Rajan-Zingalesの新著の訳本が出た。邦題の『セイヴィング キャピタリズム』では何のことかわからないが、原題は「既得権益を守ろうと金融市場への規制を求める資本家から自由な資本主義を守る」という意味である。
「グローバリズム」が伝統を破壊する、という類の議論は俗耳に入りやすい(『国家の品格』もその一例)。しかし実際の統計をみれば、自由な金融市場が機能するようになったのは、ごく最近(1980年代以降)であり、それも英米など一部の国に限られる。日本やドイツでさえ、自由とはほど遠い。国際金融市場は脅威どころか、むしろ努力して維持しなければ機能しない脆弱な制度なのである。
著者は2人ともシカゴ大学の教授(Rajanは昨年からIMF)だが、彼らはフリードマンのように自由な市場を前提とするのではなく、むしろ市場の基盤となる財産権の保護がいかにして成立するかといった「制度」の問題を理論的・歴史的に分析している。これはHartやShleiferなどのハーヴァード学派の立場に近い。「ケインジアン対マネタリスト」などという対立は終わり、制度の研究では学界全体にコンセンサスができつつあるように思われる。
また問題を市場と政府の二分法ではなく、既存業者との関係で論じているのがおもしろい。これまでの経済学では、政府は「市場の失敗」を補正するvisible handだが、本書では既存業者の意を受けて規制によって新規参入を妨害する(Shleifer-Vishnyのいう)grabbing handである。
しかし彼らは「われわれの既得権を守れ」とは決していわない。「規制によって守られている弱者を救え」と主張するのだ。このような「既得権と弱者の連合」は、どこの国でもみられるありふれた現象だ。そして、こうした既得権益共同体を崩壊させる「蟻の一穴」がグローバルな市場からの圧力である。改革には「外圧」が一番だというのは、日本だけではない。
「グローバリズム」が伝統を破壊する、という類の議論は俗耳に入りやすい(『国家の品格』もその一例)。しかし実際の統計をみれば、自由な金融市場が機能するようになったのは、ごく最近(1980年代以降)であり、それも英米など一部の国に限られる。日本やドイツでさえ、自由とはほど遠い。国際金融市場は脅威どころか、むしろ努力して維持しなければ機能しない脆弱な制度なのである。
著者は2人ともシカゴ大学の教授(Rajanは昨年からIMF)だが、彼らはフリードマンのように自由な市場を前提とするのではなく、むしろ市場の基盤となる財産権の保護がいかにして成立するかといった「制度」の問題を理論的・歴史的に分析している。これはHartやShleiferなどのハーヴァード学派の立場に近い。「ケインジアン対マネタリスト」などという対立は終わり、制度の研究では学界全体にコンセンサスができつつあるように思われる。
また問題を市場と政府の二分法ではなく、既存業者との関係で論じているのがおもしろい。これまでの経済学では、政府は「市場の失敗」を補正するvisible handだが、本書では既存業者の意を受けて規制によって新規参入を妨害する(Shleifer-Vishnyのいう)grabbing handである。
しかし彼らは「われわれの既得権を守れ」とは決していわない。「規制によって守られている弱者を救え」と主張するのだ。このような「既得権と弱者の連合」は、どこの国でもみられるありふれた現象だ。そして、こうした既得権益共同体を崩壊させる「蟻の一穴」がグローバルな市場からの圧力である。改革には「外圧」が一番だというのは、日本だけではない。