2ちゃんねるの閉鎖が秒読みに入ったようだ。世の中では民事の差し押さえが話題になっているが、私の印象では、ひろゆきが「年収は日本の人口より多い」などと公言していることのほうが引っかかると思う。国税がこういう発言を放置するとは思えないし、警察も裁判所の命令を公然と無視し続ける人物を見逃さないだろう。

ひろゆきは「賠償金を取る方法はない」と高をくくっているようだが、バブルの処理のときは、同様に開き直る不動産業者を警察は「競売妨害」などの罪で大量に投獄した。要は「あいつは悪い奴だ」というコンセンサスができるかどうかが問題で、そういう「国策」があれば犯罪は(よしあしはともかく)いくらでもつくれるのだ。ライブドアやWinnyには擁護論が高まったが、2ちゃんねるが閉鎖されても同情する人はほとんどいないだろう。

私も2ちゃんねるはほとんど読まないので、閉鎖されたとしても惜しむ気にはまったくならない。その功罪を精算すれば、日本で匿名性を悪用する習慣が定着し、Wikipediaまで汚染した害毒のほうがはるかに大きい。しかし世のビジネスマンが、2ちゃんねるから学ぶべきことが一つだけある。それは、ウェブでサービスが軌道に乗るにはシステムの自由度を高めることが必要条件だということである。

オープンソースや「ユーザー生成コンテンツ」を支えているのは、金銭的なインセンティヴではなく、ユーザーが情報を提供するモチベーションである。インセンティヴは報酬によって引き上げることができるが、モチベーションを上げる決まった方法はない。個人が情報を生産する目的は多様であり、その成果の尺度も決まっていないからだ。しかし一つだけいえることは、こうした多様な目的を許容する自由度が高いほどモチベーションを高めやすいということだ。だから、なるべくオープンにして参加の障壁を下げることが不可欠である。

自由度を上げると、ノイズも大きくなるが、LinuxやWikipediaのように母集団が大きくなれば、フィードバックも大きくなる(*)。「みんなの意見は正しい」とは限らないが、「集団の知恵」でノイズを事後的に修正することも可能になる。この場合に重要なのは、間違いをおかさないことではなく、ちょっとぐらい間違えてもシステム全体に影響が及ばないよう冗長性をもたせ、過渡的な間違いは許容することだ。それがインターネットのbest effortの思想である。

日本の企業が情報産業で失敗するのは、この点を理解していないからだ。製造業では、欠陥車で人が死んだらあとで直しますというわけには行かないので、事前に品質管理をしなければならないが、情報の世界では間違いを事後的に修正するしくみさえしっかりしていればよい。ところが個人情報保護法をめぐる騒動をみればわかるように、日本の企業は(政府やメディアも)一つの間違いも許さないという製造業のカルチャーがいつまでも抜けない。

もちろん、自由は必要条件であって十分条件ではない。ただ自由なだけでは、いくらアクセスが集まってもビジネスとして生き残れないから、自由をそこなわない範囲で秩序を維持する設計が必要だ。しかし両者は単純なトレードオフの関係にはない。最初から厳重に品質管理して参加を制限するとユーザーが集まらず、サービスそのものが成り立たないので、いくら品質が高くても意味がない。自由と秩序は、前者なしで後者がありえない辞書的順序になっているのである。

この問題は、今後ITの主戦場が家電に移ると、さらに深刻になるだろう。BML、イーピー、コピーワンス、サーバー型放送など、テレビ業界と家電メーカーの鎖国型ビジネスモデルは死屍累々なのに、またアクトビラのようにコンテンツを事前に「検閲」するシステムが出てくる。多くの大企業が資金や技術を結集したサービスがみんな失敗したのに、1人の不良青年がつくったシステムがこれほど大きなインパクトを社会に与えたのはなぜなのかを、日本の企業は真剣に考えるべきだ。

(*)栗原潔氏のブログによれば、Wikipediaの前身としてJimmy Walesは最初にNupediaというのをつくったそうだ。これは参加を博士号取得者に限り、7段階ものピア・レビューで審査するもので、3年間で24項目しかできなかった。これを閉鎖し、Ward CunninghamのWikiWikiWebのアイディアを取り入れたのが現在のWikipediaである。