アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)
ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』は、副題が『資本主義と分裂症』とあるように、分裂症(今日の言葉では統合失調症)を家族関係や個人の意識の中で考える精神分析を否定し、分裂症をいわば資本主義の鏡像と考えるものです。

伝統的な社会が個人を共同体に埋め込むコード化によって安定を維持し、専制国家はそれを中央集権化する領土化で秩序を保ったのに対して、資本主義は既存の秩序を破壊する脱領土化によって変化やイノベーションを生み出して利潤を追求し、それを資本として蓄積するという話です。

しかし脱コード化だけでは秩序が維持できないので、所有権などの法秩序によって再コード化しなければならない。このように資本主義の中には、秩序を破壊するノマド的な面とそれを維持する官僚的な面が共存しており、この正反対のベクトルの圧力によって個人の内面がバランスを失うのが分裂病だ、というのが大ざっぱなロジックです。

これはフロイト以降の精神分析がもっぱら家族に焦点を当てるのに対して、フロイト左派の社会的な文脈を重視する流れの一環で、レインなどの「反精神医学」とも共通するのは、分裂病を資本主義のストレスによるものと考える点です。したがってそれは病気ではなく、オイディプス・コンプレックスのような神秘的な概念で説明すべき家族の問題でもありません。

これが精神医学として有効なのかどうかは疑問がありますが、資本主義がこういう分裂をはらんだ奇妙な経済ステムであることは事実で、長期的に維持することはむずかしい。しかしイギリス資本主義だけは生き残り、今日では資本主義がほぼ世界をおおうに至りまし。その秘密は、資本主義が脱コード化によって生まれる利潤を暴力装置としての国家によって再コード化する装置をそなえていたからだ、とD-Gは考えます。

資本主義から国家へ

『アンチ・オイディプス』の続編の『千のプラトー』では、これを戦争機械という概念で説明しています。それは国家が戦争のための機械だという意味ではなく、逆に戦争を抑止する装置として国家が生まれた、というのが彼らの発想で、これはフクヤマなどの最近の政治学の議論に通じる面があります。

この戦争機械を動かすのは、人々の欲望のアレンジメントとしての権力です。この点で彼らの方向は、同じ時期に権力の問題と取り組んだフーコーと共通点があります。ドゥルーズはフーコーの『監獄の誕生』を批判して、権力はパノプティコンのようなわかりやすい形であらわれるのではなく、不可視のネットワークとして成立するのだ、と書いています。

これは実はフーコーも考えていた問題で、死後に公開された講義録では規律社会とか統治性という概念で、こうした不可視の権力を考えています。資本主義について深く考えた彼らが、互いに独立に最晩年に国家の問題にたどりついていたことは興味深い。われわれの出発点は、そのへんにあると思います。