村松秀

中公新書ラクレ

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NHKの「BSドキュメンタリー」を新書にしたもの。NHKの番組は、多大な経費と時間をかけてつくっているという神話があるようだが、実際には一番コストのかかっている「NHKスペシャル」でも、予算は(人件費込みで)3000万円ぐらい、制作期間も3ヶ月ぐらいだ。だから、1本の番組を無理に書籍化すると、たいてい中身の薄いものになってしまう。本書も、番組としてはよくできていたのかもしれない(いくつか賞をとっている)が、本としては取材の苦労話が多く、やや冗漫だ。

とはいえ、事件のスケールは大きい。テーマは、ベル研究所で起きた物理学の論文の捏造事件で、犯人のヘンドリック・シェーンが書いた論文は、超伝導を実現する温度の世界記録を更新するものなど、5年間に63本。掲載誌のほとんどは"Science"や"Nature"を初めとする一流誌で、彼は31歳でマックスプランク固体物理学研究所の共同所長に内定し、ノーベル賞受賞が確実視されていたという。ところが、そのデータは実験をせずにコンピュータで生成したもので、実験設備もサンプルも犯人以外は(20人もの論文の共同著者も)見たことさえないという、物理学界のお粗末な実態が明らかになる。

著者を中心とする取材チームは、関係者に1年がかりで取材し、責任を追及する。しかし犯人は真相を語らないまま逃亡してしまい、最大の責任者(共同執筆者)である彼の元上司は「おかしいとは思わなかった」と主張し、学会誌の編集者は「データの捏造まで疑うことは不可能だ」と開き直る。多くのピア・レビューが行われたにもかかわらず、同じグラフを複数の実験データで使いまわし、ノイズまでそっくり同じという単純な手口が見抜けなかったのは、ベル研の権威をだれもが信じていたためらしい。

要するに、学界では「捏造なんてやったら、キャリアは一生台なしになる」という長期的関係による規律が働いていると信じられていたのだ。しかし韓国のES細胞事件をはじめ、日本でも旧石器時代の遺跡捏造事件や、理研、大阪大、東大などで論文データの捏造事件が続発している。これは科学者の世界でも、長期的関係による暗黙のガバナンスがきかなくなってきたことを意味するのかもしれない。