2010年03月

使える経済書100冊:『資本論』から『ブラック・スワン』まで

使える経済書100冊 (『資本論』から『ブラック・スワン』まで)拙著の予約が、アマゾンでできるようになった(写真は感心しないが、これは帯だから外せます)。自分の本は書評しようがないので、以下に序文を引用しておく:
今年は「電子出版元年」といわれ、アマゾンのキンドルに続いてアップルのiPadが発表された。日本でもこれから電子書籍が普及し、本を端末で読むことができるようになろう。しかしインターネット時代になっても、本に代表されるまとまった知識の重要性は変わらない。ビジネスマンは時間がないので、時事的なフローの情報は仕入れるが、系統的なストックの情報を勉強する余裕がない。
 
先日は国会審議で、菅直人財務相など3人の閣僚が誰も「乗数効果」の意味を知らないのを見て唖然とした。乗数効果というのは、高校の「現代社会」にも出ているマクロ経済学のきわめて初歩的な概念である。彼らは経済学なんか知らなくても、勘と経験で経済運営ぐらいできると思っているのだろう。
 
世の中で売れている本にも「国債はいくら発行しても大丈夫」とか「お札を無限に印刷すればデフレは止まる」といった荒唐無稽な話が多いが、こういう本の著者も、経済学の初歩的なロジックさえ知らないことが多い。本書はこうした誤解を解き、日本経済の問題をビジネスマンが考える素材となる本をリストアップしたものだ。
 
私は10年以上「週刊ダイヤモンド」で書評を担当しており、ブログでも本を取り上げてきた。書評でいちばん大変なのは、本を選ぶ作業だ。書評の原稿というのは原稿用紙2~3枚程度なので、本を読めば2時間もあれば書ける。だから雑誌などから本を指定された場合は楽だが、自分で選ぶ場合は大変だ。1ページの書評は「私がこの本を推薦する」と受け取られるので、ぎりぎりまで都内の本屋を探し回ることもある。担当は1ヶ月半に1冊ぐらいなのだが、そのペースでも絶対の自信をもって勧められる本は少ない。
 
それでも無理やり選んでいるうちに、他の雑誌も含めて10年で100冊近い本を書評した。ブログで書いた書評を合わせると、600冊近い本を書評したことになる。編集者には「書評のプロ」などとおだてられるが、あまりうれしくない。ただ、これだけあると経済学や情報産業についての一種のデータベースになっているような気もするので、整理して情報を補足し、ビジネスマンの読書ガイドにしようというのが本書の目的である。
 
といっても、本書はすべての人に通用する「万能の読書術」を伝授しようというものではない。読書には、大きくわけて2種類ある。一つは小説など「消費」として読む本で、これは読書そのものが目的なので、ゆっくり時間をかけて楽しむのがいいだろう。もう一つは、ビジネスマンが「投資」として読む本で、これはなるべく効率よく、最小の時間で最大の効果をあげることが求められる。本書が対象とするのは、後者だけである。
 
また、すべての人に最適の読書術や勉強法というのは存在しない。読書法は何を目的にするかによって違い、読者の年齢や知識水準によっても変わる。学生の場合には何のために読むかがはっきりしない一方、読書する時間はたっぷりあるので、基礎から勉強したほうがいいが、ビジネスマンの場合には仕事で必要な知識が明確で読書にさける時間は限られているので、時間を節約して必要な知識だけを得る工夫が必要だ。
 
世の中には「10倍速く読める速読術」とか「年3000冊読める読書法」などという本がたくさん出ているが、そういうハウツー本に効果があるかどうかは、著者の実績を見ればわかる。3000冊読む著者が無名のフリーライターでは、読書が役に立ったとは思えない。読書は知識を身につける手段であって、たくさん読むことが目的ではない。10倍速く読んでも3000冊読んでも、その内容が身についていなければ何の価値もないのだ。
 
私は仕事で年300冊ぐらい本を読むが、すべての本を最初から最後まで読むわけではない。同じ1冊でも、お手軽なハウツー本は電車の中で30分あれば読めてしまうが、専門書はちゃんと読むと1年かかることもある。大事なのは、何のために読むのかという目的を明確にして必要な部分だけ読むことだ。
 
さらに重要なことは、何を理解したかということだ。単なる知識を得るだけなら、検索エンジンでも用は足りる。知識を体系化するには、本で体系的に勉強する必要がある。ビジネスマンは自分の仕事に関係する情報は収集するが、学問的な知識は意識的に努力しないと身につかない。そういう理論は、経験的にわかると思っている人も多いが、経済学に関しては経験で身につけることはできない。
 
海外の書評は長く、ダイジェストの役割も果たすことが多いが、日本の書評は短く、ほめる書評ばかりで客観的な評価が少ない。本書の書評は1冊当たり1000字以上あるので、読むに値するかどうか読者が判断する材料になり、読まないで内容を知るためのダイジェストにもなろう。ただし大部分は主観的な感想なので、バランスの取れた紹介とはいえない。
 
本書は、これまで書評した本の中から、世界経済や日本経済を考える参考になる本を100冊選んだものだ。あくまでも私の個人的ブックガイドであり、必読書を網羅したものではないが、アマゾンの評価でいえば星四つ以上なので、買って損はないと思う。すべての人に役立つとは思わないが、何冊かはビジネスマンの参考になるだろう。なるべくビジネスマンの読める一般書に限定したが、やや専門的な本には*をつけた。ただ大事なのは本を読むことではなく、あなたが自分の頭で考えることである。
 
世界経済は大きく変わったのに、日本経済は変化を拒否したまま20年以上過ごしてきたが、おそらく本質的な変化はこれから起こるだろう。日本航空でさえ破綻する時代に、あなたの勤務している会社が定年まで存在する保証はどこにもない。いくら会社に忠誠を尽くしても、「企業特殊的技能」は会社がなくなったら何の価値もない。最後に頼れるのは、自分の専門知識だけである。本書が、これからやってくる大変化の時代を乗り切るささやかな指針となれば幸いである。


ヨーロッパ精神史入門

ヨーロッパ精神史入門 カロリング・ルネサンスの残光
AIや機械学習の進歩で、人間の知的能力の限界が議論になっている。この問題について、経験から「帰納」によって理論をつくることができないことを明らかにしたのはヒュームだが、帰納に代えてアブダクションという概念を提唱したパースの発想のヒントは、中世の哲学者ドゥンス・スコトゥスだった。

スコトゥスなどといっても誰も知らないだろう。ウィリアム・オッカムとの普遍論争は世界史の教科書にも出ているが、スコラ哲学のくだらない観念論としてしか知られていない。しかし著者は、この論争をパース以降の記号論の観点から再評価する。

スコトゥスなどの実在論(realism)は「犬」という本質がまずあって、それがポチやタロウという個体に具現されると考えたが、オッカムなどの唯名論(nominalism)は、存在するのはポチという個体だけであり、犬という普遍はその集合の名称にすぎないと考える。

しかしポチやタロウの集合が犬だというのは、論理的にはおかしい。ポチを犬という集合の要素として分類するためには、犬の定義がわかっていなければならないが、その定義を決めるには、ポチは犬だがミケは犬ではない、などと分類しなければならない。それには、まずポチが犬かどうかわかっていなければならない

・・・といった堂々めぐりが100年近く続き、最終的には唯名論が近代哲学への道を開いた、というのが標準的な理解である。個体だけを実在とみなし、普遍的な絶対者(神)を否定する唯名論は、実証主義や功利主義などの啓蒙思想の元祖だった。続きを読む

「市場か、福祉か」を問い直す

NIRAから、福祉政策についての研究報告書を送っていただいた。基本的な考え方は、先日の片山さんとの議論とよく似ているが、政策としての実現可能性に配慮して具体的な提言をしている。その柱は、次の3つ:
  1. 政府による公平なリスクの社会化を実現する:高齢者世代へ偏った再分配政策のあり方を見直し、各世代がリスクを公平に分かち合うことのできる制度に変更する。給付に当たっては、ターゲティングの考え方に基づき、真に保障を必要とする人に限定した再分配を行うとともに、窓口における行政の裁量性を排除する。

  2. 市場メカニズムを最大限に重視した政策を実現すると同時に、市場での競争を支えるインフラ整備を行う:規制緩和をはじめとする市場メカニズムを活用した効率性重視の政策を実現し、企業の競争力を強化する。また、企業や個人がリスクを取ることができるように金融市場を活用したリスク・シェアや寛容な破産法制の整備を行う。

  3. 雇用規制による一律の保護ではなく、個人が自分にあった働き方を主体的に選択できるようにする:規制によって個人を保護するのではなく、個人が、自分に合ったリスクとリターンの組み合わせを選択し、主体性を発揮できる社会を築く。同時に、性別・雇用形態・年齢によって差別されない公平な社会を築く。
戦後の日本社会の安定を支えてきた「共同体」(特に企業)に依存した福祉レジームがもう維持できなくなり、個人をベースにした透明で公平な所得再分配に移行せざるをえないという点は、おそらく多くの経済学者のコンセンサスだろう。そのためには、企業が労働者の人生を支配する代わりに死ぬまで面倒をみるシステムを変える明確な「レジーム転換」が必要だ。

ところが報告書も批判するように、派遣労働の規制を強化したり雇用調整助成金で過剰雇用の負担を企業に押しつけようとする民主党の政策は、低負担の「自由主義レジーム」と高福祉の「社会民主主義レジーム」のいいところをつまみ食いしようとする矛盾したものだ。それは2010年度予算で明らかになったように、財政破綻のリスクを高めるばかりでなく、世代間の不公平をさらに拡大する。

財政的な余裕のない中で、この報告書の提言するようなレジーム転換を行なうことは、きわめて困難である。問題は、民主党政権にそのようなアジェンダ設定さえないことだ。少なくとも支離滅裂なバラマキ福祉を「いのちを守りたい」などという美辞麗句でごまかそうとする鳩山内閣が退場しないかぎり、何もできないだろう。

シンボリズムの価値

西太平洋の遠洋航海者 (講談社学術文庫)モースの『贈与論』や本書のような古典が訳本で読める日本は、幸福な国だ。一般の読者が読んでおもしろい本ではないが、経済学が想定している市場による交換とは別のクラという贈与のメカニズムが存在するという事実だけでも知っておく価値がある。

この贈与が何を意味するのかについては多くの議論があるが、中沢新一氏は解説で、その本質は互酬性(reciprocity)だとしている。これは最近の実験経済学の調査でも、ほとんどすべての社会に見られる原理である。それは必ずしも「利他的」な行動ではなく、贈与のネットワークによって社会を統合して紛争を防ぐ機能をもっている、というのがマリノフスキ以来の機能主義的な解釈である。

しかし中沢氏も指摘するように、クラには豊かなシンボリズムがあり、芸術や儀礼の役割もある。これは機能主義的な観点からは余計な部分だが、むしろこうした面にクラの本質があるのかもしれない。現代の女性が、原価数百円の香水に「シャネル」というブランドがつくと何万円も出すのと同じく、人々は古来から美的シンボルを消費してきたのである。

価値の源泉を労働に見出す古典派経済学も、その源泉を効用に見出す新古典派経済学も、こうしたシンボル的な側面を見落としている。有名な「水とダイヤモンド」の比喩でいえば、ダイヤモンドは労働生産物ではなく、大した効用(有用性)もない。女性がダイヤモンドをほしがるのは、それが有用だからではなく、彼女の社会的地位を象徴する美的な意味があるからだろう。

もちろん市場は、あらゆるものを商品として「脱意味化」するシステムであり、それを定量的に解析するには家計や企業が<何か>を最大化すると仮定するのが便利である。しかしその経済学が、成長率を決める最大の要因がイノベーションだという結論にたどりついたのは皮肉だ。イノベーションを生み出すのは労働でも効用でもなく、象徴的な意味の創造であり、「脱工業化社会」ではシンボルの価値は今後ますます高まるからである。

イノベーションとは何ではないか

マーケティングの神話 (岩波現代文庫)アゴラ連続セミナーの4・5月のテーマは「イノベーション」。今さらという人もいるかもしれないが、18日に出た日本経団連の提言を読むと、まず「イノベーションとは何ではないか」を経営者や官僚に理解してもらうだけでも意味があるような気がする。

経団連は、政府が「イノベーション・ハブ」をつくって技術革新を推進し、「知的財産保護を強化」するよう求めているが、こういう官民の合意によってイノベーションが生まれることはありえない。経営者はイノベーションを、マーケティング調査→社内のコンセンサス→技術開発→製造・販売という単線的なサイクルで考えるが、それは神話だと本書は断定する。

たとえば、かつて洗剤の史上最大のヒット商品となった花王の「アタック」は、小型の洗剤が売れるというマーケティングによって開発された製品ではなかった。当初の宣伝コピーは、酵素を使って「バイオが白さを変えた」というものだったが、いつも重い洗剤の箱を持ち帰る主婦が、その半分以下の重さですむアタックに飛びついたのである。

開発者も驚くようなイノベーションは、このようにマーケティングと関係なく生まれることが多い。特にIT機器やサービスになると、その傾向が強い。ITというのは基本的に生活必需品ではないので、iPodにせよFacebookにせよ、ブランドイメージやセンスなどの意味的な要因でヒットするものが多い。

いま必要なのは、市場の要望を組織的に「帰納」する論理実証主義型マーケティングではなく、個人が仮説を立てて市場に提案する芸術型イノベーションだ、と著者はいう。そこには決まった手順も多くの人々のコンセンサスもなく、一人のアーティストが一貫した意味を創造することが重要だ。それが市場に受け入れられるかどうかはやってみないとわからないが、プレゼンテーションのセンスまで含めてイノベーションなのである。

この観点から著者は、消費者が(所与の)効用を最大化するという経済学の功利主義を否定する。むしろイノベーションのモデルとなるのは、行動の隠れた意味を分析するエスノメソドロジーのような社会学や、認知意味論のような言語学の方法論であり、その基礎にあるのはポストモダン的な懐疑主義だ。霞ヶ関や財界の主導する「イノベーション立国」などという発想は、ほとんど名辞矛盾である。

日本の企業が立ち直るには、こうした発想の転換が必要だと思うので、セミナーでは現場のビジネスマンの皆さんと議論したい。

追記:本書は科学哲学をベースにしているのでかなり抽象的だが、著者の近著は具体例に即してマーケティングを論じている。

孫正義氏は「電波開国の坂本龍馬」になれるか

先日の「電波鎖国」についての記事が、ツイッターで孫正義氏にRTされ、700以上のRTがついた。電波の割り当ては、ケータイだけでなく、今後でてくるiPadなどのタブレット端末にも大きく影響する。特に総務省の「700/900MHz帯移動通信システム作業班」で割り当てが検討されている次世代携帯の帯域がどれだけ確保できるかが、今後10年の日本の通信産業の運命を決めるといってもよい。

この作業班で、クアルコムなど外資系メーカーは「このままでは日本は孤立する」と主張した。日本の周波数割り当てだけが欧州・アジアと異なるため、世界の大手ベンダーが日本用の通信チップをつくらず、日本ベンダーの端末も輸出できなくなるおそれがある。ただでさえ「ガラパゴス化」で競争力の落ちている日本企業にとっては、海部美知氏のいうように「棺桶の蓋に釘」となろう。

日本が他国と同じ帯域を使えないのは、テレビ局が月間に数十時間しか使っていないFPU周波数(770~806MHz)を離さないためだ。この帯域は他の国ではアップリンク用に使われており、ここを開放すれば日本も700MHz帯でアップリンク/ダウンリンクのペアができ、国際標準の端末が使える。しかしテレビ局が居座っているため、携帯用には40MHzしか取れず、このままでは700/900MHzのペアという世界のどこにもない割り当てになってしまう。

他方、ニューズウィークでも紹介したように、FCCは10年以内に500MHzの電波を開放するという全米ブロードバンド計画を発表した。これはブロードバンドの重点を、光ファイバーから高速無線に移すものだ。クリントン政権のFCC委員長だったリード・ハント氏は、この計画を次のように高く評価している:
これは放送が「コモン・メディア」だった時代が終わり、ブロードバンドがコモン・メディアになる時代の始まりだ。デジタル化にあたっては、テレビに過大に与えられている周波数を削減し、ブロードバンドに渡すべきだ。インターネットが広がったとき、FCCは電話会社を規制して彼らがインターネットを妨害するのをやめさせたが、今度はテレビ局の妨害をやめさせなければならない。FCCはデジタル放送のバウチャーを配ったが、本来は技術中立な「ブロードバンド・バウチャー」を配るべきだった。
幕府の時代が終わったように、ドメスティックなテレビの時代は終わった。これから始まるのは、携帯やタブレットによる国境を超えたクラウド・コンピューティングの時代であり、それに必要なのは人々を常時つなぐ無線ブロードバンドである。その帯域が500MHz確保されるアメリカと、40MHzの日本では、東名高速と自転車道で競走するようなものだ。

日本の周波数を開国することは、海外の最新サービスを利用可能にすると同時に、日本の製品やサービスが世界(特にアジア)に出て行くチャンスとなる。数百MHzの帯域が開放されれば、ベンチャー企業が参入して新しいサービスが生まれ、料金も大幅に下がることが期待できる。テレビも新聞もこの問題をまったく報じないが、ツイッターやブログから電波開国の動きが始まれば、日本の民主主義が変わるかもしれない。そうした動きを起こせる「坂本龍馬」は、孫氏だけだろう。

正しいセーフティ・ネット

きのう片山さつきさんとの対談で、ツイッターの反応も同時進行で見たのだが、若者の福祉に対する不安が強かった。税金や年金が団塊以上の世代に食い逃げされ、自分たちには重税と不安定雇用が残るのではないか、という絶望が彼らの消費を抑制し、不安をさらに増している。

日本のように成熟した社会では、急速な成長を求めるのではなく、福祉による「幸福度」の向上を求めようという民主党の考え方はわからなくもない。しかし、それならまず手をつけるべきなのは、不合理な社会保障制度だ。湯浅誠氏のいうように、現在のセーフティ・ネットは穴だらけで、もっともネットを必要とする零細企業が失業保険を払っていないため、職を失うと「すべり台」のようにホームレスになってしまう。

他方で、福祉の負担を企業に押しつけてきたため、大企業の付加給付や年金負担は賃金総額を上回り、JALにみられるように経営破綻の原因になる。「終身雇用」という名の過剰雇用を義務づけ、雇用調整助成金によって「人的不良資産」の処理を先送りする民主党政権の政策は、(90年代に経験したように)水面下で問題を拡大し、最終的にはJALのように破局的な結果をもたらすだろう。

福祉充実と財政再建と両立させるには、非効率で不公平な社会保障システムを改革するしかない。その際の基本的な考え方は、八田達夫氏もいうように、老人とか農家などのグループによって所得を再分配するのではなく、個人の所得によって再分配を行なうことだ。老人でも何十億円も資産のある人には医療費は全額負担させてもいいし、農家の所得は非農家より高いのだから所得補償なんて必要ない。

フリードマンが半世紀前にのべたように、所得再分配はしょせん金の問題なのだから、すべて税制によって行なうべきだ。北欧で国民負担率が高くても不公平感がそれほど強くないのは、負担と給付の関係が透明だからである。ところが日本では、所属集団に依存するアドホックな移転給付が多く、自分の負担が自分の生活の安定に使われているという実感が少ないため、税率が低いのに重税感が強い。

もっとも合理的なのは、老人福祉や地方交付税や公的年金などの無原則な社会保障を全廃し、負の所得税と付加価値税(インボイスつきの消費税)と固定資産税(逃避できない)だけにすることだ。これによって厚生労働省は廃止でき、一般会計の約30%を見直すことができる。

ただ、社会福祉を税に集約することについては異論もある。移転給付が多すぎると労働意欲が減退し、社会が停滞するからだ。むしろ人々が自分の所得を稼ぐ場を広げる積極的労働市場政策が必要だ。その意味では解雇規制を緩和する代わりに、大部分の大学を(社会人も対象とする)職業訓練校に改組する必要があろう。サラリーマンを会社から解放して、かれらが新しい職場で働くチャンスを広げることが、究極のセーフティ・ネットだと思う。

追記:NIRAの報告書が、ほとんど同じ趣旨の提言をしている。

偽のニーチェ

超訳 ニーチェの言葉近所の本屋で、このところずっと『超訳 ニーチェの言葉』という本がベストセラーのトップだ。発売1ヶ月で16万部を超えたという。立ち読みした感じでは、彼の箴言集から(版元のビジネスである)自己啓発に関連する言葉を拾い出したようだが、これはほとんど偽書である(リンクは張ってない)。ニーチェが口をきわめて攻撃した敵は、史上最大の自己啓発カルトであるキリスト教だったからだ。「超訳」ではなく、原文に忠実に訳すと(強調は原文)、
おお、私の兄弟たちよ! いったい人間の未来にとっての最大の危険は、どういう者たちのもとにあるのか? それは善にして義なる者たちのもとにあるのではないか? すなわち「何が善にして義であるかを、われわれはすでに知っており、さらにそれを体得してもいる。このことで今なお探究する者たちに、わざわいあれ!」と口に出し、心に感じている者たちのもとにあるのではないか?(『ツァラトゥストラ』)
これまで人間をおおってきた災いは、苦悩することそのものではなく、苦悩することに意味がないことだった。――そして禁欲的な理想は人間に、ひとつの意味を提供したのである! これが人間の生のこれまでの唯一の意味だった。[・・・]禁欲の理想が人間にこれほど多くのことを意味するということのうちに、人間が意志するものだという根本的な事実が、人間の<真空への恐怖>があらわに示されている。人間の意志は、一つの目標を必要とするものだということ――何も意欲しないよりは虚無を意欲することを望む者だということである。(『道徳の系譜学』)
キリスト教はあらゆるできそこないの人間、暴動を起こしたくてうずうずしている連中、失敗した輩、人類の中の屑やがらくたを、この手で自分のほうに手なずけてきたのである。魂の救いとは、ありていにいえば、「世界はを中心にして回っている」ということなのだ。「万人の平等権」という教えのもつ害毒――この毒を徹底的にまき散らしてきたのもキリスト教である。(『反キリスト者』)
道徳はできそこないの者どもがニヒリズムに陥らないように防ぐが、それは道徳が各人に無限の価値を、形而上学的価値を与え、この世の権力や階層とはそぐわない秩序のうちに組み入れることによってである。(『力への意志』)
道徳とは、今日のヨーロッパでは畜群道徳である。(『善悪の彼岸』)
ここでニーチェは、「何が善にして義であるかを知っている」と自称して人々を教え、<真空への恐怖>を埋めて救済するキリスト教の教説を、激しく攻撃している。ニーチェがポジティブな哲学者だというのは間違いではないが、それはプラトン以来の「ヨーロッパのニヒリズム」を全面的に否定した果てにたどりついた生の肯定であり、この本に書かれているようなお手軽な処世訓の対極にあるものだ。

人々に「生の意味」を与え、「あなたの年収は10倍になる」などという幻想を売り込む商売は、歴史上さまざまに形を変えて広く続いてきたし、これからも続くだろう。しかしそういう自己啓発を信じるのは無知な「畜群」だ、とニーチェは軽蔑し、彼らを飼い慣らして不幸に甘んじるように教えるキリスト教の欺瞞を攻撃した。それをつまみ食いして「人生を賢く生きる言葉」として紹介した本が売れる日本には、まだ絶望が足りないのだろう。

ニーチェの本質を知りたければ、こういう愚劣な本ではなく、ハイデガーの『ニーチェ』をおすすめする。これは講義録なので読みやすく、後期ハイデガーの代表作でもある。

民主党政権で初の正しい経済政策

鳩山首相が、法人税の減税に言及した。今週のJBPressにも書いたが、日本の実効法人税率が主要国できわだって高いことが、日本経済の活力を奪っているので、これは日本経済が立ち直るための手がかりとなろう。

ただ「法人税を減税すれば投資が増える」というのは、国内企業については正しくない。投資水準は(ケインズ的にいえば)投資の限界効率で決まるので、税引き後利益が増えてもそれほど増えるわけではない。重要なのは国際資本移動への効果である。シンガポールでは13%しか課税されないのに、日本ではその3倍も取られるのでは企業の海外逃避が起こり、対内直接投資も昨年はGDPのわずか0.2%である。

左の図はアメリカとそれ以外のOECD諸国の法人税率の比較だが、アメリカの税率は日本とほとんど同じだ。このように差が開いた原因は、欧州の経済統合にともなって域内の資本移動が容易になり、特に大企業の本社が税率の低いリヒテンシュタインやルクセンブルクなどに集中したことにある。そのため、各国は税収を失わないために法人税率を下げざるをえなかったのだ。事実、ここ10年でEUの法人税は約10%下がったが、税収はほとんど変わらない。日米が高いのは資本移動が困難だったためだが、日本の場合はシンガポールや中国との競争が激化している。

この租税競争はどこまで行くだろうか。ゲーム理論で考えれば、答は明白だ。この競争は「囚人のジレンマ」なので、税率をゼロに限りなく近づけた国に世界中の企業が集中するのが唯一のナッシュ均衡(かつ支配戦略)であり、これを避けることはむずかしい。グローバル化の拡大にともなって「底辺への競争」は加速するだろう。各国がいかに租税条約でカルテルを守ろうとしても、競争の勝利者はケイマン諸島である。

OECDなどが、タックスヘイブンを「脱税の温床だ」として取り締まるのは筋違いである。フリードマンやブキャナンなど200人の経済学者が主張するように、法人税は不合理な二重課税で、企業の資産構成をゆがめて過剰債務の原因となる。税理論としては、法人税を廃止して所得税は個人に一元化することが望ましい。正しいのは、OECDではなくケイマン諸島なのだ。

法人税の減税は、民主党政権で初めて出てきた正しい経済政策である。政府が経済を正しく予測してコントロールできるというのは幻想であり、有害無益な「**振興政策」はやめるべきだが、税制と規制の改革だけは政府にしかできない。これを機に、民主党が選挙むけのポピュリズムから脱却し、経済学者の意見に耳を傾けて、まともな経済政策に方向転換することを望みたい。

肉中の哲学

肉中の哲学―肉体を具有したマインドが西洋の思考に挑戦する
ジョージ・レイコフというのは日本ではほとんど知られていないが、言語学ではチョムスキーと並ぶ教祖的存在である。彼らの「メタファー」の概念は、100年前にマッハが注目した「ゲシュタルト」に近い。『感覚の分析』で「空間形態」と訳されているのが空間ゲシュタルトである。

レイコフ=ジョンソンのメタファーは、メタファーがすべて身体に由来するという疑わしい仮説を除くと、ゲシュタルトやパラダイムといった概念とほとんど同じである。この思想は、マルクスやニーチェとつながっている。

マルクスが「イデオロギー」と呼び、ニーチェが「パースペクティブ」と呼んだ概念がゲシュタルトの元祖だが、彼らが「支配階級の思想」といった利害対立で考えていた概念を、マッハは純然たる認知的な枠組として科学に応用し、これが相対性理論を生んだことは有名だ。

こうした認知論的転回の観点から考えると、メタファーの基礎に身体があるかどうかはどうでもよく、重要なのはそれが社会的に形成され、全体が個物に先立つというホーリズムである。経済学でも、たとえば消費者が「効用最大化」しているという命題は実証的に否定されており、行動経済学の示したようにフレーミングなどの概念化が意識的選択に先立つのだ。

では、そのメタファー=フレームがどうやって成立するのか、というのはきわめてむずかしい問題で、身体論だけでは答にならない。一時流行した「神経経済学」のような生物学的決定論もだめだろう。本書はその点が突き詰められず、アフォーダンスとかいうオカルトもどきの話で終わってしまう。ここから先は、認知科学にとっても経済学にとってもフロンティアである。




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