ふだんはほとんどテレビを見ないが、正月ずっと家にいたので、いやでもテレビを見てしまう。しかし特に民放の番組は、ほとんど5分と見ていられない。せりふを字幕でなぞり、映像を見ればわかることをコメントでなぞり、ビデオ素材の内容をスタジオで「気の毒ですねぇ」などとなぞる。このしつこく相槌を打つ傾向はワイドショーでもっとも顕著だが、最近はニュース番組にも広がり、「報道ステーション」などはスタジオの時間の半分ぐらいはキャスターの個人的な感想だ。

少なくとも私がテレビの仕事をしていたころは、字幕は絵を殺すので最小限にしろと教育された。特に日本人の言葉に字幕を入れるのは、方言が聞き取りにくい場合など、ごくまれにあったが、なまりをバカにしているように受け取られるので、なるべくやってはいけないことだった。ビデオからスタジオに返したとき余計な感想をいうのは野暮で、NHKの番組の受けコメントはたいてい演出サイドで書いた補足情報である。いつも勝手に余分な受けをつけた畑恵アナウンサーは、ニュースを下ろされた。

これって実は、男の感覚なのである。男同士で、たとえば困っているとき「気持ちはわかるよ」などと相槌ばかり打ってもらってもしょうがないし、そういう余計なことはいわないが、女同士の会話を横で聞いていると、この種の無意味な相槌が実に多い。この特徴はメディアでも顕著で、立花隆氏は女性週刊誌のアンカーをつとめていたころ、記者の書いた記事に「なんと悲しい話だろう」といった形容詞をたくさんつけて読者を感情移入させるのが編集の仕事だったと語っていた。

これに対して新聞や男性週刊誌は重複や感情移入をきらい、対象と距離を置いて皮肉な見方をするのがジャーナリストとされている。テレビでも、NHKの番組はこういう男の感覚でつくられているが、これは供給側の論理だ。視聴者の多数派である女性は情報よりも情緒を求めているので、それに忠実につくられた冗漫で大げさな民放の番組のほうが日本人の感覚を正直に表現しているのだ。ヒトラーは「大衆は女だ」と言ったというが、これは彼が大衆社会の本質を把握していたことを示している。

同じ傾向は、2ちゃんねるなどの匿名掲示板にも見られる。たとえば「死ぬ死ぬ詐欺」のスレでは同じ内容の攻撃的な言葉が繰り返され、それを制止する意見は出てこない。経済板では「構造改革よりリフレだ」といった意見ばかり集まり、論争が成り立たない。こういう現象は「サイバーカスケード」などと呼ばれ、インターネット上の言説の特徴である。このように群れる連中のほとんどは内容を理解していないが、問題は内容ではない。彼らは、自分の同類が世の中にたくさんいることを確認して慰めを得ているのだ。マクルーハンが言ったように、メディアはマッサージなのである。