哲学者の廣松渉が死んで、もう12年たつが、依然として彼についての本が刊行されている。最近では、『哲学者廣松渉の告白的回想録』(河出書房新社)という彼の生前のインタビューを集めた本まで出ている。彼の本の晦渋な悪文とは違って、彼の話はとても魅力的だったから、こういう座談集がもっと出てもよいと思うが、この本は彼のもっともだめな「革命論」が大部分を占めているので、お勧めできない。

私の人生で、だれにいちばん大きな影響を受けたかといえば、圧倒的に廣松である。私が大学に入った年は、彼がちょうど非常勤講師として駒場に来たときだった。科学哲学の大学院のゼミに潜り込んで、彼の講義を聞いたが、その内容はもっぱら新カント派などの伝統的な哲学だった。私の初歩的な質問にも、実にていねいに答える柔和な印象は、彼の文体からは想像もできない。

私のマルクスやヘーゲルなどの理解は、ほとんど廣松経由である。もとのテキストを読んでもさっぱりわからなかったのが、廣松のフィルターを通すと、実に明快にわかってくる。ただ、そのわかり方は、たぶんにドイツ観念論の図式的な理解で、いま思うと、やはり廣松は本質的にはヘーゲル主義者だったのだと思う。

それと印象的だったのは、すごいヘビースモーカーで、ゼミの間中もずっとタバコ(ピース)を吸い続けていたことだ。歯は真っ黒だった。当然のことながら、彼は60歳で退官した直後に肺癌で死んだが、あのタバコの吸い方は、ほとんど緩慢に自殺しているようなものだった。

彼の代表作は、晩年の『存在と意味』(岩波書店)ではなく、若いころの『世界の共同主観的存在構造』(勁草書房)だと思う。私が最初に読んだ彼の本は『唯物史観の原像』(三一新書)だったが、これも名著だ。彼が名大をやめて浪人していた時期に書かれた『マルクス主義の成立過程』(至誠堂)や『マルクス主義の地平』(勁草書房)も傑作である。しかし彼が東大に就職してからは、同じ図式の繰り返しになり、私は興味を失った。

デリダは、社会主義の崩壊した1990年代に『マルクスの亡霊』を書いた。ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』は明らかに『資本論』を意識しており、ドゥルーズは最後の本として『マルクスの偉大さ』を構想していたといわれる。こうしたポストモダンの解釈に比べると、廣松のマルクス解釈は観念論的で古臭いが、日本の生み出した数少ない独創的な哲学であることは間違いない。