平野啓一郎氏のブログの記事が、話題になっている。事の発端は、Wikipediaの彼についての項目に「盗作疑惑」が掲載されたという話だ。その部分はすでに削除されたが、きょう現在ではまだグーグルのキャッシュに残っている(*)
1998年に新潮社から刊行された平野のデビュー作『日蝕』が、1993年に同じ新潮社から刊行された佐藤亜紀の『鏡の影』と「内容が似ている」ことが問題となった。平野が『日蝕』で芥川賞を受賞すると、新潮社側は佐藤亜紀が執筆していたウィーン会議を題材にした作品の雑誌掲載を拒否し、同社から刊行されていた『鏡の影』、さらには佐藤の小説『戦争の法』を絶版とした。[以下略]
この根拠として、佐藤氏のウェブサイトにリンクが張られているが、平野氏も指摘するように、その記事には肝心の盗作(佐藤氏の表現では「ぱくり」)の事実が何も具体的に示されておらず、Wikipediaのような公的な媒体で紹介する質のものとは思われない。

実は、私にも似たような経験がある。3年前に、「はてなキーワード」の私についての項目に、事実無根の中傷が掲載されたので、はてなに抗議したところ、近藤淳也社長から謝罪のメールが来た。私は、中傷の責任を追及するため、「犯人」を明らかにせよと申し入れたが、近藤氏はそれを拒否した。結局「キーワード」の項目だけは残し、内容は全面的に削除された。

このときの近藤氏の対応は誠意あるものだったが、中傷の責任は結局、誰も負わないままだ。さらに問題なのは、平野氏もいうように、こういう「消費者生成メディア」で名誉を傷つけられないためには、つねにそれをウォッチしなければならず、参加を強制されることだ。こういうメディアに疎い人の名誉が傷つけられても放置されるし、死者の名誉は誰も守らない。

同様の問題は、本家のWikipediaでも起こっている。有名なのは、去年のJohn Seigenthalerをめぐる問題だ。これは、彼についての項目で「ケネディ暗殺に関与した」という虚偽の経歴が記されたもので、その経緯もWikipediaの項目としてまとめられている。この問題は大きな論議をよび、これを機にWikipediaは新しいガイドラインや監視システムをつくった。

ところが、日本では「2ちゃんねる」でもっとひどい名誉毀損が大量に行われているのに、主宰者は損害賠償も支払わず、逃亡している。被害者もあきらめたのか、破産申し立てをしていないし、メディアはおもしろがっている。日経新聞に至っては、そういう人物を「デジタルコア」なる会議のメンバーにして市民権を与えている。このように言論についての規律が不在の状態で、ビジネスとしてのWeb2.0だけがもてはやされても、またバブルに終わるだろう。

こうした問題について、スロウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい』がよく引用されるが、これは「集団の知恵」で成功した例を列挙しているにすぎない。現実には、WikipediaやLinuxの成功の陰には、何百という失敗したオープンソース・プロジェクトがある。集団的選択理論が教えるように、ほとんどの民主的な意思決定は間違っているのである(**)。むしろ重要なのは、こうした間違いを事後的に修正するフィードバック装置だ。

しかし日本では、ブログの「炎上」にもみられるように、ウェブ上の議論には他人を説得するという目的がなく、匿名で悪口をいうことでストレスを解消する傾向が強い。こういう言論は、いくら大量に生成されても、情報の質を高める役には立たない。事実、日本のWikipediaには、単純な事実誤認が本家よりもはるかに多く、確認には使えない。いま必要なのは、みんなの意見は必ずしも正しくないという懐疑主義にもとづいて、事実をチェックするしくみを整備することだろう。

(*)コメントで、Wikipediaのサイトに「保存版」が残っていることを指摘された。gooにも残っている。

(**)オープンソースと集団的選択の部分に引っかかった人が多いようだが、書き方がミスリーディングだった。これは似たような話を並べただけで、両者は別の話である。オープンソース・プロジェクトの大部分は、できたものがユーザーの支持を得られないから失敗するので、民主的意思決定の間違いとは関係ない。

民主的な意思決定が「間違っている」というのも、いろいろな意味があるが、ここで想定しているのは、Gibbard-Satterthwaite定理のように、投票によって各人の選好を整合的に集計できないという問題である。さらに代議制民主主義には、投票の個人的便益(1票の差で選挙結果が変わる確率)がゼロに等しいという致命的な欠陥があるので、政治が特定の利益団体に支配されることは必然的な結果である。

もう一つは、コンドルセ定理のように集団によって「真理」に到達できるかという問題だが、これも一般的な条件では成り立たない。「みんなの意見」が正しいのは、各人の意見が(一定の確率以上で)正しく、それが整合的に集計可能な場合に限られるが、そういう理想的な状況は現実には存在しないのである。ウェブでみんなの意見が正しいようにみえる原因は、こういう論理整合性ではなく、間違いがあったら多くの人が参加して事後的に訂正できる柔軟性だろう。