2009年04月

映画ベスト100

ニューズウィーク日本版で、「映画ザ・ベスト100」のリストを紹介している。アメリカの映画関係者が選んだものなので、ハリウッド映画に片寄っているが、連休にDVDを借りる参考になるかもしれない。このリストのうち80本以上見たが、私のベスト10はかなり違う:
  1. 博士の異常な愛情
  2. タクシー・ドライバー
  3. 戦艦ポチョムキン
  4. 大列車追跡
  5. パルプ・フィクション
  6. 勝手にしやがれ
  7. ストレンジャー・ザン・パラダイス
  8. ブルー・ベルベット
  9. 真夜中のカーボーイ
  10. カッコーの巣の上で
1は文句なしのトップで、「2001年宇宙の旅」より映画としておもしろい。あとは順不同だが、この種のリストでいつもトップになる「市民ケーン」は、何がいいのかちっともわからない。「ワンカット・ワンシーン」の技法は溝口のほうが早いし、作品の完成度も高い。映画史上の重要性なら、3には及ばない。4のキートンは、日本ではチャプリンに比べてまったく人気がないが、私はマルクス兄弟とともにほとんど全作品を見た。現役の監督で全作品を見たのは、5のタランティーノと7のジャームッシュだ。ついでに邦画も:
  1. 肉弾
  2. Wの悲劇
  3. ゆきゆきて、神軍
  4. 羅生門
  5. 仁義の墓場
1は中学生のとき見て、いまだに邦画ベスト1だ。戦争の哀しさを、一人の学徒兵の目で淡々と描いている。3はドキュメンタリーだが、戦友の戦争犯罪を戦後40年以上たってからカメラを持って追及する暴走ぶりがすごい。深作欣二のやくざ映画も、学生時代にほとんど全部見た。5は「仁義なき戦い」の翌年の作品だが、完成度はこっちのほうが高い。

社会をつくる自由―反コミュニティのデモクラシー

昨今の非正規労働者をめぐる議論では、終身雇用の正社員こそ理想の雇用形態で契約労働者は変則的な好ましくない形態だという前提があるが、これは根拠のない思い込みにすぎない。以前の記事でも書いたように、企業が労働者を直接雇用する形態は請負制度より新しく、垂直統合型の企業組織で熟練労働者を囲い込むためにできたものだ。このような自由を奪われた「社畜」を理想だと思い込んでいるのは奴隷根性である。

直接雇用のもう一つの意味は、農村から出てきた労働者を企業のコミュニティに組み込んで労使紛争を抑制することだった。この点で、日本の「家族主義経営」と企業別組合は、企業をイエのような大家族として組織し、世界に冠たる成功を収めた。しかし90年代以降、こうした家父長的システムが崩壊して「核家族化」し、日本的中間集団の求心力が失われてきた。

本書はこの問題を「リベラル/コミュニタリアン論争」から説き起こす。そこではアメリカ的個人主義を素朴に信じるロールズ的リベラルに対して、モナド的個人などというものは幻想にすぎないと批判するコミュニタリアンのほうが優勢だった。しかし著者はそれをもう一度ひっくりかえし、コミュニタリアンの信じるコミュニティも幻想だと指摘する。

パトナムなどの社会的資本に関する研究が示すように、アメリカでも中間集団は弱まって、トクヴィルが19世紀のアメリカに見た孤独な個人の集合体としてのデモクラシーに回帰しつつある。集合住宅のまわりに高いフェンスを張りめぐらしてセキュリティを守る「ゲーテッド・コミュニティ」が増え、日本でも都市のマンションの住人は隣の世帯と会話もしない。世界的に、社会がモナド化する傾向が強まっているのだ。

著者はこうした傾向は避けられないし、避けるべきでもないとする。資本主義が効率を追求すると、農村から都市への人口移動や起業・倒産などによって社会の流動性は高まり、安定した中間集団は失われる。それを止めるには国家が特定の集団の既得権を守るしかないが、誰を守るかという基準は恣意的にしかならず、非効率と不公平を生む。

マルクスもハイエクも、資本主義が古い秩序を壊して社会を個人に分解するのは必然的な傾向だと考え、それによって選択の自由が広がることを進歩とみなした。たぶん彼らの事実認識は正しいのだろうが、それが望ましいかどうかはわからない。家父長的な「正社員」中心の企業システムを破壊することは必要だとしても、その先にはどのようなコミュニティが立ち上がってくるのか、あるいは何も残らないのか。

そう遠くない未来に、グローバル資本主義と個人の間にリアルなコミュニティはなくなり、人々は企業への忠誠心を失って複数の企業と契約ベースで仕事をし、地域のコミュニティにも参加しなくなるだろう。残るのは国家などの法的コミュニティと、ウェブなどの仮想的コミュニティぐらいで、人間どうしのコミュニティとして実在するのは家族だけだろう――という著者は、きっと幸福な家庭をもっているのだろう。帰るべき家もないホームレスは、どうすればいいのだろうか。

右派論壇の終焉

『諸君!』の最終号が送られてきた。特集は「日本への遺言」。これを読んでいると、終わるのはしょうがないなと思った。西部邁「戦後的迷妄を打破する『維新』を幻想せよ」、渡部昇一「保守派をも蝕む<東京裁判遵守>という妖怪」、平川祐弘「皇室と富士山こそ神道文化の要である」・・・といった見出しだけで、おなかいっぱいになってしまう。

こういう雑誌の主な読者は、戦前世代の軍国老人だ。彼らにとっては、いつまでも「東京裁判」や「占領軍」や「平和憲法」が憎く、論壇の主流だった「戦後民主主義」に対するルサンチマンをこの種の雑誌で解消してきたのだろう。編集者は「われわれは右翼思想に共感してるんじゃなくて、大手メディアのすきまをねらってるんです。平和と民主主義は新聞で読めるから、雑誌で書いても売れない」といっていた。

右派誌が一定の解毒剤の役割を果たしたことは確かで、朝日新聞も無条件で「憲法を守れ」とはいわなくなり、岩波書店などの左派論壇は一足先に没落した。しかし皮肉なことに、こうした戦後的な価値が風化するとともに、それを補完する右派論壇の存在意義もあやしくなってきた。もうすきまがなくなった、というかすきまだらけになって、論壇というものが消えてしまったのだ。

その意味では、彼らの嘆く「言論の衰弱」が起こっているのだが、いちばん衰弱しているのは彼らの言論だ。この最終号には「諸君!これだけは言っておく」という、櫻井よしこ、西尾幹二などのおなじみのメンバーによる座談会があるが、中身のない「新自由主義批判」が繰り返され、司会の宮崎哲弥氏は「定額給付金などのバラマキは必要だ」という。何のことはない。左右の万年野党は、市場経済を否定して政府の温情主義を要求する点で一致しているのである。

いま必要なのは、こうした左右の(国家がすべてを解決するという意味での)国家主義の幻想から覚め、人々が分権的に問題を解決するしかないという散文的な現実を直視することだ。そのメカニズムは市場だけでなく、言論の効率的な配分という点ではウェブも重要な役割を果たすだろう。集権的な大手メディアが読者に「正論」を配給する時代は終わったのだ。この新しい現実を理解できない左右の万年野党が墓場に行くのは、祝賀すべきことだろう。

一勝九敗

本屋に本書が平積みになっていたので、文庫の新刊かと思ったら、そうではなかった。単行本は2003年に出ており、文庫化は3年前なのだが、昨今のユニクロの躍進で、ビジネスマンにあらためて注目されているらしい。ユニクロは、日本企業がグローバル化の中で生き残れる道を示唆していると思う。

「内需拡大が必要だ」というのは、日本企業が「引きこもり」すべきだということではない。むしろ日本の貿易依存度は先進国の中では低く、輸入が特に少ない。グローバルな比較優位を十分生かせていないのだ。外需の落ち込んだ分を内需で補うには価格を下げる必要があり、そのためには国際分業によって供給の効率を上げることが重要だ。そのモデルがユニクロである。

しかし本書にMBAのような「戦略」を期待すると拍子抜けするだろう。著者は経営学の理論などはほとんど知らず、試行錯誤の連続で事業を急拡大してきた。それが結果的に、日本の産業構造の盲点をついたのだ。盲点は3つぐらいある:
  1. 日本型流通機構からの脱却:繊維業界は体質が古く、問屋が流通を支配し、小売りは委託販売で返品自由な代わり利潤の分配は問屋が決めていた。これでは小売りは永遠に問屋の下請けにしかなれない。ユニクロは問屋との取引をやめ、契約工場に生産委託して直販する方式をとった。

  2. グローバルな垂直統合:円高の中で中国への生産委託が増えた。中国での生産も、最初は出張ベースで現地の工場に委託していたが、2001年に上海に合弁会社をつくって生産と流通を統合した。

  3. オウンリスク経営:タイトルにも現れているように、実はファーストリテイリングの事業で成功したのはユニクロだけで、他の「スポクロ」とか「スキップ」などの事業はすべて失敗している。こうした決定も銀行や取引先などとは相談せず、すべて著者が決めて失敗したらさっさと撤退する。
その業種が、日本の製造業がとっくに見捨てた繊維産業だったのも盲点を突いている。繊維製品をつくる国内の工場はほとんどなくなったが、低価格のカジュアルウェアの需要は旺盛なので、海外生産でコストダウンしたわけだ。これは流通という内需型の企業が、デザインや品質管理における日本の優位と賃金における中国の優位をうまく結びつけた例だ。全体として一貫しているのは、他の企業に依存せず、residual claimantとして自分のリスクで行動することだ。

輸出立国モデルが終わった今、日本経済が長期停滞を脱却する道はハイテク産業だけではない。産業規模として重要なのは、労働人口の7割を占めるサービス業である。特に規模が大きいのは流通だが、その生産性は規制によって低下している。ユニクロのように、サービス業がグローバル化して効率を高めることが重要だ。

そしてもう一度夢見るだろう



松任谷由実 - そしてもう一度夢見るだろう (Complete Edition)

松任谷由実の3年ぶりのニューアルバム。正直いってあまり期待していなかったが、「デビュー35周年」にしてはまだ元気があるなと思った。

彼女は私と同じ学年で、たまたまデビュー・コンサートも聞いたので、時代的な体験も重なる。彼女の(人気の)ピークは80年代だった。そのころ私はNHKに勤務していて、彼女にインタビューしたことがあるが、松田聖子などにも曲を提供して多くのヒットを飛ばし、まさにバブルの象徴のような存在だった。「私が売れなくなるときは銀行がつぶれるときよ」という名言を吐いたが、その言葉どおり90年代に銀行がつぶれたころ、音楽的にもセールス的にも行き詰まった。

いま思えば、彼女の才能は「ビジネスモデル」を創造したことだったと思う。音楽的には最初の2、3枚のアルバムを除いてあまり見るべきものはないが、それまでのフォークソングがオープンソースだったとすれば、彼女は日本のポピュラー・ミュージックに資本主義を導入したビル・ゲイツみたいなものだ。2人に共通するのは、作品にはそれほどオリジナリティはないが、流通を戦略的にコントロールして利潤を最大化したことだ。

それは音楽を大衆化する上では意味があったが、戦略が前面に出てくると音楽としては興ざめになる。そして今や音楽産業そのものが危機に瀕している。音楽をビジネスとして成り立たせたのは資本主義にあわせただけのことで、金がもうからないと芸術が創造できないわけではない。制作・流通コストは大幅に下がったので、音楽はかつてのフォークソングのようにアマチュアがつくるものに戻るのかもしれない。リスナーとしては、よい音楽がたくさん創造されれば、レコード産業がなくなってもちっとも困らない。

同世代としては、彼女が「一時は引退を考えた」というぐらい煮詰まった気持ちもわかる。もう音楽を戦略的にプロデュースするのはやめて、楽しみながらつくってほしい。

日本はいかにして不況から脱却したか

小林慶一郎氏の「日本が不況から脱却した原因は輸出の拡大ではなく不良債権の処理だ」という批判に対して、クルーグマンが「そういう証拠はあるの?」と反論している。全体として小林氏の論旨は正しいと思うが、クルーグマンが当惑しているように「不良債権問題を軽視している」という批判は正しくない。

最大の問題は、2003年以降の景気回復は何によるものかということだ。これは先日の記事でも書いたように、非常にむずかしい問題だ。DSGEのフレームワークでは不良債権という問題は存在しえないので、銀行のバランスシートが成長率に影響を及ぼすことは考えられない。しかし現実にはそういうことが起こったので、現実と理論が食い違う場合には現実のほうが正しい。たとえば日銀の貸出態度DIをみると、図のように明らかに2003年から融資が拡大している。

この原因は、不良債権処理の進展によって銀行の貸出余力ができ、企業の過剰債務が解消されて新規投資が出てきたことだろう。他方、財政支出との相関はまったくない。輸出との相関は見られるが、これはゼロ金利や為替の円安介入が大きかったのではないか。この点で金融緩和は一定の効果があったといえよう。他方、CPIはずっとマイナスのままだったので、「デフレを止めないと景気は回復しない」という主張は反証された。

偽の希望を売り歩く人々

不況についての本はたくさん出ているが、だめな本を見分ける方法は簡単だ。「市場原理主義」とか「清算主義」などという無内容なレッテルで議論する本は、読まないほうがいい。本書は山口二郎氏の主催した北大のシンポジウムの記録だが、「新自由主義」攻撃の大合唱だ(もちろんリンクは張ってない)。

山口氏は一応、政治学者だろう。小泉元首相が「私は新自由主義者です」といったことは一度もないのに、こういうレッテルを一方的に貼って「小泉・竹中の新自由主義が格差を生んだ」などと何の根拠もなく攻撃するのは、学者として恥ずかしくないか。この種の政治的レトリックは「修正主義」とか「極左冒険主義」のように社会主義国で相手を攻撃するために使われたもので、このシンポジウムの一方的なつるし上げもスターリン裁判を思わせる。

雨宮処凜氏や湯浅誠氏の列挙する非正規労働者の悲惨な実態は、その通りなのだろう。しかし「ハケンがかわいそうだ」という話を何百回繰り返しても、彼らの境遇は変わらない。問題は、どうすればそれが是正できるのかということだ。ところが政策を論じる段になると「新自由主義」という藁人形が出てきて、労組と連帯して「福祉を拡大」すれば世の中がよくなるという。山口氏は麻生政権のバラマキ財政を高く評価し、「弱者に対する再分配をバラマキとよぶのはおかしい」と怒る。

このようにGDPが縮んでゆくのを気にしないで、その再分配ばかり論じるのは、かつて日本が成長を続けていた時代のフリーライダーの論理だ。北海道のように政府の補助金で食っている土地に暮らしていると、税金はどこかから湧いてくるぐらいに思っているのだろう。「政治が悪い」とだだをこねて「みんなで団結すれば世の中は変わる」と偽の希望を語るのも、冷戦時代の万年野党的メシアニズムだ。北海道の時計は、20年ぐらい前のまま凍結しているのではないか。

メシアニズムなきメシア的なもの

「希望」の話はまだまだ続き、今度は平岡公彦氏からむずかしいTBが来た。この問題がデリダやニーチェとつながるのは自然なので、少し立ち入って考えてみよう。

デリダは『マルクスの亡霊たち』の中で、メシアニズム(messianisme)とメシア的なもの(le messianique)という区別を導入した。これは彼独特のわかりにくい用語法だが、簡単にいうとメシアニズムというのはキリスト教のように特定の目的をもつ積極的な救済、メシア的なものというのは「今とは違う状態」を求める否定的な救済である。いうまでもなくデリダが依拠するのは後者で、その観点からマルクスのメシアニズムを批判する。

マルクス主義は一度も幸福な社会を築いたことがないが、100年以上にわたって大きな影響力を持ち続けてきた。その最大の求心力は、現在の社会を全面的に否定して救済を求めるメシア的な希望を生んできたためだ、とデリダは考える。現状への不満はすべての社会にあり、そういう批判を「今ここにはない未来」へと水路づけすることで、マルクス主義は多くの反体制運動を束ねるイデオロギーとなってきた。

マルクスは「自由の国」の設計図を描くことを慎重に避けた。それは本源的な市民社会の否定の否定というメシア的なものとして構想されていたからだ。しかしその社会的な生産管理というメシアニズム(千年王国主義)が、社会主義国で「生産手段の国有化」として実行に移されたとき、破滅的な結果をまねいた。メシア的なものは、それがメシアニズムとして実現した瞬間に権力装置となり、みずからを裏切るのだ。

終戦直後には、豊かな社会を築くというわかりやすい物語があり、それに対するインテリ業界の傍流の物語として、マルクス主義や丸山眞男的な近代主義があった。しかしこうした希望の物語は、1970年代に高度成長が終わったころから崩れ始め、90年代に社会主義と資産バブルが崩壊したことで決定的に解体した。

現代の不安の根っこには、このような大きな物語としてのメシアニズムが失われた喪失感がある。資本主義は成長という希望の物語をつむぎ続けることができなくなり、それに寄生してきたマルクス主義もメシア的な求心力を失った。一時はメシアニズムなきメシア的な存在だった社民党が、期せずして政権についてメシアとなった途端に崩壊してしまった光景は、偽の希望が失われた時代を象徴していた。

かつてのマルクス主義に代わる現代のメシア的な希望は、たぶん起業だろう。ホリエモンや村上ファンドに「反体制」のにおいがあったのは偶然ではない。しかし彼らは国家権力によって圧殺されてしまい、物語のまったき不在が全面的ニヒリズムを生み出した。無目的に巨額の税金をばらまく自民党は、ある意味では日本的ニヒリズムの極北といえよう。

あまりにも救いのない状況が20年近く続いたため、若者は希望を求めることも忘れ、終身雇用に回帰しはじめている。しかし実は、もう会社にも帰るべき共同体はない。すべての対立軸が溶解したいま必要なのは、ニーチェが説いたように、希望が存在しないという根源的不安に向き合うことかもしれない。パンドラの箱が開いてあらゆる災厄が出たあと、残ったのは希望だったが、むなしい希望こそゼウスが人間に与えた最悪の災厄だったのである。

何でもあり

共産党も警告するように、「100年に1度の経済危機」という思考停止をまねきやすい言葉に便乗して、「何でもあり」の異常な財政・金融政策が続けられている。先日、ある自民党の族議員が「今までずっと当初予算で要求して認められなかった庁舎の改築費が、今度の補正では3年分前倒しで認められた。財務省から『何かありませんか』と御用聞きに来た」と驚いていた。竹中平蔵氏も、次のように指摘している:
本予算にではなく補正予算として計上されたことについては、さらに深刻な問題が伴う。例えば農水省の場合、今回の補正予算で約1兆円の金額が付けられているが、そもそも農水省の年間予算(非公共事業)は1・5兆円程度である。この1・5兆円の予算を獲得するために1年かけて政策論議をし、予算査定が行われるのだ。しかし今回の場合のように、補正予算ではわずか2週間で枠組みが決められる。
私も補正の要求作成を手伝ったことがある。課長補佐が「来週までにITがらみで500億円の使い道を考えてください」といってきたので、思いつきである無線技術の「電波特区」の話をすると、その日のうちに「200億要求するのでペーパーを書いてください」という電話が来た。その新技術の専門家を呼んで打ち合わせをし、徹夜で提案を書く――という突貫工事だった。幸か不幸か、この予算は通らなかったが、一度も見たことのない無線技術に200億円出す理由を審議官に説明したときは、われながら恐いと思った。

ある官僚によれば「補正予算というのは、昔は非常災害などのとき、文字どおり当初予算を補正するもので、何十兆円も組むものではなかった。それが小渕政権のとき、『金融恐慌を防ぐ』という大義名分でタガがはずれ、その後はひたすら予算規模を競うようになってしまった。今回は財務省もフリーパス状態。そうしないと15兆円は埋まらない」。

しかし小渕政権の歴史的なバラマキ財政で、景気は回復しなかった。財政赤字だけがOECD諸国で最大にふくらみ、それに危機感を抱いた国民の支持を受けて小泉政権が誕生した。日本経済が不況から脱却したのは、小泉内閣の緊縮財政が始まったあとの2003年以降だったのだ。赤字財政で成長率が回復するというのは、理論的にも実証的にも裏づけられない迷信である。Akerlof-Shillerも指摘するように、大事なのは経済が立ち直るという信頼であり、この点からみると日本経済が回復する展望はない。

進歩する共産党

本石町日記より、最近ブログを読んで久々に笑ったので、孫引きで:
第171回国会 財政金融委員会 第15号 平成二十一年四月九日(木曜日)

日本共産党 大門実紀史君 白川さん、一周年ということで、おめでとうございます。一年前とは大違いだなというふうに思うんですけれども、まあ大変な一年だったというふうには、その点は同情はしているんですけれども[・・・]中央銀行ともあろうものが個別経営、個別企業、個別銀行の中身に入るようなことはおやめになるべきだということを再三申し上げてきたわけでございます。それは、幾ら金融システムの安定とか美辞麗句並べても、結局は市場経済のメカニズムを壊してしまうものになりますよということを申し上げてきたわけでございまして・・・

先ほど大塚さんの資料面白いなと思って、伝統的、非伝統的の話ですけれども。本当にどんどんどんどん非伝統的な方向に、これ、ずっと右へ行けば行くほど社会主義に近づいちゃうんですよね。これ、自己矛盾なんですよ、
「産業再生法」で税金を個別企業に投入する自民党や、中身におかまいなくジャブジャブに金融緩和さえすればいいと思っている一部の自称経済学者より、共産党のほうが市場メカニズムを理解しているようだ。しかし、この場合の「社会主義に近づいちゃう」というのは、もしかしてほめ言葉なんだろうか・・・




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