代の超克が叫ばれ、「アジア的共同体」への回帰や「五族協和」のスローガンが「大東亜共栄圏」につながっていった。安倍首相のナショナリズムには、彼の祖父が満州で建設しようとした国家社会主義の匂いがある。いま中国やインドの台頭は、英米型資本主義でも日本型資本主義でもない新しいモデルを突きつけているようにも見えるが、歴史や制度を視野の外に置く主流経済学は、それにどう対応すべきかを何も教えてくれない。
本書は「講座派の遺産」を戦後の近代化論まで追跡して検証するというテーマ設定はいいのだが、残念ながら著者が日本語の文献を十分理解しないで問題を自己流に一般化しているため、何をいおうとしているのかよくわからない。紹介される文献のバランスも悪く、講座派と無関係な宇野経済学の紹介が100ページ近くある。訳も悪く、理解不能な文が随所にみられる。いま日本の直面している問題を考える上でも、もっとちゃんとした日本マルクス主義の研究書が必要だと思う。
ただ日本の知識人には、モデルとしての欧米からいかに遅れているかという観点から自己を意識する傾向が強い。大塚久雄も川島武宜も講座派の影響を受けており、マルクス主義から距離を置いた丸山真男にも「自立した市民」を理想とする講座派の影響は色濃い。こうした後進国意識は、「グローバル・スタンダード」を主張する一部のエコノミストや、欧米の基準で日本の「性奴隷」を断罪する左翼メディアにも受け継がれている。
講座派の理論は、実は32年テーゼとよばれるコミンテルンの方針にもとづくものだ。これは天皇制を「絶対主義」と規定し、それを打倒するブルジョア革命を共産党の当面の任務とした。この方針は戦後も日本共産党の綱領に受け継がれ、京大では講座派の教義に忠誠を誓わない者は大学院に進学できなかった。他方、東大は労農派の末裔である宇野経済学の拠点となった。しかし現実の政策としては、日本でブルジョア革命が必要だという「二段階革命論」は現実性を失い、共産党もこれを「民主連合政府」などという表現にしたあげく、事実上放棄した。
日本の後進国コンプレックスは、1980年代に日本企業が世界市場を制覇した時期に克服されたかに見え、「日本は資本主義を超える人本主義だ」といった夜郎自大な議論が流行した。世界銀行は、1993年になって『東アジアの奇跡』という大規模な共同研究を発表したが、それは日本のバブル崩壊やアジア金融危機で吹っ飛んでしまった。今われわれは、講座派が出発した時点に戻ってしまったようにみえる。やはり資本主義には、英米型をモデルにする以外の道はないのだろうか。
75年前にも、究極の近代化論としての二段階革命論が提唱される一方で、近代の超克が叫ばれ、「アジア的共同体」への回帰や「五族協和」のスローガンが「大東亜共栄圏」につながっていった。安倍首相のナショナリズムには、彼の祖父が満州で建設しようとした国家社会主義の匂いがある。いま中国やインドの台頭は、英米型資本主義でも日本型資本主義でもない新しいモデルを突きつけているようにも見えるが、歴史や制度を視野の外に置く主流経済学は、それにどう対応すべきかを何も教えてくれない。
本書は「講座派の遺産」を戦後の近代化論まで追跡して検証するというテーマ設定はいいのだが、残念ながら著者が日本語の文献を十分理解しないで問題を自己流に一般化しているため、何をいおうとしているのかよくわからない。紹介される文献のバランスも悪く、講座派と無関係な宇野経済学の紹介が100ページ近くある。訳も悪く、理解不能な文が随所にみられる。いま日本の直面している問題を考える上でも、もっとちゃんとした日本マルクス主義の研究書が必要だと思う。
については、どう思われますか?
私は、あれこそ立花の知性がもっとも発揮されたルポルタージュだと思う。
共産党シンパ=マルクス主義者ではありませんが、河上肇ら戦前のマルクス主義学者の大半が共産党シンパであり、党に多額の献金をしている点からいっても、共産党研究なしには、戦前の日本マルクス主義は語れないし、また、それで大半は尽くされているんではないでしょうか。