きのうの記事のコメント欄で指摘された英文読売の記事を読んで、私も同じ感想をもった。
米国との友好関係を築こうと努力してきた日本の知識人は、今回の米国メディアの報道に深く傷ついている。彼らの事実誤認だけでなく、性的な問題で日本に説教しようとする無神経さを日本の知識人が不愉快に思うのは当然だ。
海外メディアの一連の記事でいちばん驚いたのは、3/6のNYT(電子版)の記事の安倍首相の写真が、別人のものになっていたことだ。私がEメールで指摘したら、さすがにすぐ削除されたが、NYTの編集者でさえ日本の首相の顔を知らないわけだ。イラク戦争に反対する人々を「恥辱の殿堂」と呼んだ古森義久氏も、困惑している:
日本側では対米同盟の堅固な支持層というのは、自国の国益や国家意識、さらには民主主義、人道主義という普遍的な価値観を強く信奉してきた国民層だといえよう。 米国が慰安婦問題で日本側をたたけばたたくほど、まさにこの層が最も屈辱や怒りを感じ、同盟相手の米国への不信を強くするのだ、ということは米側に向かっても強調したい。
古森氏には気の毒だが、彼のような「親米保守」がアメリカを崇拝するほどには、アメリカ人は日本を重視していない。彼らにとっては、いまだに日本人は世界を侵略する気味の悪い黄色人種であり、その差別意識と警戒心は、戦後60年たっても変わっていないのだ。

おかしなことに、そういう日本たたきをあおる朝日新聞や吉見義明氏のような左翼文化人も、みずからを国際的と自認している。彼らは「戦争犯罪を否定する日本人」というステレオタイプを作り出し、それを指弾するマッチポンプによって「国際世論」に迎合し、「国際的な学界」の評価を得ているのだ。今回の事件についての「知日派」学者のコメントを見て唖然としたのは、彼らがまだ15年前の朝日新聞のレベルの事実認識で議論していることだ。彼らは121決議案を「慎重な表現」で日本に警告するものと評価し、日本の「勇気ある知識人」をたたえる:
日本には、政府が戦争犯罪に責任をとるよう求めて闘ってきた多くの勇気ある学者、ジャーナリスト、法律家、そして一般市民がいる。彼らの努力は特に賞賛に値する。というのは、そういう努力は、困難でしばしば意気阻喪させる状況で続けられてきたからだ。歴史への責任を問う公的な知識人は、いつも侮辱的な言葉を投げつけられ、暴力で脅迫されてきたが、警察はそれを止めようともしない。(Tessa Morris-Suzuki)
彼らにとっては、「醜い日本人」という偏見を裏書きしてくれる朝日新聞だけが正しいメディアなのだ。この程度の研究者が「専門家」として通用するのは、日本語という参入障壁のおかげだろう。彼らのような「リベラル知識人」は、競争の激しい経済学などではとっくに絶滅しているが、「日本研究」のような周辺的な分野では辛うじて生き残っているわけだ。

現代の世界を混乱させている元凶は、こうした欧米諸国の自民族中心主義である。日本の右翼も左翼も、別の形でそれに媚びを売ってきたが、今回の慰安婦騒ぎではしなくも明らかになったのは、彼らの愛は片思いだったということだ。それはたとえてみれば、こんな光景だろうか:結婚して60年以上、ひたすら夫に仕えてきた妻が、あるとき夫の日記を読むと、初恋の人への断ち切れぬ思いがつづられ、「どうしても妻が好きになれない」と書かれていた・・・