ブログやWikiなどに代表される「イノベーションの民主化」の先には、どういう社会が見えてくるのだろうか。The Long Tail (p.62)によれば、それを最初に予告したのは、マルクスだったという。彼はエンゲルスとの共著『ドイツ・イデオロギー』で、未来のイメージを次のように描く(*)
共産主義社会では、各人は排他的な活動領域というものをもたず、任意の諸部門で自分を磨くことができる。[・・・]朝は狩をし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする――猟師、漁夫、牧人あるいは批判家になることなく。(岩波文庫版、pp.66-7)
マルクスは「分業と私的所有は同じことの表現である」と規定し、自然発生的な分業を止揚することを共産主義の目標とした。この一節は、若きマルクスのユートピア的な側面を示すものとして知られているが、実はこのモチーフは『資本論』にも受け継がれている。
自由の国は、必要や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。(『資本論』第3巻[大月書店版]p.1051)
これは資本主義社会を「必然の国」とし、未来社会を「自由の国」として描く有名な一節だが、このパラグラフの最後は「労働日の短縮こそは根本条件である」と結ばれる。従来のマルクス理解では、自由についての議論がなぜ労働時間の話で終わるのか、よくわからないが、先の『ドイツ・イデオロギー』の記述とあわせて考えると、その意味は明らかだ。マルクスにとって未来社会とは、必要(必然)に迫られて労働する社会ではなく、自由に活動する社会であり、共産主義の目的は「自由時間の拡大」(=労働時間の短縮)なのである。

マルクスの未来社会像としては『ゴータ綱領批判』の「各人はその能力に応じて働き、各人にはその必要に応じて与える」ばかりが引用され、「無限の富を前提にしたユートピアだ」と批判されることが多い。しかし『資本論』では、未来社会は共産主義とも社会主義とも呼ばれず、「自由の国」とか「自由な個人のアソシエーション」などと呼ばれている。その自由とは、ヘーゲル的な観念的自由ではなく、自由時間のことである。

必要を超えた過剰な資源が利用可能になる社会というのは、非現実的に聞こえるが、半導体の世界では(ムーアの法則によれば)性能が40年間で1億倍になる「爆発的な富の拡大」が生じ、コンピュータは「必要に応じて使える」状態になっている。これによってITの世界では、資本家と労働者を区別していた「資本」の意味がなくなり、だれもが情報生産を行うことができるようになった。

アナロジーがここから先も続くとすれば、マルクスが予告したように「物質的生産の領域のかなた」にあるサイバースペースでは「貨幣の消滅」が起こるかもしれない。貨幣を媒介にしないで生産物を交換するオープンソースなどの「生産手段の民主化」の先には「非金銭的経済」が出現する、とクリス・アンダースンはいう。もちろん、これはリアルスペースでの物質的生産に支えられたサブシステムに過ぎないが、グーグルが成功したように、その再生産過程を金銭的経済と結びつけることができれば、維持可能である。

資本主義とは、現代の経済学の標準的な理解でも、資本家が物的資本の所有権を梃子にして労働者を支配するシステムであり、その有効性は人的資本や知的労働の重要な情報産業では低下する。だから、資本が経済システムの中心であるという意味での資本主義の時代は、終わりつつあるのかもしれない。この意味でも、マルクスは正しかったわけだ。

(*)実はこの一節は、廣松渉の文献考証によれば、エンゲルスの執筆した部分である。

追記:R30氏による批判については、新たな記事を書いた。