2009年06月

解雇規制の耐えられない曖昧さ

「解雇自由」の定義をめぐってつまらない議論が繰り返されるのもうざいので、ここでまとめて書いておこう。そもそも解雇自由という言葉が多義的であり、民法では解雇自由の原則を規定している。この定義はビジネスの現場ではもっと多様で、たとえば人事コンサルタントの鈴木雅一氏は次のように書いている:
解雇問題にあっては、日本と好対照に位置づけられるのがアメリカである。Employment at will、これは日本では“随意雇用・解雇”と訳す。Employment at willとは、会社も社員も、雇用契約の当事者は、いずれかの自由意志で、理由のあるなしにかかわらず、雇用関係を解消できるということを意味する。

ヨーロッパ諸国の事例は若干事情が異なるように思える。概して言えば、アメリカほど解雇は簡単ではないと言えよう。しかしながら、Employment at willの根底にある解雇自由については、原則としては受け入れているように思える。その上で、能力不足などを原因とする解雇と、リストラなどの場合の解雇を分けて会社のとるべき対応方法を規定したり、勤続年数に応じて解雇予告期間を設定することで結果として解雇における金銭解決策に導く工夫をしたりしている。

アメリカの事例に戻れば、Employment at willとは言え、公序良俗に反する差別的な理由による解雇は不当であるとされている。加えて、近年、雇用関係における特殊性、すなわち、交渉力や経済力の実質的な格差から、会社に比べて社員が弱い立場にあるということを考慮して、解雇を論ずる判例も見られるようになってきた。(強調は引用者)
つまり解雇自由=Employment at willという原則は主要国では変わらず、それが労働者に不利にならないように条件をつける構成になっていることも共通なのだ。ところが日本では、この原則と例外の関係が法的に明確でなく、解雇権濫用法理などによって事実上すべての(4要件を満たさない)整理解雇が違法ということになっている。これが経営者を萎縮させて正社員の雇用を減らし、非正規雇用を増やしているのである。

私が書いているのは、今のような曖昧な解雇規制を改め、労基法に解雇自由の原則を明記し、どういう場合には解雇を禁止するか、あるいは解雇の際に労働者にどういう配慮をすべきか、といった規定を明文で設けるべきだ、という世界の常識にそった話だ。この点は2003年の労基法改正のときも議論され、労組の反対でつぶされたが、OECDやNIRAの報告書を読めばわかるように、こういう考え方が経済学者のコンセンサスだ。

ただ経済学者の議論は実装段階を考えていないので、こういうpolitically incorrectな改革を政治的アジェンダとして設定するにはどうすればいいか、あるいはどう法制化するかといった点については、政治家や官僚との議論も必要だと思う。しかし「霞ヶ関の辞書」だけを絶対的真理と思い込み、自分と違う考え方を頭から「無知蒙昧」などと罵倒してかかるような党派的態度からは、建設的な議論は生まれない。

民主党のとるべき政策

自民党は、ますます政権末期の様相を呈してきた。民主党が相対第一党になることが確実になった今、その支離滅裂なマニフェストをまじめに批判するときが来たようだ。WSJでRichard Katzはこう書いている:
A major cause of anemic consumer spending is the drop in real wages by 7% from 2001 through 2008. A major factor in the wage slide is the rise of "irregular workers" who now comprise a third of the workforce and are typically paid lower hourly wages even when they do the same job as regular workers. Various labor deregulations advertised as overcoming Japan's notorious labor market rigidity have instead led to wage austerity.

The DPJ remedy is to ban wage discrimination between regular and irregular workers and to institute a 30% increase in Japan's low minimum wage over the next three years. These approaches are contradictory because the latter could end up reinforcing rigidities that hurt both GDP growth and new hiring.

And that requires structural reforms that unleash creative destruction, such as greater labor mobility, more competition in private industry, greater opportunities for entrepreneurs, and more efficient financial markets
今までEconomistやFTの意見でも紹介してきたように、民主党がとるべき経済政策はほとんど自明である。Katzが心配しているのは、その当たり前の政策を、社会主義者の残党の多い民主党が実行できるのかどうかということだ。

東大のランキングと経済学者の実力

先週、発表されたQS.com のランキングによると、東大はアジアで3位だそうだが、世界ランキングでは19位。日本の大学は100位以内に4つしか入っていない。

それでもこれは理科系が強いからで、経済学部ランキングでは東大は世界の118位で、200位以内に他の大学は入っていない。経済学者ランキングでは、1000人中に5人しか入っていない。最高は、伊藤隆敏氏の235位。最近は経済学でも、国際学会誌に載った論文以外は業績にカウントしないという話が出ているが、その基準を厳密に適用すると、日本の経済学部で教えている教師の95%以上は業績ゼロだろう。

これは日本の経済学者の能力が低いからというより、新古典派経済学が普遍的な科学ではなく、米国ローカルの「お話」だからだと思う。理論が開発途上の時期には、宇沢氏や稲田氏のように数学科出身の人がテクニックだけで論文を書けたが、今はアメリカの大学で流行している話題に乗らないと相手にしてもらえない。しかし経済学は臨床医学みたいなものだから、国際学会で美しい論文を発表するより、日本経済の問題を診断して政策を処方するほうがずっと大事だ。

派遣切りという弱者を生んだもの

今年の1月にCS「桜プロジェクト」で放送されたYouTube映像(40分)を、全文を逐語的にブログで書き起こしてくれた人がいる。ありがとう。これに出演したきっかけは、菅直人氏が製造業の派遣労働を禁止する法案を出したことだった。司会者が問題を理解していないため後半は話が混乱しているので、パート1だけ読めば私の主張はわかると思う。

パート1
パート2
パート3
パート4

私がここで提起した問題は、今も変わっていない。日本で起こっている格差問題は、「市場原理主義」による所得格差ではなく、ノンワーキング・リッチとフリーターの身分格差が固定されていることであり、これは失業給付や生活保護では是正できない。明治維新で士農工商の身分制度を廃止したように、正社員だけに絶対的な身分保護を与える制度を変えないかぎり、問題は解決しない。

結果的には、お膝元の人材サービスユニオンにも反対され、菅氏の法案は幸い挫折した。しかし派遣村を批判した総務政務官を更迭せよと国会の代表質問で迫った鳩山由紀夫氏は、今や民主党の代表だ。このように労組と癒着した鳩山政権ができると、麻生政権より悪くなるだろう。その末に自民・民主とも空中分解して「第三極」が出てこないかぎり、日本の政治は変わらないのではないか。

何もすることのない老人たち

きのうの記事で少し定年制についてふれたので、補足しておこう。私がサラリーマンをやめた一つの原因は、日本のサラリーマンのほとんどは年をとると何もすることがなくなるからだ。取締役(NHKでは理事)になるごく一部の人は超多忙になるが、それ以外は50過ぎると極端に暇になる。先週、内示されたNHKの人事異動では、私の同期の出世頭は東京のセンター長だが、あとはみんな地方の局長や関連団体の窓際ポストなどのノンワーキング・リッチだ。

マスコミ志望の学生は、NHKというと東京の放送センターでかっこいい仕事をすると思っているだろうが、ディレクター(PD)の勤務年数のほぼ半分が地方局、アナウンサーは5/6が地方勤務だ。特に50過ぎると地方から地方への転勤が多くなり、管理職の半分以上は単身赴任である。定年は60歳だが、このごろは関連団体の合理化で天下りポストが減り、東京の局長経験者以上しかポストはないようだ。それ以外の人は専門知識もないので再就職もできず、平均寿命の80歳まで何もすることがない。

アメリカなど定年制を年齢差別として禁止している国も多いが、日本では定年は廃止できない。年功賃金では、労働者は若いとき会社に貯金して年とってからそれを払い戻すので、Lazearが指摘したように、貯金(S)とその払い戻し(P)が等しくなったところ(60歳)で解雇する制度が定年なのだ。
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60歳といえば、まだ十分働ける年齢なのに、それから20年もブラブラして過ごすのは本人も不幸だし、労働人口の減る日本経済にも損失だ。定年を廃止するためには、年功賃金を廃止して同一労働・同一賃金にし、生産性の低い労働者は年齢にかかわらず解雇できるようにするしかない。働ける老人を活用し、少子化社会に対応するためにも、雇用規制の緩和は重要なテーマである。

完全網羅 起業成功マニュアル

原著は、起業のハウツー本のベストセラー。著者ガイ・カワサキは日系2世で、元アップルの「エバンジェリスト」だ。10年ぐらい前に国際会議で会ったことがあるが、「パワーポイントの枚数と話の内容は反比例する」という「ガイ・カワサキの法則」を提唱し、スライドなしで話していた。本書にもそういう実用的なアドバイスがたくさん出ている。

ただ主要部分は、すでに有望な技術やビジネスモデルをもっている起業家がベンチャー・キャピタルからいかにして出資を引き出して会社を設立するかというノウハウなので、これから会社を起こそうと夢見ているサラリーマンには役に立たない。またシリコンバレーに固有のビジネス習慣にかなりページが割かれているので、そのまま日本では応用できない。むしろ本書から伝わってくるのは、ベンチャーが金もうけの手段というより、大企業に反抗して自分の夢を実現するカルチャーだということだ。

原題が"The Art of the Start"となっているように、起業は一種のアートなので、「こうすれば成功する」という法則はない。しかし「これはやってはいけない」というルールは、かなり万国共通であることがわかる。本書が強調するのは、優秀なコンサルタントをたくさん雇って、ありとあらゆる問題点を長期にわたって慎重に検討し、60枚のパワーポイントで2時間も説明するようなビジネスプランは、必ず失敗するということだ。本当のイノベーションは全員一致で決まるものではなく、個人の直感と試行錯誤の中から生まれるのだ。

ところが霞ヶ関の人々と話すと、いつもこういう典型的な失敗パターンが出てくる。最近はバラマキ補正予算のおかげで経産省や政投銀には陳情が門前市をなしているそうだが、そういう補助金がなぜ失敗するかは本書を読めばよくわかる。

太陽活動は弱まっている

地球温暖化の唯一の原因は太陽の輻射熱だから、太陽活動が弱まれば、温室効果ガスがどうなろうと地球は寒冷化する。そして2008年から太陽活動は弱まるサイクルに入り、そのエネルギーは1928年以来最低の水準になる、とNew Scientistは予測している。

他方、ベルギーの太陽黒点数データセンターの観測でも、黒点の「相対数」は今年は4月までの暫定値が1.2と、1810年以来の低水準を記録した、と朝日新聞は報じている。太陽の黒点数は太陽活動の指標であり、地表温度と高い相関がある。17~8世紀には約70年間、黒点がほぼ消え、欧州では英国のテムズ川が凍るなど「ミニ氷河期」に陥ったという。同じように黒点の減少が長期間にわたって続くと、寒冷化が起こる可能性があると研究者は懸念しはじめている。

広大な宇宙の摂理の中では、人類の活動が与える影響はよくも悪くも微々たるものである。「人類が地球を救う」などという発想は、西欧的な自民族中心主義の変種にすぎない。

地デジ「利権」の隠し球? B-CASカードの怪

公取委に追い詰められたB-CASマフィアは、デジコン委員会の中間答申で、B-CASを非営利法人に移管してB-CAS社をつぶす方向を打ち出した。ところが、それに反抗するようにB-CAS社は、秋から小型B-CASカードを導入すると発表した。この問題は新聞もテレビもほとんど報道しないため、何が起こっているのかわからない。ほとんど唯一まともな取材をしている東京新聞の先週の記事を紹介しておこう(全文は有料)。
疑問なのは、まずこの会社[B-CAS社]の独占性だ。すべての地デジ対応テレビに必要という公益性の高いカードなのに、発行しているのは一民間会社という不可思議さ。同社の財務内容は昨夏まで公告されておらず、会社法違反との指摘もあった。公共放送NHKから、役員が天下りしている点も気になる。

今年3月の参院総務委員会。B-CAS社の独占状態について質問があり、公正取引委員会は「発行が一社だけということは問題ではないが、新規参入を阻害する行為があれば独占禁止法上の問題が生じる」と答弁した。

カード発行の条件となる録画抑制の規格は、放送局や電機メーカーでつくる社団法人「電波産業会(ARIB)」が定める。こちらの常勤理事も元官僚たちだ。つまり、積もれば巨額になる集金構造がB-CAS社と公益法人の間で築かれている。この構造を支える法的根拠について総務省に尋ねると、「放送局と家電メーカーとの話し合いで決定。法的根拠はない」という。

こうした疑問の多いB-CASカードは必要なのか。驚くべきことにB-CAS社は「著作権保護が目的ならカードである必要はない」。さらに総務相の諮問機関「情報通信審議会」内の委員会では「非営利で透明性の高い法人であるべきだ」と指摘した。
いずれも当ブログで指摘したことだが、日刊紙に出たのはこれが最初だ。4400万人もの視聴者が、必要のないカードを無理やり買わされて個人情報を収集されている理不尽な現実を、正義の味方であるはずの全国紙が報道しないのはどういうわけか。また私に何度も問い合わせてきた民主党は、国会で質問する以上の行動は起こさないのか。この程度の問題でマスコミに対して腰が引けるようでは、政権をとっても何もできないだろう。

第3の産業分水嶺

GMの倒産は、まるでジャンボジェット機が墜落するのをスローモーションで見るようなアンチクライマックスだった。この元凶は、金融危機でもなければ労働組合でもない。それは20世紀初頭に始まった垂直統合の時代のあまりにも遅すぎた終幕であり、本書が「経営のバイブル」として賞賛された1960年代から、ゆっくりと没落は始まっていたのだ。6年前にForesightに書いた『GMとともに』の書評を抄録しておく:
著者アルフレッド・スローンが社長になった1920年代の自動車産業では、フォードが圧倒的なシェアをもち、GMは買収・合併でできたメーカーの寄せ集めだった。各部門が無秩序に生産を拡大したためGMは経営危機に陥り、デュポン社に買収された。著者は、これを建て直して各部門を製品別の「事業部」として利益を計上させ、その業績によって再編するシステムを作った。
 
著者がGMを管理する原則は、技術でも品質でもなく「財務」である。空冷式エンジンの開発も営業部門が反対すると中止し、「技術よりもスタイリングのほうが重要だ」と公言する。フォードが低価格の単一車種(T型)を大量生産したのに対し、GMは高級車(キャディラック)から大衆車(シボレー)まで価格帯ごとに車種を振り分け、市場を分割した。さらにGMは、自動車を大量消費社会のサイクルに組み込んだ。車を買う資金を消費者金融で融資し、早めに中古車として下取りして新車を売り込み、陳腐化させるために毎年モデル・チェンジを行う――こうした自動車産業に独特の生産・流通システムはGMによって生み出され、今もほとんど変わっていない。
 
本書に一貫している経営手法は、著者のいう「競争」の建て前とは裏腹に、垂直統合型の巨大組織を統治し、大衆の消費行動をコントロールする計画経済システムである。たとえばGMは、系列ディーラーが新車を中古ディーラーに卸すことを禁止し、車を買うための消費者金融もGMの子会社が独占した。こうした反競争的な行動を司法省や議会に批判されると、著者は「自由競争」を理由に反発する。経営陣が本書の公刊を止めようとしたのも当然だし、マイクロソフト社のビル・ゲイツ会長が本書を「最高の経営書」と絶賛するのもうなずける。
 
しかし、こういう独占企業が賞賛されたのは、まだ米国の自動車産業が世界市場で圧倒的な優位を誇っていた時代のことだ。1966年に著者が世を去ったころから、巨大化したGMでは、財務官僚に独占された本社の管理部門の権力が強まって現場の活力が失われ、品質が低下する。そしてGMの作った大量浪費システムは、70年代の石油危機で決定的な打撃を受ける。かつて自由競争の名のもとに政府の介入を拒否したGMは、日本車との競争にさらされると、輸入制限などの保護を政府に要求し、それによって米国の自動車産業はさらに競争力を失った。
 
本書は、米国自動車産業の栄光と没落というドラマの前半だけを読むような感があるが、そこにはすでに没落の原因が見えている。読み物としては無味乾燥で、現代の経営に応用できるノウハウが書かれているわけでもないが、40年後の今に通じる教訓があるとすれば、企業を計画することはできても、市場を計画することはできないということだろう。独占企業の最大の敵は、政府でも反トラスト法でもなく、グローバルな競争である。
垂直統合を第1の産業分水嶺とすれば、1970年代以降の企業の「脱統合化」は第2の産業分水嶺である(Piore-Sable)。恐竜的な巨大企業に代わって分散的なケイレツ構造による柔軟なコーディネーションを実現した日本の製造業は、第2の分水嶺の時代のヒーローだった。しかし、いま起きているグローバルな水平分業の再編成が第3の産業分水嶺だとすれば、内向きの「すり合わせ」ネットワークの延長によってそれに対応することはできない。世界の製造業の中心が新興国に移った今、「ものづくり」にこだわることはGMの轍を踏むことになろう。

かつて滅びゆく恐竜とみられたIBMが製造部門を切り離し、グローバル企業として立ち直ったように、GMも現経営陣をすべて追放し、労組をつぶして生産拠点を海外に移転すれば、21世紀型のグローバル企業として生まれ変わるかもしれない。日本が学ぶべきなのは、このような巨大企業の破産を許容するアメリカ政府と資本主義の懐の深さである。

経済学者のバイアス

昔、経済学史のワークショップに出たことがある。学説の解説ばかりで退屈したので「経済学はself-interestを扱うのに、なぜ経済学者だけは私利私欲なしに真理を探究するすることになっているのか。実際には、みんな学界で出世するのが目的じゃないのか」と質問したら発表者が絶句してしまい、根岸隆氏が「おっしゃる通り経済学者もself-interestでやってるんだが、それを論じると社会学になってしまう」と助け船を出した。

昨今の経済危機について経済学者が何もいえないのも、こうしたバイアスが影響している、とSteven Levittは書いている:
In my opinion, the fundamental problem is this: from a modern academic perspective, the sorts of skills that accompany having a good working knowledge of the macroeconomy are not easily measured by, and are not rewarded in, the current incentive schemes for economists.

The single easiest way to make a mark in a modern macro paper is to solve a problem that is really, really hard mathematically. Even if it is not that relevant to anything, it is seen as a sign that the author has “impressive skills,” which is enough to get a job - and even tenure sometimes - at top universities.
画期的な経済学の業績には、数学的に難解なものはあまりない。ハイエクやコースの論文には数式は1本もないし、フリードマンの数式は高校生でも読める。むしろそういう論文で本質的な問題を解くほうが、数式だらけの論文を書くよりはるかにむずかしい。だから普通の経済学者にとってはそういう厄介な(しかし重要な)問題を避け、計測可能な数学的スキルに特化することが、アカデミックに出世する上では合理的だ。これは企業が「成果主義」をとると、計測しやすい営業部門などに業務が片寄るバイアスと同じだ。

特にマクロ経済学では、Levittもいうように最近はmicrofoundationがないと論文が受理されないので、経済全体の動きを個人の条件つき最適化行動の集計として説明しなければならない。これは雲の動きを量子力学で予測しろというようなもので、「もののたとえ」以上のものではありえない。だからといってマクロ経済学は必要ないということにはならないが、彼らのバイアスを知っておくことは有益だろう。特に官僚は数字に弱いので、いい加減な「マクロモデル」を見せられると信じてしまう傾向があり、これがいつまでも「どマクロ政策」が横行する一因ではないか。


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