第2次大戦末期の沖縄戦で、日本軍が住民に集団自決を命じたという記述が、今年の検定で教科書から削除するよう求められた。その理由として文部科学省は、沖縄の慶良間守備隊長だった赤松嘉次元大尉の遺族らが大江健三郎氏と岩波書店を相手どって起こした訴訟をあげている。大江氏は『沖縄ノート』(岩波新書)で次のように記す:
にもかかわらず、大江氏と岩波書店は、それから30年以上もこの本を重版してきた。彼らの人権感覚は、どうなっているのだろうか。訴訟に対しても、彼らは「軍が命令を出したかどうかは本質的な問題ではない」とか「この訴訟は歴史に目をおおう人々が起こしたものだ」などと逃げ回っている。おわかりだろう。慰安婦について事実関係が反証されたら「強制連行は本質的な問題ではない」と論点をすりかえる朝日新聞と、岩波書店=大江氏の論法はまったく同じなのだ。
では彼らにとって本質的な問題とは何だろうか。それは戦争は絶対悪であり、軍隊のやることはすべて悪いという絶対平和主義である。沖縄で日本軍を糾弾した大江氏は、なぜかヒロシマでは原爆を落とした米軍を糾弾せず、被爆者の「悲惨と威厳」を語り「人類の課題」としての核兵器の恐怖を訴える。そういう少女趣味が「革新勢力」をながく毒してきた結果、まともな政治的対立軸が形成されず、自民党の一党支配が続いてきた。
こういう人々を「自虐史観」と呼ぶのは見当違いである。彼らは日本という国家に帰属意識をもっていないからだ。大江氏のよりどころにするのは、憲法第9条に代表されるユートピア的国際主義であり、すべての国家は敵なのだから、彼らの反政府的な議論は他虐的なのだ。社会主義が健在だった時代には、こういう国際主義も一定のリアリティを持ちえたが、冷戦が終わった今、彼らの帰属する共同体はもう解体してしまったのである。
戦争を阻止できなかったという悔恨にもとづいてできた戦後の知識人の仮想的なコミュニティを、丸山真男は悔恨共同体とよんだ。彼らは日本が戦争になだれ込んだ原因を近代的な個人主義や国民意識の欠如に求めたが、それは冷戦の中で「ナショナリズム対インターナショナリズム」という対立に変質してしまった、と小熊英二氏は指摘している。
左翼的な言説の支柱だった国際主義のリアリティは冷戦とともに崩壊したが、彼らはそれをとりつくろうために「アジアとの連帯」を打ち出し、他国の反日運動を挑発するようになった。ネタの切れた朝日=岩波的なメディアも、「アジアへの加害者」としての日本の責任を追及するようになった。1990年代に慰安婦騒動が登場した背景には、こうした左翼のネタ切れがあったのだ。
しかしこういう転進(敗走)も、袋小路に入ってしまった。大江氏のように「非武装中立」を信じている人は、数%しかいない。韓国や中国に情報を提供して日本政府を攻撃させる手法も、かえって国内の反発をまねき、ナショナリズムを強める結果になってしまった。当ブログへのコメントでも、朝日新聞が他国の反日運動と結託しているという批判が強い。
社会主義は1990年前後に崩壊したが、それに寄生していた大江氏のような精神的幼児や、さらにそれに依拠していた朝日=岩波的メディアは、まだ生き残っている。彼らが退場し、その子孫である団塊の世代が一線から退いたとき初めて、人類史上最大の脇道だった社会主義を清算できるのだろう。
追記:2008年3月28日、大阪地裁で原告敗訴の判決が出た。これは「軍の命令があったとは断定できないが、関与はあった」というもので、実質的には原告勝訴である。原告は最初から「関与がなかった」とは主張していない。軍の関与なしに手榴弾を入手することは不可能だ。争点は、赤松・梅沢隊長が「自決を命令」した「屠殺者」なのかどうかという点だ。これについて判決は、大江氏の記述が虚偽であることを認めつつ、「誤認してもしょうがない」と彼の面子を立てたわけだ。
こういう論理構成なら、控訴審でもくつがえせないだろう。名誉毀損があまり広い範囲で認められるのも表現の自由を侵害するので、この判決は司法的には妥当なところだろう。しかし事実にもとづかないで、赤松大尉を「屠殺者」と表現した大江氏の罪は消えない。岩波書店は、この表現を修正もしないのか。それとも、軍国主義者には人権もないのか。
新聞は、慶良間諸島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男[赤松元大尉]が、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。[...]かれは25年ぶりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想までもいだきえたであろう。(pp.208-211、強調は引用者)。といった独特の悪文で、たった一つの新聞記事をもとにして、赤松大尉を(ナチの戦犯として処刑された)アイヒマンにたとえて罵倒する妄想が8ページにわたって延々と続く。この事実関係は、1973年に曽野綾子氏が現地調査を行なって書いた『ある神話の背景』で、完全にくつがえされた。赤松大尉は住民に「自決するな」と命じていたことが生存者の証言で明らかにされ、軍が自決を命じたと申告したのは遺族年金をもらうための嘘だったという「侘び証文」まで出てきたのだ。
にもかかわらず、大江氏と岩波書店は、それから30年以上もこの本を重版してきた。彼らの人権感覚は、どうなっているのだろうか。訴訟に対しても、彼らは「軍が命令を出したかどうかは本質的な問題ではない」とか「この訴訟は歴史に目をおおう人々が起こしたものだ」などと逃げ回っている。おわかりだろう。慰安婦について事実関係が反証されたら「強制連行は本質的な問題ではない」と論点をすりかえる朝日新聞と、岩波書店=大江氏の論法はまったく同じなのだ。
では彼らにとって本質的な問題とは何だろうか。それは戦争は絶対悪であり、軍隊のやることはすべて悪いという絶対平和主義である。沖縄で日本軍を糾弾した大江氏は、なぜかヒロシマでは原爆を落とした米軍を糾弾せず、被爆者の「悲惨と威厳」を語り「人類の課題」としての核兵器の恐怖を訴える。そういう少女趣味が「革新勢力」をながく毒してきた結果、まともな政治的対立軸が形成されず、自民党の一党支配が続いてきた。
こういう人々を「自虐史観」と呼ぶのは見当違いである。彼らは日本という国家に帰属意識をもっていないからだ。大江氏のよりどころにするのは、憲法第9条に代表されるユートピア的国際主義であり、すべての国家は敵なのだから、彼らの反政府的な議論は他虐的なのだ。社会主義が健在だった時代には、こういう国際主義も一定のリアリティを持ちえたが、冷戦が終わった今、彼らの帰属する共同体はもう解体してしまったのである。
戦争を阻止できなかったという悔恨にもとづいてできた戦後の知識人の仮想的なコミュニティを、丸山真男は悔恨共同体とよんだ。彼らは日本が戦争になだれ込んだ原因を近代的な個人主義や国民意識の欠如に求めたが、それは冷戦の中で「ナショナリズム対インターナショナリズム」という対立に変質してしまった、と小熊英二氏は指摘している。
左翼的な言説の支柱だった国際主義のリアリティは冷戦とともに崩壊したが、彼らはそれをとりつくろうために「アジアとの連帯」を打ち出し、他国の反日運動を挑発するようになった。ネタの切れた朝日=岩波的なメディアも、「アジアへの加害者」としての日本の責任を追及するようになった。1990年代に慰安婦騒動が登場した背景には、こうした左翼のネタ切れがあったのだ。
しかしこういう転進(敗走)も、袋小路に入ってしまった。大江氏のように「非武装中立」を信じている人は、数%しかいない。韓国や中国に情報を提供して日本政府を攻撃させる手法も、かえって国内の反発をまねき、ナショナリズムを強める結果になってしまった。当ブログへのコメントでも、朝日新聞が他国の反日運動と結託しているという批判が強い。
社会主義は1990年前後に崩壊したが、それに寄生していた大江氏のような精神的幼児や、さらにそれに依拠していた朝日=岩波的メディアは、まだ生き残っている。彼らが退場し、その子孫である団塊の世代が一線から退いたとき初めて、人類史上最大の脇道だった社会主義を清算できるのだろう。
追記:2008年3月28日、大阪地裁で原告敗訴の判決が出た。これは「軍の命令があったとは断定できないが、関与はあった」というもので、実質的には原告勝訴である。原告は最初から「関与がなかった」とは主張していない。軍の関与なしに手榴弾を入手することは不可能だ。争点は、赤松・梅沢隊長が「自決を命令」した「屠殺者」なのかどうかという点だ。これについて判決は、大江氏の記述が虚偽であることを認めつつ、「誤認してもしょうがない」と彼の面子を立てたわけだ。
こういう論理構成なら、控訴審でもくつがえせないだろう。名誉毀損があまり広い範囲で認められるのも表現の自由を侵害するので、この判決は司法的には妥当なところだろう。しかし事実にもとづかないで、赤松大尉を「屠殺者」と表現した大江氏の罪は消えない。岩波書店は、この表現を修正もしないのか。それとも、軍国主義者には人権もないのか。
>彼らが退場し、その子孫である団塊の世代が一線から退いたとき初めて、人類史上最大の脇道だった社会主義を清算できるのだろう。
日本から、ですね。
でもおかしいのは、社会学者が言うには近代日本は強力な官僚機構と土着的な原始共産主義的な富の再分配が共存する事実上世界最強の社会主義国であり、その統治者こそが自民党だったというのに、なぜか彼らはその自民党こそを社会主義の最大の敵とみなしていた(その反動が今の市場原理主義の導入ですよね)。
76世代からすれば、つまるところ所謂進歩主義者の目指す社会主義って、頭の中がお花畑だった団塊世代が、「弱者」を創出しそれを救う事で自らの存在価値を見出そうとした極めて程度の低いマスターベーションだったように思えます。それを社会主義思想などというには、社会主義に失礼です。
実社会でも、この団塊世代はやっかいで、ちっとも普遍的な価値を持たない「プロジェクトX」的ラッキーな成功譚にしがみ付き、若者への富の再分配を阻害するだけの寄生虫に過ぎないのではないでしょうか。
彼らに早く引導を渡さないと、敗戦処理をさせられるのはどうせ私たちです。廻りを見渡しても、我ら76世代には時代の人柱にされた怨嗟が渦巻いています。
件の朝日にしても、外野のAERA(あれもお花畑フェミニズムに毒されているとは思いますが)なんかは、個別の記事単位でみれば少なくとももう少し現実的。比較的若い記者は、朝日の論調に必ずしも同調していないということでしょうか。とすれは、やはり癌は論説張ってる団塊世代です。
正直、もういい加減にしてもらえませんかね。
池田様もご留意を。