先日、海外出張から帰ってきて感じたのは、日本のテレビの異様さだった。どこの国でも、テレビニュースには基本的な順序があって、ラムズフェルド国防長官が辞任したときは、CNNのトップはいつもラムズフェルド関連ニュースだった。子供の自殺のような「町ネタ」は、取り上げるとしてもずっと下というのが常識である。ところが日本では、NHKの19時ニュースまで、最初からいじめと自殺の話。おまけに、それが学校教育と因果関係があるのかないのかよくわからないのに、校長が出てきて記者会見で頭を下げる。朝日新聞は1面で「いじめられている君へ」というシリーズを連載する。

これは日本のメディアの特殊性と関連する。たいていの国では、全国メディアと地方メディア、あるいは高級紙と大衆紙は歴然とわかれていて、前者には子供の自殺のようなニュースはほとんど出ない。後者(数の上では圧倒的多数)には大きく出るが、それはその国の世論の代表だとは思われない。ところが日本では、全国紙が数百万部も出ているので、高級紙と大衆紙の性格が混在しているのである。

その違いは、社内では政治部・経済部・社会部という日本独特の区分にあらわれる。社会部は、記者の数では全体の半分以上を占めるが、政治部・経済部は社会部を一段下に見ている(朝日新聞の社長は、政治部と経済部の出身者が交替でつとめているほどだ)。メディアの「顔」になるのは政治記事だが、視聴率が取れるのは「社会ネタ」だ。社会ネタが政治ネタに勝てるのは、人が死ぬニュースである。それも異常な死に方ほど大きく扱われる。大人の鬱病による自殺はベタ記事にもならないが、子供の自殺は大ニュースになるから、社会部記者は張り切るのだ。

しかしニュース価値は稀少性で決まるので、絶対的な重要性を必ずしも反映しない。水よりダイヤモンドのほうが高価だからといって、ダイヤモンドを公的に供給すべきだということにはならないように、鬱病で毎年1万人以上が自殺していることは深刻な問題であり、対策が必要だが、年間数十人しかない子供の自殺はマイナーな問題だ。その理由も不明であり、いじめ云々というのは大人が後からつけた理屈にすぎない。

もういいかげんに、この「祭り」はやめてほしい。自殺する子供を英雄扱いすることが、自殺の連鎖をまねいていることは明らかだ。他人の不幸を商売にするメディアが騒ぐのはまだわかるが、政府まで出てきて、教育再生会議で「いじめはやめろ」などと緊急提言するのは、スタンドプレーとしても滑稽である。