ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生
九・一一以降、セキュリティが大きな関心を呼ぶようになってきた。「米国民の安全を守るためには手段を選ばない」と公言するブッシュ米大統領のみならず、日本の「国民背番号」や「個人情報保護」をめぐる騒ぎも、そうした不安のあらわれだろう。しかし人間が生まれながらに人権やプライバシーを持っているというのは、近代国家の作り出した幻想にすぎない。人権も国籍も失った難民は、全世界で二千万人を超え、北朝鮮の金正日政権が崩壊すれば、数百万人の難民が出現するだろう。

主権者とは「例外状態について決定を下す者」だというのは、カール・シュミットの有名な定義だが、本書は国家をその例外状態の側から見る異色の政治哲学だ。近代の政治哲学や法哲学はヘーゲル以来、人権や財産権をもつ個人から出発するのが通例だが、著者が出発点とするのは、そうした権利を奪われた難民、収容所のユダヤ人などの「剥き出しの生」である。

古代ギリシャでは、こうした物質的な生存は「ゾーエー」と呼ばれてポリスの生活を意味する「ビオス」と区別され、私的な家計(オイコス)に閉じ込められていた。古代ローマでは、ある種の犯罪者は「ホモ・サケル」(聖なる人)と呼ばれ、殺害しても罪に問われなかったが、殺しても神への犠牲に供することはできなかった。秩序から排除された犯罪者は、政治的・宗教的な意味を失った物質的な存在だからである。

しかし近代に至って、物質的な生の拡大再生産が国家の目標となり、家計が拡大して経済(エコノミー)となった。国民の生命を守るために彼らの生活を全面的に管理する、ミシェル・フーコーのいう「生政治」が出現したのだ。ファシズムが民主主義によって生み出されたのも、生を政治化し、国民を「主権者」とする一方、外部の世界を例外として排除する近代国家の原理によるものだ。この意味で、ブッシュ政権を動かすネオコン(新保守主義)は、ファシズムと同じく近代国家の必然的な帰結である。

本書は三部作の第一部であり、議論が体系的に展開されているとはいえないが、ネグリ=ハートが『帝国』で分析した主権の変容を、その対極の例外状態の側から論じ、近代国家の根底にある「排除の原理」を明らかにしたことが重要だ。ネグリもフーコーもデリダも、難民に深い関心を寄せてきた。それは、すべての権利を奪われた彼らの生が、近代国家の法=権利の原初的な姿を明らかにするからだ。たとえば自由に移動し居住する権利は、自明の人権だと思われているが、難民には認められない。近代国家の人権は、他国民を排除する権利なのだ。

しかし本書も指摘するとおり、現代では内部と外部の境界が曖昧になり、例外状態が拡大している。情報社会では、私的な電子メールもすべて監視され、コンピュータ・ウイルスは国境を超えて侵入する。セキュリティやプライバシーに過敏になる昨今の風潮は、このような状況への不安のあらわれだろう。今日では、だれもが難民なのである。