経済学が"dismal science"と呼ばれることはよく知られているが、その意味はあまり知られていない。普通これは、トマス・カーライルがマルサスの『人口論』を批判した言葉だと思われているが、実はカーライルの著作にそういう言及はない。彼がこの言葉を使ったのは、1849年の奴隷制に関する評論である。彼はそこで「この世界の秘密は需要と供給にあるとし、支配者の義務を個人の選択に帰着させる社会科学」をdismal science(つまらない学問)と呼んでいる。当世風にいえば「労働力を供給するには市場原理主義にまかせていてはだめで、(奴隷制のような)規制が必要だ」といっているわけだ。

憂鬱になるのは、カーライルから160年たっても、同じような「経済学批判」が繰り返されていることだ。もちろん今では奴隷制を擁護する人はいないが、市場よりも国家の力を信じる人は多い。そういう人々がいうのは、「経済学は非現実的で、役に立たない」ということだ。たしかに経済学は、実証科学といえるかどうか疑わしい。たとえば新古典派経済学のコアである一般均衡理論の主要な結論(均衡の存在や一意性など)は完全競争や完全情報などの強い条件に依存しているが、そんな状況はどこにも存在しないから、自然科学の基準でいえば、新古典派理論は棄却されてしまうのである。

70年代には、こういう限界を突破しようとして、「ラディカルエコノミックス」とか「ソシオエコノミックス」などというのが試みられたが、すべて失敗に終わった。経済学が他の社会科学に比べて見映えするのは、人間の行動を条件つき最大化問題に単純化することによって、古典力学の体系をそっくりまねることができるからであって、「学際的」に風呂敷を広げると、曖昧な「お話」になって収拾がつかなくなってしまうのである。そういう失敗の残党は、西部邁氏を初めとして、みんな国家の市場への介入を求める自称保守主義者になった。

80年代以降の経済学でもっとも成功したのは、むしろ人間の行動を徹底的な合理主義で記述するゲーム理論だった。それを応用した契約理論も、企業理論や金融理論に大きな前進をもたらした。かつて社会学的にしか語られなかった「制度」の問題を、合理的に分析するツールができてきたのである。これもよくできたお話にすぎないが、仮定が明確なので、どういう場合に成り立つのかという限界がはっきりしているだけ、政治学や社会学のお話よりもましだ。

これに対して、「市場原理主義」を批判する人々のふりかざすお話はお粗末だ。たとえば金子勝氏は単に経済学を知らないだけだし、佐和隆光氏は「収穫逓増」の概念さえ理解していない。しかし世の中的には、彼らの「グローバリズムが格差を拡大した」という類のお話のほうが受けてしまう。経済学は、実証的なチェックを欠いたまま数学的な(見かけ上の)厳密性を高めてきた結果、現実との距離が広がりすぎて、市場以外の複雑な問題について何もいえないからだ。

このように経済学は、いまだにdismal scienceの域を脱することができない。それが世の中に認知してもらうために必要なのは、数学的なお話のテクニックを競うことではなく、複雑な現象を合理的に説明する実証的な分析用具を開発することだろう。物理学の理論には、自然界の真理を解明するという本質的な意味があるが、経済学は現状分析や政策決定のための応用科学にすぎないので、理論的な「美学」を追求するのはナンセンスである。