2009年09月

財政赤字への提言

OECDの対日審査報告書が発表された。今年は特に財政赤字についてくわしい分析をしているので、その部分を抜粋しておこう。
2010年には,政府の粗債務残高がGDP比200%,純債務残高では100%へと上昇すると見込まれ,財政の持続可能性に深刻な懸念を惹起している.日本の長期金利は,公的債務の上昇にも関わらず,驚くほど低位安定してきたが,これは豊富な国内貯蓄,投資の強いホーム・バイアス,そして,魅力的な国内投資機会が限られているという中で金融機関が継続的に国債を購入していることを反映している.今後,こうした低金利を支える条件が弱まっていくと見込まれる.

歳出削減は,財政再建目標を達成するために重要な役割を果たすべきである.2002年から2007年の景気拡大期において,一般政府支出はGDP比で39%から36%に低下したが,2010年には42%に達するものと見込まれる.公共投資は1996年のGDP比8.4%から2008年の4.0%へと減少したが,この流れは財政刺激策によってある程度反転した.この増加分を巻き戻すことは,GDP比約1%程度の歳出削減を意味する.

歳出削減の余地が限られていることから,抜本的税制改革による追加的な歳入増が必要である.こうした改革は歳入を増やすと同時に,増税が成長に及ぼす悪影響を抑制し,所得分配の不平等や相対的貧困に対する懸念を払拭し,地方税制を改善することに資する.改革の鍵となるのは以下のような点である:
  • 経済成長への悪影響を抑えることから,消費税率の引上げが主たる増収源であるべき.
  • 法人税を支払っていない企業の比率を引下げるような課税ベースの拡大は,経済成長を加速させる税率の引下げ余地を生み出すだろう.
  • 5割以下の賃金所得しか課税されず,自営業者の所得捕捉率が低いことにかんがみると,個人所得税の課税ベース拡大は歳入を増やすだろう.所得税の改革は,所得分配や相対的貧困問題に対応するために勤労所得税額控除制度の導入を含むべきである.
  • 23の税目という非常に複雑な地方税制の改善と地方自治体に対する更なる財政上の自律性の付与は有益であろう.
私のコメント:課税ベースの拡大のためには、先進国で最低レベルの税務署員を増やし、「クロヨン」のような捕捉率の不公正をなくすべきだ。そのためには、納税者番号を導入し、徴税業務の一部を民間委託するなど、税務を効率化する必要がある。またOECD諸国で最高の40%に達する法人税率を引き下げる一方で租税特別措置を撤廃するなど、複雑で不公平になった税制を抜本的に改めることが重要だ。

企業に依存する「日本型福祉システム」は、大企業の正社員を過剰に保護する一方、もっとも所得再分配を必要とする非正社員などの貧困層に届いていない。OECDも提言している負の所得税(勤労所得税額控除)を実施し、他方で企業年金の確定拠出への移行や退職金への課税などによって付加給付を減らし、社会保険の負担を削減する必要がある。長期停滞に向かう日本経済で「大きな政府」をめざす民主党の路線は、将来世代の負担と老後の不安を増して、消費を減退させる悪循環を起こすおそれが強い。

現代思想の断層

現代思想の断層: 「神なき時代」の模索 (岩波新書 新赤版 1205)
ニーチェは「来るべき200年はニヒリズムの時代になるだろう」という言葉を遺し、狂気の中で20世紀の始まる前年に世を去ったが、彼の予言はますますリアリティを増しつつある。

よく誤解されるように彼は「神を殺す」ニヒリズムを主張したのではなく、「神が自然死する」ことによって西洋世界が深い混迷に陥ることを予言し、それを克服する思想を構築しようとして果たせなかったのである。

本書はこのニーチェの予言を軸として、ウェーバー、フロイト、ベンヤミン、アドルノの4人の思想をスケッチしたものだ。ウェーバーとニーチェという組み合わせは奇異に感じる人がいるかもしれないが、ウェーバーは姜尚中氏の描くような「市場原理主義」をなげく凡庸な合理的知識人ではなく、ニーチェの影響を強く受け、キリスト教のニヒリズム的な側面が近代社会の合理的支配を自壊させると考えていた。

中心は著者の専門でもあるアドルノ論である。ヒトラーによって故郷を追われたアドルノは、ホルクハイマーとともに『啓蒙の弁証法』を書き、進歩をもたらすべき近代合理主義が、なぜ史上空前の大量破壊をもたらしたかを古代ギリシャにさかのぼって考察した。そこで彼らが見出したのは、ニーチェが批判してハイデガーに受け継がれた、自然の中に超越的真理を発見して支配する形而上学だった。近代の啓蒙主義は、その自然に対する支配の原理を科学技術という形で純化したにすぎない。

啓蒙的合理主義は西洋世界の比類ない経済的発展をもたらしたが、それはすべての彼岸的秩序を疑い、人々の帰るべき故郷を破壊してしまった。啓蒙は手段的合理性によって壮大な物質的富をもたらしたが、それはすべての目的や意味を否定するニヒリズムとなり、人々の精神的なよりどころを徹底的に否定したのだ。与えられた目的が正しいか否かを問わないで効率的に実行する啓蒙的テクノロジーが原初的な破壊本能と結びついたとき、アウシュヴィッツが生まれた。

しかしウェーバーもアドルノも、失われた故郷や伝統を取り戻せとは主張しなかった。啓蒙は不可逆の過程であり、近代の数百年の歴史の中で失われてしまった古きよき神話的世界を人工的に復元することはできないからだ。ニヒリズムがどんな宗教よりも強力なのは、それが人々に帰るべき故郷など元々ないという身も蓋もない事実を告げるからなのである。

支離滅裂な「鳩山イニシアティブ」

鳩山首相がCO2を25%削減する「鳩山イニシアティブ」を高らかに宣言し、世界各国がそれを賞賛するのをみて、経済学者ってどこの国でも無視されてるんだなと思った。Mankiw blogの読者ならご存じのように、世界の主要な経済学者は、排出権取引よりも環境税のようなピグー税のほうが効率的で公正だと主張しているのだが、政治家にはまったく理解されない。それどころか、この二つが代替的な政策手段だということさえ認識してない人が多い。民主党のマニフェストに至っては、
  • キャップ&トレード方式による実効ある国内排出量取引市場を創設する。
  • 地球温暖化対策税の導入を検討する。
と併記する支離滅裂なものだ。この両方を同時に実施することは不可能である。たとえば、あるCO2排出企業が、その排出権を他の企業から買って排出量をまったく削減しなかったら、どうするのだろうか。その企業に環境税を課税したら二重負担になるから、企業は購入した排出権を政府に買い取れと要求するだろう(つまり排出権取引は無意味だ)。もし課税しなかったら税の公平に反するので、税務署は許さないだろう。

排出権取引はアメリカの一部の州で実施されているが、それを考案したCrockerも「これはローカルな制度で、国際的な排出権取引は不可能だ」と反対している。排出量の正確な測定やペナルティが実施できないからだ。おまけに、それは政治的にも不可能だ。排出権取引でもっとも重要なのは排出量の割り当てだが、それを決める科学的な根拠がなく、政治的な紛争になりやすいからだ。

欧州は「鳩山イニシアティブ」を賞賛しているが、オバマ大統領は数値目標を明言しなかったし、中国など途上国は先進国の責任だと主張している。日本が負担してくれるのは他国にとって結構なことだから、鳩山氏がほめられるのは当たり前だ。たとえば日本の企業が中国に何兆円も出して排出権を買うのは、ゼロ成長の国が8%成長の国に巨額の開発援助をする結果になり、とても国民の支持を得られないだろう。

かといって国内だけで「鳩山イニシアティブ」を実現しようとすれば、政府の推定にも示されているように、新車の90%をハイブリッド車にし、ガソリン価格を数倍にし、すべての住宅を断熱住宅に改築するよう義務づけるなどの大規模な統制経済が必要で、GDPは3.2%も下がる。これはどう考えても実現不可能な目標である。

物理的に不可能な目標を掲げ、「大和魂さえあれば何とかなる」と国民を鼓舞するのは、前の戦争に日本が突っ込んでいった時を思わせる。経営工学の専門家である鳩山氏が、かつて研究した経営資源の最適配分という合理的思考を忘れて、政治的な大向こう受けをねらったのだとすれば、経済学も経営学も大した学問ではないのだろう。

追記:鳩山首相は記者会見で「温暖化は人類の生存が脅かされる問題だ」と発言したが、これは誤りである。IPCCの予測でも、100年後に平均3℃程度上がるだけで、人類の生存には何の影響もない。

大収縮1929-1933

大収縮1929-1933 「米国金融史」第7章(日経BPクラシックス) (NIKKEI BP CLASSICS)Friedman-Schwartzの古典(の第7章)が初めて訳された。本書はケインズのいう「総需要の低下によって通貨供給が減った」という因果関係を逆にして、FRBが通貨供給量を絞ったことが金融収縮をまねいて大恐慌をもたらしたことを定量的データによって証明したものだ。その後も本書については大論争があったが、Bernankeも基本的にFriedman-Schwartzが正しかったと結論している。FRBに引き締めの意図はなかったが、当時は金本位制だったため、金の流出を避けるために金利を引き上げたことが通貨供給の減少をもたらし、他国に不況を輸出したのである。

だから金融危機に対応する決定的な条件は、流動性を十分供給して銀行の連鎖倒産と取り付けを避けることであり、財政支出にはほとんど意味がない。1963年に出た本書がもう少し読みやすく書かれ、マクロ経済学の教科書に取り入れられていれば、戦後の多くの金融危機はもっと軽微で、財政赤字は少なくてすんだかもしれない。経済学は大した学問ではないが、それを知らないことは大きな災難をもたらすのである。

花岡信昭氏の「絶滅危惧種的メディア論」

産経新聞の元政治部長だった花岡信昭氏が、日経BPで「記者クラブ制度批判は完全な誤りだ」と主張している。昨今の記者クラブ開放に反対する勇気ある発言、といいたいところだが、その論理があまりにもお粗末で泣けてくる。彼はこう宣言する:
日本の記者クラブは閉鎖的だという主張は完璧な間違いである。アメリカのホワイトハウスで記者証を取得しようとすると、徹底的に身辺調査が行われ、書いてきた記事を検証され、指紋まで取られる。そのため記者証取得には何カ月もかかる。[・・・]内閣記者会には、日本新聞協会加盟の新聞社、通信社、放送会社に所属してさえすれば、簡単に入会できる。
これは「閉鎖性」とは何の関係もなく、アメリカはセキュリティ・チェックがしっかりしていて、日本はいい加減だということである。私がNHKに勤務していたころは、記者証を政治部の記者に借りて首相官邸の中まで入ったこともある。武器のチェックもしないので、テロリストが記者証をもってまぎれ込んだら一発だ。
以前は、記者クラブを「親睦組織」と規定していたのだが、それを「公的機関の情報公開、説明責任という責務」と、メディア側の「国民の知る権利を担保する責務」が重なりあう場に位置するといった表現に改めた。親睦組織という位置づけでは、公的機関の側が記者クラブの部屋を提供するといったことの説明がつかないためである。たしかに、かなり前までは、電話代やコピー代など諸経費を公的機関の側に負担させるといったことも行われていたが、さすがに、いまではそういう不明朗なことは払拭された。
私の勤務していたころに比べれば、電気代などを負担するようになったのは一歩前進だが、「公的機関の側が記者クラブの部屋を提供」して家賃も払わないのはどういうわけかね。「国民の知る権利」をどういう根拠で特定のメディアが独占するのか。東京都心の一等地の家賃は、駐車スペースを含めると月数十万円だと思うんだけど、こういうのを便宜供与というんじゃないの。それに役所に支給されていた机や電話や雀卓も返したのかな?
政治取材には「記者会見」と「懇談」がつきものだ。会見は相手の名前を特定して報道していいケースである。「懇談」というのは、「政府首脳」「政府筋」「○○省首脳」などとして、発言者をぼかして扱うものだ。会見開放となると、いったいどこまでオープンにするかが現実問題として厄介なことになる。
記者会見はクラブがなくてもできるし、懇談なんてものは日本以外の国にはない。記者はそれぞれの実力で政治家に食い込み、個別に取材するのだ。「どこまでオープンにするか」なんて、記者が自分の責任で決めるんだよ。「特落ち」を恐れて各社がぞろぞろ政治家の自宅に上がり込んで夜中まで飲ませてもらい、「ここはオフレコで」などと話し合っているのは、メディアのいつも指弾する談合じゃないのかね。

救いがたいのは、花岡氏が「より深い情報を取材する」方法が記者クラブしかないと信じ込んでいることだ。世界中でこういう奇怪な制度があるのは日本だけだが、彼の論理によれば他の国の記者は「濃密な取材」ができないらしい。たとえばNYタイムズと産経の記事を比べれば、どっちが「深い情報」にもとづいて詳細に取材しているかは一見して明らかだろう。そもそも花岡氏のように田母神論文を「事実関係はおかしいが根性がある」という理由で最優秀に推すような人物にとっては、事実なんかどうでもいのではないか。

日本のIT産業がガラパゴス化していることは総務省も問題にしはじめたが、もっとひどいのは「日本語の壁」に守られているメディアだ。しかも外の世界を知らない彼らは、自分たちが特別なエリートだと思い込んでウェブなど他のメディアを蔑視し、花岡氏のように特権意識丸出しで開き直る。悪いけど、誰も産経をエリートだなんて思ってないよ。それはフジテレビに支えてもらってようやく経営を維持している絶滅危惧種にすぎない。絶滅に瀕しているのはこのように変化を拒否してきたからなのだが、何とかは死ななきゃ直らないのだろう。

財政刺激は役に立たなかった

John Taylorもブログを始めた。経済もドッグ・イヤーで動き始めた現代には、もう学術論文では間に合わないのだろう。その最初の記事で引用している彼のWSJの記事では、オバマ政権の財政政策によってDPI(可処分所得)は一時的に上がったが、PCE(個人消費支出)には変化がなかったことを示している。

なお来月からアゴラもバージョンアップして、日本の(数少ない)専門家のブログのネットワークを構築し、定期コラムニストを設けて、もう少し本格的なウェブメディアにする予定。

技術への問い

技術への問い (平凡社ライブラリー)
本書は、ハイデガー晩年のもっとも重要な論文「技術への問い」を中心にして5本の論文を集めたものである(復刊)。最初に断っておかなければならないのは、訳があまりにもひどく、とても通読できないということだ。たとえば技術をGe-stellという奇妙な言葉で表現する重要な部分は、本書ではこう訳されている:
われわれはいま、それ自体を開蔵するものを用象として用立てるように人間を収集するあの挑発しつつ呼びかけ、要求するものをこう名づける――集‐立(Ge-stell)と。
グーグルの自動翻訳でも、もう少しましな訳になるだろう。私は原文を読んではいないが、英訳のほうがはるかにわかりやすい。英訳ではGe-stellはenframingと訳されており、自然を一定の枠組の中で理解し、利用することだ。

この論文が重要なのは、若きハイデガーが『存在と時間』で提起した形而上学批判という問題に、晩年の彼が技術論という形で(暫定的な)答を出しているからだ。といっても彼が「テクノロジーが人間を疎外する」とか「自然と人間が共生しよう」などという陳腐なヒューマニズムを表明しているわけではない(彼はヒューマニズムを否定している)。続きを読む

「日本版FCC」は何のためにつくるのか

朝日新聞によれば、政府が「日本版FCC」をつくることを決めたそうだ。これは民主党が昔から提唱している政策で、私も5年ほど前に議員立法の原案を見せられたことがある。そのとき「何のためにやるんですか?」と質問したら、提案者は「欧米ではみんなやっているから」としか答えられなかった。

7月の情報通信政策フォーラムでも、会場から「規制部門を分離したら具体的にどういうメリットがあるのか?」と質問されて、内藤正光氏(現副大臣)は「政府を批判する放送局を政府が規制するのはおかしい」と言っていたが、彼はFCCが政府機関ではないとでも思っているのだろうか。FCCは職員2000人以上の堂々たる政府機関であり、メディア局にはすべての放送を監視する職員がいて、不適切な放送には最高数十万ドルの罰金を科す。

そもそも特定の番組が適切かどうかを政府機関が審査する必要があるのだろうか。この点については、総務省べったりの広瀬道貞民放連会長でさえ、記者会見でFCCの委員5人のうち3人が与党推薦であることを指摘し、「時の政治から完全に無縁というのは難しいと思う」とした。日本では、BPO(放送倫理・番組向上機構)が放送内容への勧告などを行っている。「FCCによる判断と、BPOによる判断とどちらがいいのか」という質問に、広瀬氏は「私は今の段階ではBPOがいいと思う」とのべた。

私も広瀬氏に(珍しく)賛成だ。メディアの多様化した時代に、テレビだけを規制する現在の放送法がおかしいのであり、放送内容を規制する部門は廃止し、問題の解決はBPOのようなADR(代替的紛争処理機関)にゆだねるべきだ。通信についても同様に、規制をやめて電気通信紛争処理委員会にゆだねるべきだ。要するに、通信・放送の規制部門は分離するのではなく廃止し、当事者による司法的な解決にゆだねることが望ましい。

日本版FCCは、これまでアメリカの対日要求のトップにあがってきたが、総務省は反対してきた。橋本行革のときも、中間答申で出た「通信放送委員会」構想を野中広務氏を使ってつぶした。ところが今度は省内では「日本版FCC歓迎」だという。規制撤廃の圧力が強まる中で、それを独立機関に分離して法律をつくれば、現状の規制を固定できるからだ。そして分離された官僚たちは規制しか仕事がないのだから、規制を強化するインセンティブをもつ(この点はFCCも批判されている)。

しかしもちろん、官僚はそんなことはいわない。「私たちは分離には賛成ではないのですが、原口大臣がおっしゃるなら、組織エゴを捨てて分離しましょう」といって「政治主導」の形をつくってあげるのだ。

追記:レッシグもFCC廃止論を主張している。これこそ「2周遅れ」の議論なんですよ、原口さん。

フランス革命は正しかったのか

総選挙では民主党が「革命的な変化」を強調したのに対して、自民党は保守主義の立場から「継続的変化」を主張した。これは昔から続いている論争で、歴史の教科書ではフランス革命は近代社会を生み出した偉大な出来事とされているが、バークからハイエクに至る保守主義にとっては、それは理性や人権の名のもとに大量殺戮を行ない、ロシア革命に至る「計画主義」の端緒となった大規模テロリズムだということになっている。

経済学者のほとんどは後者の立場だが、Acemoglu et al.はこの通説に挑戦し、数量経済史的な手法でバークが誤っていたと主張する。彼らは当時の人口データを使って、図のようにフランス革命とナポレオン戦争によって占領された地域で都市化(人口の都市集中)が進み、成長率が上がったことを示している。補完的な制度は「ビッグバン」によって一挙に変えないとだめなのだ、と彼らは主張する。フランス革命はすべてを破壊したため、アンシャンレジームに戻すことが不可能になったのだ。
7e85a363.jpg
Acemogluたちは「経済発展にとっても最も重要なのは民主主義や財産権の保護などの制度である」と主張しているが、これに対して台湾や韓国の例をあげて、逆に「経済が発展すれば民主主義になるのだ」として、むしろ経済発展には「開発独裁」のほうが効率がいいと主張する人々も多い。この論文は、フランス革命とナポレオン戦争が全欧の旧秩序を破壊したことが近代化の原因だったことを示し、「制度が経済に先立つ」と主張している。たしかに欧州ではそうだったかもしれないが、これがそれ以外の文化圏にも適用できるのかどうかは疑わしい。最大の反例は中国だろう。

景気対策で「身分格差」は直らない

井出草平の研究ノートという社会学者のブログに、「ロストジェネレーションは計量的に支持されない」という記事があった。ここで彼が批判しているのは、現在の雇用問題の原因を単なる不況による「就職氷河期」の問題とみる説だ。大卒の求人倍率だけをみると、90年代には1を割ることもあった大卒求人倍率が、2006年には2を超えている。これだけみると「景気さえよくなれば雇用問題は解決する。構造改革なんてナンセンス」という、今は亡きリフレ派の議論が当たっているようにみえる。ところが、非正社員の比率を年齢別に分析すると、次のようになっている:
d6581d20.jpg
これを受けて井出氏はこう結論する:
若年者の非正規雇用率が高まっていくのは、1980年くらいから始まる長期トレンドであるが、景気回復によって、この傾向が変化したことはない。変化したのは、大卒ホワイトカラーという恵まれた立場の人間たちの就職率(正規雇用率)が高まった程度である。景気回復による正規雇用の椅子は新卒の大卒ホワイトカラーに吸い取られて、就職の難しい高卒者や労働市場全体にまでは波及しない。現在の若年非正規雇用問題というのは、景気回復では決して解決しないのである。非正規雇用と正規雇用という「身分」の差というのは、景気回復でどうにかなるものではない。
これは経済学でいうと、統計に出てくる(循環的な)失業率と、構造的な自然失業率の違いだ。循環的な失業率は、景気がよくなればある程度、減らすことができるが、労働市場のゆがみによる自然失業率は景気対策で減らすことはできない。そして次の図のように、構造的な身分格差(非正規雇用比率)は、「雇用保護」の強さと正の相関がある(経済財政白書)。白書は同様の関係が、雇用保護と失業率の間にも成り立つことを示している。したがって民主党政権が派遣労働を禁止して雇用規制を強めると、格差が固定されるとともに失業率が上がる可能性が高い。

678ecd6e.jpg

ただし井出氏が「非正規と正規の待遇差をなくして、所得移転をする」ことが本来されるべき議論だとしているのは、前半は正しいが後半は誤りである。上でものべたように、所得移転によって自然失業率は変わらない。厚労省が1500倍以上に激増させた雇用調整助成金のようなバラマキ雇用対策は、社内失業を温存して労働市場を硬直化し、ゾンビ企業を延命することによって90年代と同じような不況の長期化をまねくだろう。問題は正社員だけに保障されている「終身雇用」という特権を廃止し、非正社員との身分差別をなくすことである。




スクリーンショット 2021-06-09 172303
記事検索
Twitter
月別アーカイブ
QRコード
QRコード
Creative Commons
  • ライブドアブログ