1972年に起こった外務省機密漏洩事件についてのルポルタージュ。これはもう歴史の一部になっているが、いまだに誤解が絶えないので、本書は今も読むに値する。
文庫として復刊されたきっかけは、おそらく、外務省の元アメリカ局長が密約の存在を認めたことだろう。この事件で有罪判決を受け、毎日新聞を辞職した西山太吉は「外務省高官などの偽証によって名誉を傷つけられた」として、国家賠償訴訟を起こした。
事件は、最初は沖縄返還にからむ密約を社会党が国会で追及したことに始まる。ところが、そのうち情報源が外務審議官の秘書であることが判明し、西山記者が、それを入手しようとして、秘書と「情を通じて」国家機密の漏洩をそそのかしたとして国家公務員法違反で逮捕され、事件は男女問題のからんだ奇怪な展開になる。結局、最高裁まで争われた結果、西山が敗訴した。
この事件は、過去の話ではない。当時追及された土地の原状回復補償費400万ドルだけではなく、核兵器の撤去費用7000万ドルが10倍に水増しされた額で、完全には撤去されなかったことなど、もっと広範な密約が存在したことがうかがわれる。しかも、このとき沖縄返還を「金で買った」ケースがモデルとなって、「思いやり予算」が今も続いている。
日本のナショナリズムは、それと対極にあるはずの「対米従属」と一体になっている。外務省密約事件は、そのねじれの生み出したものだ。沖縄を「無償で返還」させて日本がアメリカと対等な国家として自立するというフィクションをつくるため、国民に対して「金で買った」事実を隠さざるをえなかったのだ。
この密約は、アメリカではニクソン政権が議会に説明していたのだから、外交機密ではなく、国民を欺くための偽装である。西山記者は、まさに日本外交の恥部を暴いたのだ。
さらに情けないのは、他のメディアも男女関係がからむと腰が引け、肝心の密約の追及が尻すぼみに終わってしまったことだ。政府は、当時の責任者の証言やアメリカの公文書などの明白な証拠が揃っても、密約の存在を否定した。
これについて、西山記者の取材方法に批判が集まったが、最高裁判決も認めたように、取材そのものに「一般の刑罰法令に触れる違法性」はない。西山が有罪になった法的根拠は、国家公務員法111条の秘密漏洩そそのかしという規定である。
この条文が適用されたケースは、この事件の前にも後にもない。これを厳格に適用すると、警察や検察の夜回りで捜査情報を聞くことも違法になってしまう。そういう反対論も初期にはあったが、「情を通じ」で吹っ飛んでしまった。
では違法行為によって情報をとれるとき、それを自粛すべきか。これは一般論としては議論のあるところだが、西山事件の訴訟で被告側証人として出廷した氏家斉一郎(読売新聞広告局長)は「新聞記者の取材はつねに秘密事項の取材を意味し、極秘文書だからといって取材を控えることはない。官庁からの文書持ち出しも、刑事罰の対象になる行為以外、取材は自由である」と証言した。
しかし「取材源の秘匿」などという権利は、法的には認められていない。取材方法が違法だった場合には、有罪になる可能性もある。西山は、自分の取材方法が違法だとは認めなかったが、「反社会的」だと言っていた。ジャーナリストとは、そういう反社会的な職業なのである。
文庫として復刊されたきっかけは、おそらく、外務省の元アメリカ局長が密約の存在を認めたことだろう。この事件で有罪判決を受け、毎日新聞を辞職した西山太吉は「外務省高官などの偽証によって名誉を傷つけられた」として、国家賠償訴訟を起こした。
事件は、最初は沖縄返還にからむ密約を社会党が国会で追及したことに始まる。ところが、そのうち情報源が外務審議官の秘書であることが判明し、西山記者が、それを入手しようとして、秘書と「情を通じて」国家機密の漏洩をそそのかしたとして国家公務員法違反で逮捕され、事件は男女問題のからんだ奇怪な展開になる。結局、最高裁まで争われた結果、西山が敗訴した。
この事件は、過去の話ではない。当時追及された土地の原状回復補償費400万ドルだけではなく、核兵器の撤去費用7000万ドルが10倍に水増しされた額で、完全には撤去されなかったことなど、もっと広範な密約が存在したことがうかがわれる。しかも、このとき沖縄返還を「金で買った」ケースがモデルとなって、「思いやり予算」が今も続いている。
日本のナショナリズムは、それと対極にあるはずの「対米従属」と一体になっている。外務省密約事件は、そのねじれの生み出したものだ。沖縄を「無償で返還」させて日本がアメリカと対等な国家として自立するというフィクションをつくるため、国民に対して「金で買った」事実を隠さざるをえなかったのだ。
この密約は、アメリカではニクソン政権が議会に説明していたのだから、外交機密ではなく、国民を欺くための偽装である。西山記者は、まさに日本外交の恥部を暴いたのだ。
ジャーナリストは「反社会的」な職業
西山に対する国家の反撃は、すさまじいものだった。法廷で、検察はポルノ顔負けの言葉で下半身問題を追及し、裁判所も「情を通じた」ことが通常の取材手段を逸脱するので、報道の自由は認められないという論理で、西山氏を断罪した。さらに情けないのは、他のメディアも男女関係がからむと腰が引け、肝心の密約の追及が尻すぼみに終わってしまったことだ。政府は、当時の責任者の証言やアメリカの公文書などの明白な証拠が揃っても、密約の存在を否定した。
これについて、西山記者の取材方法に批判が集まったが、最高裁判決も認めたように、取材そのものに「一般の刑罰法令に触れる違法性」はない。西山が有罪になった法的根拠は、国家公務員法111条の秘密漏洩そそのかしという規定である。
この条文が適用されたケースは、この事件の前にも後にもない。これを厳格に適用すると、警察や検察の夜回りで捜査情報を聞くことも違法になってしまう。そういう反対論も初期にはあったが、「情を通じ」で吹っ飛んでしまった。
では違法行為によって情報をとれるとき、それを自粛すべきか。これは一般論としては議論のあるところだが、西山事件の訴訟で被告側証人として出廷した氏家斉一郎(読売新聞広告局長)は「新聞記者の取材はつねに秘密事項の取材を意味し、極秘文書だからといって取材を控えることはない。官庁からの文書持ち出しも、刑事罰の対象になる行為以外、取材は自由である」と証言した。
しかし「取材源の秘匿」などという権利は、法的には認められていない。取材方法が違法だった場合には、有罪になる可能性もある。西山は、自分の取材方法が違法だとは認めなかったが、「反社会的」だと言っていた。ジャーナリストとは、そういう反社会的な職業なのである。
20世紀の世界に破壊と殺戮と混乱をもたらした共産主義に関しては、総本山たるソ連が、米国との軍拡競争に敗れ、経済体制の矛盾が拡大して自壊したことにより、世界の多くの人々に、そのカルト的幻想からの覚醒をもたらした。昨今、米露当局筋により大戦前後から冷戦期にかけての諜報関係資料が公開され、「開かれた社会とその敵」の構図が、一層鮮明になりつつある。日本においても同様であり、大東亜戦争の帰結をもって、大戦前に、我が国が欧米諸国と同様に、国際法上合法的に保持していた海外権益と、これに関係した軍事的プレゼンスを、様々な符丁を付けて断罪し、外交上の優位確保を企図した某共産国への対応については、我が国有権者・政治家の歴史認識が深化したことにより次第に改まりつつある。講和条約の締結交渉以前に、手前勝手な事後法を用い、擬制裁判によって私刑を行った「極東国際軍事裁判」や、国際法・慣行を無視して敗戦国に強制した国家基本法の虚構性につき、現代の国民の問題意識も次第に高まってきた。小泉政権から安倍政権にかけての支持率の高さの背後には、そのような社会思潮の変化が明確に感じられる。
さて、沖縄返還交渉を巡る密約問題であるが、一般論として、国家間の外交交渉に、いわゆる「密約」はつきものである。問題は、それが大局的に国益とってプラスかマイナスかということである。現在も「不安定の弧」に対峙する前線基地としての沖縄の価値は、米国にとっても、日本にとっとも重い。国家主権を守り、国民の生命財産を守り、経済の繁栄を確保するための戦略として日米同盟を選択したことの正しさは、問うまでもないことである。「思いやり予算」その他の政治的配慮が、米国の国務省、国防総省に知日・親日派を生んでいることはよく知られている。自衛隊が米軍と共同作戦行動をとりうるということは、世界最強の米軍の技術的・軍事哲学的達成を常に供与されているということである。国の独立確保と国家主権の確立は、外交・安保情勢の現実を理解することから始まる。安倍総理はまさか、我が国の10分の1程度のGDPで、圧倒的な陸軍力、核武装を持つ国の近隣にあって「北東アジアのバランサーとなる」と喋々するような愚かな指導者ではあるまい。日本が抱える深刻な矛盾は、防衛庁の省への昇格や核武装論の検討などに、未だ敗戦後から冷戦期にかけての左翼的思潮に影響された国民的アレルギーが残留する一方で、大陸・半島を巡る情勢変化が、主権国家としてのアイデンティをティの確立を、より一層求めていることにある。ここにあるのは国論の分裂であり、列強の工作を誘引する契機である。小泉政権、安倍政権の歴史的意味・使命は、実に、この歴史的転換点に立って、「戦後」の終局に力を添え、我が国の安全と繁栄を長期的に実現する礎をつくることにある。
付言すれば、西山某などの行為は、些末で私小説的なエピソードに過ぎない。