きのうのシンポジウムの第2セッションでは、ブログと既存メディアの対立が話題になった。よくネット上の言論が「保守的」だとか「ネット右翼」が多いとかいうが、これは違うと思う。佐々木さんが私とまったく同じ意見だったが、これは左右対立ではなく、世代間対立なのだ。

当ブログの慰安婦をめぐるコメントをみてもわかるように、この問題を「大東亜戦争肯定論」のような立場で考えている人はほとんどなく、多くの人はイデオロギー的にはナイーブだ。また、2ちゃんねるで盛り上がった「奥谷禮子祭り」では、格差社会を批判する左翼的な意見が圧倒的だった。問題はイデオロギーではないのだ。

こうしたanonymous majorityに共通しているのは、私の印象では、既存メディアへの不信感である。たとえば臓器移植の募金や検察の「国策捜査」を批判することは、既存メディアにはできない。そういう建て前論の嘘っぽさや、取材先との関係でものがいえない偽善的な「正義の味方」に対するアンチテーゼが、ブログに出ているのだ。

私は戦後の第2世代だから、新憲法の民主主義を賞賛する日教組の先生の教育を受け、朝日新聞や岩波書店に知的な権威があった時代だ。高校ぐらいまでは「反戦・平和」の理念を単純に信じていたし、それを社会科学的に突き詰めるとマルクス主義になるから、学園紛争などにも参加した。しかしマルクス主義がどうしようもない代物であることは、ちゃんと勉強すればすぐわかる。この意味では、70年代に左翼的イデオロギーの知的な権威はなくなっていた。

しかし、こうした知的なレベルでの左翼の没落と、実際の世の中の動きにはかなりずれがあった。政治的には、田中角栄によって社会主義的な「1970年体制」が完成され、成長の分け前をバラマキ福祉で再分配する「革新自治体」が支持を得るなど、社民的システムが80年代に全盛になる。家父長的な「日本的経営」が世界のお手本として賞賛されたが、実際には潜在成長率(生産性)は大きく低下していた。

ところが80年代末に社会主義が崩壊し、次いでバブルが崩壊すると、左翼的イデオロギーが消滅するとともに、バラマキも不可能になった。インターネットが登場したのは、こうした社会主義後の世界だったのである。そこでは、反抗すべきエスタブリッシュメントは、かつてのような「アメリカ帝国主義」や「独占資本」ではなく、平和主義や平等主義を掲げて反政府的なポーズをとる(そのくせ電波利権や記者クラブで行政に寄生している)メディアの偽善だ。

こういう反抗は日本社会の建て前では許されないので、匿名にならざるをえない。それはメディアにも認知されないので、「ネット右翼」や「卑劣な2ちゃんねらー」といった形で、もっぱら否定的に描かれる。もちろん、そこに否定的な要素があることは事実だが、かつての学園紛争もほとんどはただの暴力だった。違いは、かつてはマルクス主義という理念や党派がそれなりにあったのに、ネット上の反抗には理念も組織もないことだ。

つまり若者の異議申し立ての方法が街頭の暴力からネット上の言論に変わり、その対象が政府よりもメディアになっているのではないか。こういう反抗は、たいていの場合は単なる若者の過剰なエネルギーの発散だが、うまく水路づけすれば新しいものを生み出す可能性もある。60年代のアメリカの「対抗文化」は、インターネットやGNUなどのイノベーションを生み出し、クリントン=ゴア政権のように国家を動かすようになった。日本でも、こういうエネルギーを2ちゃんねるで無駄に発散させているのはもったいない。