2009年05月

朝日新聞の「財界悪玉論」

けさの朝日新聞の1面トップに「CO2目標 縛る産業界」という記事が出ている(ウェブで公開されているのは一部)。政府の温室効果ガス削減中期目標についての企画だが、最近まれにみるひどい記事だ。「多くの生物が絶滅し、干ばつや洪水が広がり、食糧不足に陥る」といったセンセーショナルな話もさることながら、最大の問題はこの見出しにみられるように財界を槍玉にあげる古いレトリックだ。

この小林敦司と石井徹という編集委員は、例によって「欧米は積極的に排出削減枠を設定しているのに日本は・・・」と書くが、欧州がいまだに1990年比で大幅な削減幅を提案しているのは、東欧の編入によってCO2の排出量が大幅に上がった時点を政治的に利用するもので、アメリカが大幅な削減量を出したのは、今まで何もしてないのだから当たり前だ。同様に国内で家庭の削減量が多いのも、今まで何もしてないので、限界削減コストが低いからだ。

当ブログで何度も書いているように、問題は温室効果ガス排出量を最小化することではなく、削減コストとその便益のトレードオフの中で社会的に最善の組み合わせを見つけることだ。したがって絶対的基準を決めて一律に排出を規制するのではなく、削減コストの低い(削減しやすい)部門が多く削減し、削減コストの大きい部門がその削減枠を買うのが排出権取引の考え方である。そんな初歩的な論理も理解してない記者が、目標の数値だけを比べて「産業界の削減量は少なすぎる」などと批判するのはあきれた話だ。彼らは業界が経産省に圧力をかけて削減枠を減らした例をあげて、こうしめくくる:
産業界はまず自分たちの生産量や省エネ努力で削減できる量を固め、それを政府の意思決定に反映させる。[・・・]産業界はすでに防波堤を築きつつある。日本経団連の関係者はこう話した。「決まった前提を変えるようなことはさせない。こちらにも手練手管がある」
最後のいかにも悪意に満ちた匿名コメントが笑いを誘うが、要するに財界=悪玉が役所を使って負担を家庭=被害者に押しつけているという図式だ。これは昔の「大資本が労働者を搾取する」という階級闘争史観の偽装だが、最終的に環境保護のコストを負担するのは企業ではない。誰が負担するかは複雑な議論が必要だが、間違いないのはコストを負担するのは人間だということである。

企業が過大な温室効果ガス削減を義務づけられると、そのコストは価格に転嫁されて消費者の負担になるか、雇用の削減によって労働者の負担になるか、利潤が減って株主の負担になる。マクロ的には成長率が低下して、全国民がコストを負担する。斉藤環境相は削減枠についての財界の「90年比4%増」という主張を「世界の笑いもの」と罵倒したが、それさえ本気で実現しようと思えば、ガソリン代の大幅値上げや店舗の夜間営業禁止などの統制経済が必要になる。

民主党などが主張する最大限の「90年比25%減」(2005年比30%減)をとった場合には、その直接コストだけでGDPは1%以上低下する。排出権取引が導入されたら、現行の枠組でも家計のエネルギー支出は低所得層で11%増えるという試算もある。他方、世論調査によれば国民が負担してもいいと思う環境コストは、「月1000円以下」が60%以上を占める。

このように資源配分の問題を階級対立にすりかえ、相手を悪玉に仕立て上げて正義の味方の顔をするのが万年野党の古い手口だ。社会的コストを考えるべきだという意見には「財界寄りだ」といったレッテルを貼って利害対立をあおり、合理的に解決できる問題を政治的なゼロサムゲームにしてしまう。きのうのシンポジウムでも、多くの参加者から雇用問題について「弱者」を英雄に仕立てるメディアの情緒的な報道を批判する声が出た。

自省をこめていうと、報道の現場にいると事実をもれなくフォローしなければならないというプレッシャーが強い一方、理論は専門家のコメントにまかせればいいので自前で勉強しない。しかしすべての事実は理論負荷的なので、特に環境のような経済問題について、経済学の初歩も理解しないで直感でものをいうのは間違いのもとだ。それによって恥をかくのは小林氏や石井氏ではなく、朝日新聞である。

1Q84

村上春樹の新作は、発売日に予約だけで68万部という空前の売れ行きだが、中身を見ないで買うのはおすすめできない。率直にいって、彼の作品としては傑作とはいいがたい。

二つのストーリーが並行して語られる構成は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に似ているが、文体はそれほど実験的ではなく、『海辺のカフカ』の続編のようなような感じだ。テーマはカルト教団とセックス・・・と書くとドロドロした話みたいだが、それをSF風の軽い文体で書いている。ストーリーもわかりやすく読みやすいが、『ノルウェイの森』のような感動を求めると失望するだろう。というか、『ノルウェイの森』が彼の作品としては例外的に大衆的な小説で、彼は「国民的作家」になるタイプではない。

タイトルの『1Q84』(イチキュウハチヨン)というのは、主人公が1984年の世界から「パラレルワールド」に飛び込んでしまうという意味で、Qはquestionのqだ。これでもわかるように最初からリアリズムを無視した物語だから、リアリティを求めるのは野暮かもしれないが、ディテールにあまり説得力がなく、『ねじまき鳥クロニクル』のように架空世界をそれなりのリアリティで見せることに失敗している。そういう古典的な「純文学」を否定するのが著者のねらいかもしれないが、いずれにせよ常識的な読み方を拒否している小説で、決して大衆的な作品ではない。

創造的破壊の季節


「不況になると起業も減る」という話があるが、Economist誌は「不況のときこそ起業のチャンスだ」と説いている。

たしかに外部からの資金調達はむずかしくなるが、アメリカのベンチャーの80~90%は自己資金と友人からの借り入れで起業している。平均的な起業資金は7万8000ドルなので、好不況の影響はそれほど大きくない。それに不況ときは、見込みのない企業をやめて会社を起こす人が増え、彼らの退職金がその資金になる。昨年は不況にもかかわらず、全米で53万の企業が生まれた。不況のときできた会社は、慎重にビジネスプランを立てるため、好況のときに比べて生き残る確率が高い。マイクロソフトもアップルも、不況のさなかに起業した会社である。

アメリカは労働者をもっともクビにしやすい国だが、もっとも雇いやすい国でもある。2007年にアメリカの失業率は4.6%で、欧州平均の7.9%よりはるかに低く、アメリカ人の平均的な失業期間は4ヶ月未満で、欧州の15ヶ月よりはるかに短い。不況のときこそ役所がよけいな世話を焼かないで、資本主義のダイナミズムを生かすことが回復の最短コースである。

雇用危機をどう乗り越えるか

当ブログでは、ここのところ意識的に雇用問題を取り上げてきた。それはこの分野が、専門家のコンセンサスとマスコミ的な世論が大きく違う分野だからである。私の知るかぎり、「ワーキングプアを救うために派遣労働を禁止しろ」という類の主張をする専門家は(厚労省と連合以外には)いない。本書の内容も専門家の常識に沿うもので、当ブログの読者なら読む必要はないが、厚労省のOBが書いたという点が重要だ。彼の結論は
  • マーケットメカニズムを重視した伸縮的な労働市場をつくる
  • 「企業が雇用を抱える」という戦後の雇用政策を転換する
  • 政府が積極的にセーフティネットを構築する
  • やみくもに雇用保険を長期化するとか、生活保護を積極的に認めるというように「保護する」というスタンスをとらない
  • 正社員だけを政策的に優遇することはやめて、同一労働同一賃金という「普遍的な原則」にあわせた雇用政策を追求する
といったもので、「デンマークモデル」を理想とする点でも大方の意見と似ている。ただ『雇用再生』と共通する問題点は、解雇規制というタブーに踏み込まず、「伸縮的な労働市場」という婉曲話法に終始していることだ。この点はOECDやNIRAの提言がはっきり「労働者保護の削減」や解雇規制の緩和に言及しているのとの大きな違いだ。実務家としては、こういう「危ない」テーマには踏み込みたくないのだろうが、本書も認めるように、解雇規制を変えないで積極的労働市場政策だけやっても(今の厚労省のように)効果は出ない。両者はワンセットなのだ。

私の印象では、雇用問題は金融の問題と同根だと思う。リスク回避的な日本人のバイアスを制度的に補強し、人々がまったくリスクを取らないことが合理的になるような官民のシステムをつくってしまったのだ。だから日本社会が直面している問題は、リターンを考えないでリスクを最小化する特異な行動様式を変え、リスクテイクを促進するしくみをつくることだ。これは日本が資産大国として生きていく上でも重要だが、ほとんど文明的な問題で、短期間にできるとも思えない。しかし少なくとも政治家は、そういう問題の所在を認識してほしい。本書の救いは、厚労省の官僚も(本音では)問題を認識しているということだ。

バーナンキの懐疑主義

先週、ボストンカレッジの卒業式で行なわれたバーナンキの演説が話題をよんでいる。彼は「きょうは金融政策については何も話さない」と前置きして、次のように語る(Murray Hill Journal訳):
天気予報がそうであるように、経済予測というものも、極めて複雑なシステムやランダムに発生するショックと対峙せねばならず、我々が持っているデータや理解は常に不完全であると思い知らされる。見方によっては経済予測は天気予報よりも難しいかもしれない。なぜなら、経済というものは物理学の法則にしたがって行動する分子の集合体ではなく、おのおのが未来を考えおのおのが独自の予測に影響されて行動を起こす人間の集合体であるからだ。
人間の行動が、脳という地球上でもっとも複雑なシステムによって決められる以上、その複合である経済の動きが単純な関数関係として表現できるはずがない。そう表現しないと分析できないことは確かだが、脳をすりつぶして成分を分析しても何もわからないように、見かけ上の定量的な関係は本質的な問題を隠してしまう。Daily Capitalistも指摘するように、これは1930年代にハイエクやミーゼスがケインズを批判した点だった。バーナンキはこう続ける:
何が起こるかをコントロールできないというのは、あきらめや宿命論の根拠になるかもしれないが、私はまったく違う教訓を引き出すようおすすめする。あなたがたが直面する困難やチャンスをコントロールできる範囲は限られているが、人生が与えたチャンスを(個人的あるいは職業的に)活用できるように心の準備をすることは自分でコントロールできる。
「新自由主義が終わってケインズが復活した」といった素人談義とは逆に、主流派の経済学者がオーストリア学派の懐疑主義をまじめに受け取りはじめている。今回の危機をもたらした一つの原因は、金融技術によってすべてのリスクが管理できるとか、金融政策で経済は完璧にコントロールできるという"pretence of knowledge"だった。金融工学や経済学の予測は不完全だということを前提にして、バーナンキもいうように「予期できない事態に対して心の準備をする」制度設計を考えなければならないのだろう。

グーグルの経済学


WIREDより:今年のAEA年次総会でもっとも人気を集めたセッションは、金融危機ではなくオンライン・オークションだった。議長はSusan Atheyで、メインスピーカーはHal Varian。
During the question-and-answer period, a man wearing a camel-colored corduroy blazer raises his hand. "Let me understand this," he begins, half skeptical, half unsure. "You say that an auction happens every time a search takes place? That would mean millions of times a day!" Varian smiles. "Millions," he says, "is actually quite an understatement."

Google even uses auctions for internal operations, like allocating servers among its various business units. Since moving a product's storage and computation to a new data center is disruptive, engineers often put it off. "I suggested we run an auction similar to what the airlines do when they oversell a flight. They keep offering bigger vouchers until enough customers give up their seats," Varian says.

Since Google hired Varian, other companies, like Yahoo, have decided that they, too, must have a chief economist heading a division that scrutinizes auctions, dashboards, and econometric models to fine-tune their business plan. In 2007, Harvard economist Susan Athey was surprised to get a summons to Redmond to meet with Steve Ballmer. "That's a call you take," she says. Athey spent last year working in Microsoft's Cambridge, Massachusetts, office.
ワルラスのオークショニアーは架空の存在だったが、今やグーグルはウェブ空間のオークショニアーとして、世界の情報の価値を決める機関になりつつある。そのモデルとなったのは堂島や築地のせりなのに、元祖の日本では周波数オークションすら行なわれていない。文藝家協会などはブック検索に「攘夷」を叫び、出版社は和解案を拒否した。もう日本からは、グーグルの背中も見えなくなりそうだ。

経済危機と教科書

今回の危機を受けて、経済学の初等教科書は書き換えられるべきだろうか。Mankiwによれば、基本的な部分は変わらないが、いくつか修正が必要だという。
  • 金融機関の役割:普通の入門書では金融システムはほとんど説明しないが、今回の事件でその重要性がわかった。それはガードマンみたいなもので、うまく機能しているときは誰も気にしないが、機能しないと大変なことになる。
  • レバレッジの効果:資金を株式で調達するか負債で調達するかは初等教科書ではあまり気にしないが、実務的にはまったく違う。それは平時には資本効率を高めるが、有事には危機を拡大する。
  • 金融政策の限界:不況になったら金融を緩和すればいいというのが教科書的な答だが、名目金利がゼロになったらどうすればいいのかはわからない。非伝統的な金融政策の効果も、まだ不明だ。
  • 予測の失敗:経済学者が今回の危機を予測できなかったことは事実だが、それは多くを望みすぎだろう。医学が発達しても、豚インフルエンザを予測することはできなかった。経済学は水晶玉ではなく、経済現象を理解するツールにすぎない。
教科書も読まないで経済学をバカにする政治家には困ったものだが、経済学で不況が一挙に解決するかのようなリフレ派の主張も夜郎自大だ。経済問題のうち経済学で理解できるのは半分ぐらいで、そのうち経済政策で解決できるのは半分、つまり経済学は経済問題の1/4ぐらいしか解決できないというのが小宮隆太郎氏の意見だが、私もそんなものだと思う。

成熟できない国と成熟しすぎた国

韓国の盧武鉉・前大統領が自殺した。韓国の大統領が引退後、訴追されることは珍しくもないが、自殺というのは初めてだ。死者に鞭打つようで恐縮だが、韓国という国はいつまでたっても成熟できないのだなという感を強くする。

日本と韓国は、ほとんど管理された実験のような「双子国家」である。遺伝的にはほとんど同じでありながら、その民族性は対照的だ。日本人は感情を表に出さず、自己主張しないが、韓国人は感情の起伏が激しく、敵を徹底的に攻撃する。明治以降、日本は非西欧圏ではほとんど唯一、自力で近代化を果たしたが、李氏朝鮮は近隣各国の侵略を受け、最終的には日本の植民地になった。

その原因は、李朝の「儒教原理主義」ともいうべき統治機構が500年以上にわたって続いたことだとされる。儒教では皇帝と官僚機構を頂点とする階層秩序を想定しているが、中国は大きすぎるため、それほど厳密な階層構造はできなかった。これに対して李朝は極端な中央集権制で、政治・経済を支配する両班とよばれる特権階級が派閥抗争を繰り返したため、李朝の末期には国家の歳入が約700万円(日本の1/40)、学校も道路もほとんどなく、人口は100年で7%減るという現在の北朝鮮のような状況だった。

この原因は、生態史観によって説明できる。日本と西欧はアジアの中心部の乾燥地帯をはさんで対称な位置にあり、遊牧民による征服の脅威をあまり受けなかったため、文明が自発的に遷移した。特に農村や都市などのコミュニティが発達し、中間集団による分権的ガバナンスが機能したため、民主主義と市場経済が定着した。これに対して朝鮮は中国の直接的な支配下にあったため、つねにその脅威にさらされ、国家として成熟できなかった。戦後は南北の分割という不幸に見舞われて、軍人による統治が終わったのは1992年になってからである。

盧武鉉は、こうした未熟さを象徴する人物だった。「eポリティックス」で生まれたことになっているが、その政治手法は旧態依然の左翼的ポピュリズム。軍事政権の「過去を清算」する政策が行き詰まると、日本を仮想敵にして「慰安婦」などのデマゴギーを蒸し返し、軍事政権のように排外主義を政治的に利用した。その裏でも、軍事政権と同じ賄賂政治をやっていたわけだ。インターネットはしょせん道具であり、未熟な政治を電子化しても、その中身が変わるわけではない。

これに比べると日本は、1980年代に「戦後レジーム」が成熟してしまい、何もすることがなくなっってから20年以上が過ぎた。こっちは中間集団の自律性が高すぎるため、政治家はその利害調整しかできない。もう完全に手詰まりになったシステムをいつまでも延命している日本と、政治も経済もころころ変わる韓国は対照的だ。日本型システムは、必要な改革を圧殺するfalse negativeを生みやすいが、韓国型システムは朝令暮改を乱発するfalse positiveを生みやすい。中庸というのはないものだろうか・・・

「安心・安全」はタダではない

今週の経済財政諮問会議で配布された民間議員の提言は、これまでの成長重視路線から「安心保障政策」へと大きく舵を切っている。国民背番号(安心保障番号)や負の所得税(給付つき税額控除)の提案は注目されるが、全体として所得再分配の話ばかりで「活力との両立」に配慮された形跡はない。

安心・安全な社会にしようという話に反対する人はいないが、安心はタダではない。すべての失業者を安心させるのは、ある意味では簡単だ。在職中の賃金と同じ失業手当を、政府がすべての失業者に永遠に支給すればよい。これが問題の解決にならないことは明白だろう。重要なのは安心を最大化することではなく、そのメリットとコストのトレードオフの中から何を選ぶかという意思決定である。

「非正規等の失業者が経済危機の荒波を最も受けている」ことは事実だが、彼らの状況はこの提言にいう「生活支援給付」によっては解決しない。新卒で一括採用し、そこで失敗した労働者には一生、正社員になる道が閉ざされてしまう閉鎖的な労働市場を変えないかぎり、失業手当や生活保護の増額はバラマキにしかならない。

この提言で言及している「ジョブカード」も、こうした問題を改善する第一歩としては評価できるが、参加企業が少ないため普及していない。企業が労働者の転職に有利な情報を提供すると、彼の「裏切り」の確率が高くなるからだ。日本の企業は転職のリスクを最大化することによって労働者を拘束するタコ部屋構造になっているので、そのリスクを下げる情報を提供する企業は、よほどのお人好しである。

私が「終身雇用を廃止しろと主張している」などというばかげたコメントが多いが、すべての労働者に終身雇用を保障できれば理想的だ。しかし残念ながら資本主義はきわめて不安定なシステムなので、すべての人に絶対安全を保障することはできない。たとえば中高年のノンワーキング・リッチに安心を保障すると、そのコストは若年層のワーキング・プアにしわ寄せされるのだ。ところが日本では、この社会的コストが目に見えないので、安全はタダだと思い込み、日本的雇用慣行を美化する人が実に多い。たとえば中谷巌氏は、こうのべる:
「改革」は必要だが、それはなんでも市場に任せておけばうまくいくといった新自由主義的な発想に基づく「改革」ではなく、日本のよき文化的伝統や社会の温かさ、「安心・安全」社会を維持し、それらにさらに磨きをかけることができるような、日本人が「幸せ」になれる「改革」こそ必要であると考えたわけである。
彼は安心・安全が「日本のよき文化的伝統」だと本気で思っているのだろうか。「日本的システム」と称されるものが、戦時体制や戦後の高度成長期に形成されたものだという共同研究に彼も参加したはずだが、もう忘れたのだろうか。終身雇用は日本の「文化的伝統」ではなく、高度成長期の大企業でのみ可能だった特殊な慣行にすぎない。中谷氏が強調する「格差」の原因は「新自由主義」ではなく、90年代に終身雇用が維持できなくなった状況で、中高年社員の安心のコストを若年層に転嫁した結果なのだ。

金融工学の教科書の最初に書いてあるように、市場でリスクをゼロにすることは可能でも必要でもない。必要なのは、リスクを社会全体に分散し、すべての人がリスクとリターンの望ましい配分を実現することだ。そのために必要なのは、生産要素を効率的に配分する柔軟な労働市場と資本市場である。規制を撤廃しても、長期雇用は残る。欧米企業でも、幹部社員は長期雇用である。それを超えて政府が安心を強制するとリスクの配分がゆがみ、現在のような悲劇が起こるのだ。

昨今のインフルエンザをめぐる過剰反応や薬のネット販売の規制など、社会全体が「安心・安全」を理由にして過剰規制の方向に流れ、既得権を護持する動きが強まっている。こういうなかで諮問会議がそれに迎合し、活力を無視して安心だけを強調し、日本経済を「リスク最小・リターン最小」の特異解にミスリードすると、それによる長期停滞のコストは国民全体が負担する結果になる。

こうした考え方は経済学者の常識であり、諮問会議のまとめ役である吉川洋氏がそれを知らないはずはない(NIRAの提言をまとめたのは彼の同僚だ)。ケインズ派だった吉川氏は、小泉内閣では構造改革派に転向したが、麻生内閣ではバラマキ路線に先祖返りしたのだろうか。

アニマルスピリット

アニマルスピリットAkerlof-Shillerの訳本が早くも来週、出るようだ。ケインズの「アニマル・スピリッツ」という言葉をいささか広義に使いすぎているきらいもあるが、経済危機を克服するには「信頼」の形成が重要で、それが乗数効果(外部性)をもつという議論は、現状を考える上で役に立つ。記述も専門的でなく、おもしろく書けているので、ビジネスマンにもおすすめできる。

今の日本に必要なのも、投資家や起業家のアニマル・スピリッツだろう。それを高める上で重要なのは財政・金融などの物量的な政策ではなく、本書もいうように人々を説得する「物語」である。パレート効率的なfocal pointが存在する場合には、政府が一貫した物語を語ることによってアニマル・スピリッツを改善できる、という著者の主張は、政府の役割を過大評価するものだという批判もあるが、日本の悲惨な状況をみていると、信頼されない政府が有害であることは間違いない。





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