Moral Sentiments and Material Interests: The Foundations of Cooperation in Economic Life (Economic Learning and Social Evolution)
エゴイズムを正面きって肯定し、個々人が欲望を最大化する結果が「見えざる手」によって最適の結果をもたらす、というのがアダム・スミス以来の経済学のセントラル・ドグマだが、スミスにはもう一つの(ほとんど読まれない)『道徳感情論』という本がある。

ここで彼は、他者への「共感」がなければ社会秩序は維持できないとしたが、経済学はこれを無視し、利己的な動機だけで秩序(均衡)が成立することを数学的に証明しようとした。しかし一般均衡理論はかえって現実的な条件では均衡は存在しえないことを証明してしまった。超合理的な「代表的個人」を想定する合理的期待仮説も、実証的に棄却される。

経済学者の多くも、合理主義的な経済学に未来はないと思いながらも、学生にはそれを教えている。系統的な理論は今のところそれしかない、というのが彼らの言い訳だが、行動経済学や実験経済学の結果を理論的に説明しようという試みも始まっている。

本書の編著者は、かつて「ラディカル・エコノミスト」として新古典派経済学を批判したが、最近では進化の概念によって経済学の再編成を企てている。そのコアになる概念は互酬性である。これは人類学が、モースの時代から中心概念としてきた贈与を支える原理である。

人間は利己的ではなく互酬的

人間は社会性昆虫と同様、個体が孤立して生きることができないので、エゴイズムを制御して集団を維持することが生存競争においてきわめて重要だった。本書ではゲーム理論の実験を多くの社会で行い、どのような行動仮説が支持されるかを検証している。

自己の利益のみを最大化する自己愛(self-regard)仮説は、いかなる社会でも棄却される。100ドルを2分割する提案をし、相手がその提案を拒否したら両方とも0になる最後通牒ゲームでは、合理的な提案は相手に1ドルを与える(自分が99ドルとる)ことだが、実験ではそういう行動は自閉症の患者と経済学部の学生にしか見られない。

この提案を拒否するのは(新古典派の意味では)合理的ではない。たとえ1ドルでも、もらうほうが得だからである。しかし、すべての相手がそういう提案を拒否し、それを予期する多くの提案者は50ドル対50ドルを提案するが、この比率は文化圏によって違う。

こういう「非合理的」な行動の原因は、公平性についての感情が共有されているためと考えられる。それを説明する行動仮説として本書が提案するのは、条件つきで他人と協力し、ルールに違反した者は排除する強い互酬性(strong reciprocity)である。

これはモースやマリノフスキーが未開社会に見出した贈与の原理と同じである。そこでは贈与は返礼と一体であり、一方的に与えるのではなく、必ずお返しすることが集団への帰属意識を生み出す。贈り物を返さない個人は集団から排除される。

こうした集団的な行動は、どこまで遺伝的に決まり、どこからが環境によるものだろうか。これについては、異なる文化的条件で同じ実験を行なった結果、遺伝的決定論より文化的な要因の影響のほうが大きいというのが本書の結論だ。基本的な欲望や感情は遺伝的に決まるが、それがどう行動に現れるかは文化や習慣によって決まるのである。