2009年02月

Flexicurity

497ce60e.jpg先日の北欧モデルについて、もう少し調べてみた。北欧をひとくくりにするSachsの話は少し荒っぽく、最近はスウェーデンとデンマークは区別して論じるようだ。週刊東洋経済が昨年、特集していたが、EUでも"flexicurity"というスローガンを掲げ、雇用の柔軟性(flexibility)と保障(security)を両立させることを目標にしている。そのモデルがデンマークとオランダである。

これは解雇規制を弱めて基本的に解雇自由にする一方、失業者に手厚い失業給付を行ない、給付の条件として職業訓練を義務づけるもので、デンマークでは図のように「黄金の三角形」と呼ばれているそうだ。日本では、雇用の流動化は「北風政策」だとか「デフレを促進する」とかいう愚劣な議論が多いが、デンマークの例が示しているように、労働市場を柔軟にすることは失業率を下げ、成長率を高めるのだ。

このシステムは、組織率の高い労組や高い税率による社会保障などのセーフティネットと一体なので、日本に輸入できるかどうかはよくわからないが、厚労省の進めている派遣規制の強化などの「官製失業」を生み出す政策よりいいことは間違いない。特に産業構造の調整が容易になることは日本経済にとって重要なので、多少コストがかかっても積極的労働政策を導入する意味はあろう。「フレクシキュリティ」は、民主党にとって魅力的な選挙向けスローガンになるのではないか。

世界不況を経済学で読み解く

『なぜ世界は不況に陥ったのか』が、アマゾンで先行発売された。売れ行きは、おかげさまで順調だ。エグゼクティブ・サマリーはこちら。

27日から書店に並ぶ。本書の発売を記念したトークセッションが、来月13日に丸善丸の内本店で開かれる。

コンプライアンスと法令遵守

小倉秀夫氏はこう書いている:
建築基準法を改正せず,「粗悪な建築がなされ,大震災のときにはあっさり崩壊するような建物が建つかも知れないけど,それって自己責任だよね」ってことで放置しておいた場合に,「よくわかんないけど,地震で倒れたらその時に考えればいいや。数千万円から数億円の買い物で色々考えるのは面倒くさいから,買っちゃえ!」という消費者がそんなにたくさんいただろうかと考えると,それも楽観的にすぎるのではないかという気がします。
彼は建築基準法に違反すると「大震災のときにはあっさり崩壊する」というメディアの宣伝を素朴に信じているらしいが、これは郷原信郎氏のいう実質的なコンプライアンスと形式的な法令遵守の混同の典型である。

建築確認は木造の建物の安全性を確認するためにできた制度で、現在の複雑な建築物の耐震性を図面だけで確認することはできない。実際の問題の大部分は、手抜き工事などの施工段階で起こるからだ。姉歯元建築士の設計した建物は「震度5で倒壊する」とされて取り壊されたが、同じ論法でいけば、1981年の建築基準法改正以前の建物は、みんな取り壊さなければならない。しかし役所もメディアも、それは問題にしない。震度5でコンクリートの建物が倒壊した事件はほとんどないからだ。

つまり建築基準法に違反することは「大震災のときにはあっさり崩壊する」ことを意味しないのだ。国交省がそれを摘発したのは、法律に違反するからであり、メディアが集中攻撃したのも、耐震データの偽造という明白な違法行為を本人が認めたからだ。役所やメディアが攻撃するのは、実質的な安全性ではなく手続き的な違法性なのである。

これは心理的には当然だ。官僚もジャーナリストも、建築についての専門知識はもっていないので、ある建築が安全かどうかを判断することはできないが、違法性を判断するのは簡単だ。昔は一方的な情報でスキャンダル報道をしたが、三浦和義が起こした大量の名誉毀損訴訟でメディアが連敗し、強制捜査が行なわれるまでは犯罪者扱いしないというルールが確立した。これ自体はいいことなのだが、こうした原則を拡大すると、非公式の情報による調査報道はほとんどできなくなり、警察が立件した事件に報道が集中する結果になる。

このように違法ではないが重要な問題が放置され、どうでもいい違法行為が摘発されることで企業が「思考停止」し、形式的な法令遵守に多くの労力がさかれ、法務部の発言力が社長より強まっている。それをいいことにメディアは、一連の食品偽装事件のように「改竄」や「捏造」があると、実質的な安全性に関係なく大騒ぎする。この負のループを断ち切らないと、日本はいつまでも「官製不況」から脱却できないだろう。そのためには郷原氏もいうように、法律を視野の狭い法律家から解放し、一般市民が健全な常識にもとづいて法を運用できるような規制改革が必要である。

思考停止社会

日本経済の沈没は止まらない。輸出が落ち込み、消費が低迷し、さらに企業が「コンプライアンス」で萎縮しているからだ。本書も指摘しているように、国会の証人喚問にまで発展した「耐震偽装」事件は結局、姉歯元建築士の個人的な犯罪だった。国交省がそれに過剰反応して建築基準法を改悪した結果、住宅着工が半減してGDPにも影響を及ぼした損害は計り知れない。

さらに深刻なのは、司法のレベルの低さである。本書も引用している村上ファンド事件の一審判決は「被告の『安ければ買うし、高ければ売る』という徹底した利益至上主義に慄然とする」と糾弾した。このように市場経済を「利益至上主義」とか「新自由主義」と称して嫌悪するのは、日本の司法に広く行き渡った病気だ。著者は東京地検特捜部の元検事だが、このような経済司法のゆがみの特徴は「司法に経済的な常識が欠け、個別の当事者間での問題解決という方向に偏っている」ことにあると指摘する。

インサイダー情報の基準を「実現可能性がまったくない場合は除かれるが、あれば足り、その高低は問題とならない」とした村上ファンド事件の一審判決は、経営者の自社株取引をほとんど不可能にし、市場に大きな混乱をもたらした(二審判決では修正された)。ブルドックソース事件で、経営者がスティールパートナーズに「補償金」を払う買収防衛策を裁判所が認めたことは、株主の資金を経営者の地位保全のために使うことを公認する結果になった。このように社会全体に与える外部性を考えない司法の視野の狭い「事後の正義」が、経済を窒息させているのである。

著者はその原因を司法の位置づけの変化に求める。これまで社会の紛争は行政が事前規制で封じ込め、司法は例外的な事件を個別に処理する制度だったので、六法全書を暗記しただけの偏った知識でもよかった。しかし「法化社会」が提唱され、行政が退場して当事者が司法的に紛争解決するシステムが求められると、司法の社会的影響力は格段に大きくなり、法律家にはコモンロー的な常識が必要になる。

著者がその対策として提言するのが、「法律知識や訴訟技術をもつ者に法曹資格を与えるという従来の基準を変え、経済社会における法的問題に対応できる能力をもつ人材に広く法曹資格を与える」ことだ。著者はイギリスの事務弁護士(solicitor)の例をあげているが、私は弁護士免許を廃止して司法試験を資格認定にするというフリードマンの提案のほうが大きな効果があると思う。

財政黒字を生み出す景気対策

麻生政権がいよいよ追い込まれ、3次補正の議論が始まっている。民主党も対案を検討しており、私のところにも各方面から情報が入ってくる。特に注目されるのは、日経にも少し出ているが、地デジ対策として「支援金」を出す話だ。総務省は2兆円規模を考えているそうだが、そんな財源はないので周波数オークションが有力視されているという。

景気対策として財政支出がうまく行かない最大の理由は、国債でファイナンスすると将来の増税になることを国民が予想するため、現在の需要創出効果が相殺されてしまうことだ。したがってファイナンスの必要ないとされる政府紙幣が話題になっているわけだが、これも結局は国債と同じだ。

これに対して、周波数オークションは財政黒字になる。710~806MHzを5スロットにわけて売却すれば、1兆円以上の財源が出る。それ以外にも470~710MHzのホワイトスペースに200MHz以上あいており、1.5GHz帯にも45MHzあるので、最大4兆円の国庫収入が上がる。残る2500万世帯すべてに10万円ずつ配っても1兆円以上お釣りが来る。

本質的な効果は、市場の創造によって通信サービスへの新規参入を促進し、内需拡大することだ。日本経済が低迷している原因は、製造業からサービス業への転換が遅れているためだが、無線通信はもっとも有望なサービス業である。周波数オークションは、景気対策と国庫収入と新規参入の一石三鳥になる、夢の経済政策だと思うのだが、どうだろうか。

「新自由主義」をめぐる誤解

日本の一部の人々にとっては、経済危機によって「新自由主義」が終わったのだそうだが、そういう人に限って自分が何をいっているのか理解していない。小倉秀夫氏は次のように書く:
普通は,「neoliberalism」の訳語だと考えると思うのですが,池田先生は「neoliberalism」という言葉が用いられている英語文献をお読みになったことがないのでしょうか(「neoliberalism」でググっていただければ,おびただしい量のサイトが検出されると思いますが。)。
Neoliberalismという言葉が使われるようになった最初はHarvey "A Brief History of Neoliberalism"(2005)で、さかのぼると1996年にメキシコで開かれた「反グローバリズム」集会が最初のようだ。これに対してlibertarianismの最初は1789年。どっちがオリジナルかは議論の余地もない。Libertarianismを「新自由主義」と訳したのは西山千明氏で、『隷属への道』の訳者あとがきで彼はこう書いている:
1970年代から、私はシカゴ学派の自由主義を「新自由主義」と呼ぶことにした。この「新自由主義」は、日本では大いに誤解されていると思う。最近では[ハーヴェイの]訳書の「新自由主義」というタイトルにだまされている向きがあって、これ以上多くの学者にさらに誤った考え方を抱かれては、世論をいっそう誤導することになるので、以上で事情を明らかにしておきたい。
西山氏が1970年代からlibertarianismの訳語として使っていた「新自由主義」を、その20年以上後になってneoliberalismの訳語として使うのは混乱のもとだ。まして後者が「普通」で前者が間違いだと主張するのは主客転倒である。拙著にも書いたが、欧米でも「自由主義」をさす言葉には複雑な歴史があり、誤解をきらったハイエクはliberalismやlibertarianismという言葉を使わなかった。彼の思想は「新」自由主義ではなく、ヒュームやスミス以来の古典的自由主義であり、不況とともに消えるような底の浅い思想ではない。

以上のようなことは欧米の知識人には常識であり、経済学者も(学派を問わず)スミスの経済的自由主義を大前提として議論しているのである。自由主義の伝統がない日本でそれが理解されていないのは仕方ないが、そういう無知をブログで公言して「新自由主義は終わった」などと繰り返すのはいい加減にしてほしいものだ。

北欧モデル

一昨日の記事に安富歩氏から「スウェーデンモデルをどう見るか」というコメントをもらった。昨日ちょうど「北欧モデル」の話を、ある大学の研究所長としたところだった。北欧モデルの成功は「英米型の自由主義経済が効率的だ」という経済学者の多数意見に対する挑戦で、最近ではSachsEasterlyが論争している。
The Nordic states have also worked to keep social expenditures compatible with an open, competitive, market-based economic system. Tax rates on capital are relatively low. Labor market policies pay low-skilled and otherwise difficult-to-employ individuals to work in the service sector, in key quality-of-life areas such as child care, health, and support for the elderly and disabled.
とSachsのいうように、大きな政府が非効率だとは限らない。少なくとも1人あたりGDPでみるかぎり、北欧型が英米型をしのいでいる。Easterlyがハイエクと同じく、福祉国家を社会主義と一緒くたにしているのは間違いである。


北欧の労働生産性が高いのは、解雇自由で労働移動がすみやかなことが原因といわれているが、このモデルに普遍性があるかどうかはわからない。北欧諸国は人口数百万人で、労働人口が均質で教育程度が高い。北欧の労働者保護のインフラになっているのは、組織率80~90%の産業別労組であり、他の国がまねるのはむずかしい。同じように税率の高い欧州全体をみると、1人あたりGDPはアメリカの75%以下であり、福祉国家の経済効率は一般にはよくない。

要するに北欧モデルは小国の特殊なシステムで、日本の6000万人以上の労働人口をこれから産業別労組に組織するのは不可能だし、政府が労働者の面倒を全面的にみるのは財政負担がとても耐えられないだろう。ただ日本的福祉システムが崩壊した今、企業ではなく社会によってセーフティ・ネットを整備する必要があり、北欧型の積極的労働政策には学ぶべき点が多い。解雇自由にする代わりに、職業訓練などによって労働移動を円滑にする制度を、労組や政府ではなくビジネスベースで実現するしくみが必要だろう。

壁と卵

村上春樹氏のエルサレム賞受賞スピーチの一部が、現地紙に出ている。当然「曖昧だ」とか「混乱する」とか否定的に論評しているが、抄録としてはもっとも長いので、スピーチの部分をそのまま引用しておこう:
So I have come to Jerusalem. I have a come as a novelist, that is - a spinner of lies.

Novelists aren't the only ones who tell lies - politicians do (sorry, Mr. President) - and diplomats, too. But something distinguishes the novelists from the others. We aren't prosecuted for our lies: we are praised. And the bigger the lie, the more praise we get.

The difference between our lies and their lies is that our lies help bring out the truth. It's hard to grasp the truth in its entirety - so we transfer it to the fictional realm. But first, we have to clarify where the truth lies within ourselves.

Today, I will tell the truth. There are only a few days a year when I do not engage in telling lies. Today is one of them.

When I was asked to accept this award, I was warned from coming here because of the fighting in Gaza. I asked myself: Is visiting Israel the proper thing to do? Will I be supporting one side?

I gave it some thought. And I decided to come. Like most novelists, I like to do exactly the opposite of what I'm told. It's in my nature as a novelist. Novelists can't trust anything they haven't seen with their own eyes or touched with their own hands. So I chose to see. I chose to speak here rather than say nothing.
So here is what I have come to say.

If there is a hard, high wall and an egg that breaks against it, no matter how right the wall or how wrong the egg, I will stand on the side of the egg.

Why? Because each of us is an egg, a unique soul enclosed in a fragile egg. Each of us is confronting a high wall. The high wall is the system which forces us to do the things we would not ordinarily see fit to do as individuals.

I have only one purpose in writing novels, that is to draw out the unique divinity of the individual. To gratify uniqueness. To keep the system from tangling us. So - I write stories of life, love. Make people laugh and cry.

We are all human beings, individuals, fragile eggs. We have no hope against the wall: it's too high, too dark, too cold. To fight the wall, we must join our souls together for warmth, strength. We must not let the system control us - create who we are. It is we who created the system.

I am grateful to you, Israelis, for reading my books. I hope we are sharing something meaningful. You are the biggest reason why I am here.
イスラエル人の前でこのようなスピーチを行うことは、受賞を拒否するよりはるかに困難な決断だ。彼の小説はデビュー作が『群像』に載ったときからすべて読んでいるが、このスピーチは彼の最高傑作だ。よくやったよ、君は日本人の誇りだ。

追記:この記事はヤフーニュースのヘッドラインになって、11万PV以上のアクセスがあった。いろいろなバージョンの翻訳も、この記事へのコメントやTBからたどれる。スピーチのもっと長いダイジェストも出た。

「成長戦略」という名の産業政策

昨年10~12月期の成長率は、先日の記事で書いた上限を超える年率マイナス12.7%だったが、今年1~3月期はマイナス20%に迫ると予想されている。これを受けて、また3次補正の話が出ているが、昨年の1次補正や利下げなどの効果がなかったことは明白だ。景気刺激策がきかないのは、現在の経済危機がグローバルな経常収支バランスの大規模な変化によって生じているためだから、2回やってだめなものは3回やっても無駄だ。

こうした状況を受けて、ようやく「外需依存型」の経済構造を転換して「内需拡大」すべきだという声が出てきた。麻生内閣も、3月に「成長戦略」を出すそうだ。これについて、けさの日経新聞で、平田育夫論説委員長は、次のように書く:
わが日本にも成長戦略ははあるが、どれも網羅的で、経済産業省の新経済成長戦略などはA5判で三百五十ページもある。網羅的といえば聞こえが良いが「鳥獣害対策」まであると戦略の重点が分からない。また政治的に難しい問題には踏み込まないので芯を欠いてしまう。[・・・]この非常時にこそ、政治家が日本の将来像を描いて芯のある成長戦略を定め、それに沿って景気対策を実施すべきではないか。経済社会の将来に関しては環境、医療・介護、教育、農業などの分野や、そこでの生産性向上、雇用確保が重要だ。
経産省の成長戦略が総花的だというのはその通りだが、平田氏の推奨する分野が成長産業かどうかはわからない(農業がそうでないことは明白だ)。成長産業を決めるのは経産省でも日経新聞でもなく、市場である。政府がやるべきなのは、特定の産業に「重点投資」する産業政策ではなく、私が先週の週刊東洋経済に書いたように、成長産業に人的・物的資源が移動できるような制度設計である。

具体的には、資本市場の改革(特に対外開放)で企業買収・売却による事業再構築を容易にすることと、労働市場を改革して衰退部門から成長部門への労働移動を促進することだ。いま政府のやっている外資による対内直接投資の規制や派遣労働の規制強化などは、逆に生産要素の移動をさまたげて、潜在成長率を低下させる。医療への参入を促進するために必要なのは政府の指導ではなく、医師会の圧力で医師の供給を絞ってきた医療政策の転換であり、介護への新規参入を阻害しているのは過剰な規制だ。

かつて通産省の看板だった産業政策が有害無益になったのは周知の事実だが、何もしないと予算が減るので、このごろは成長戦略という名前で時代錯誤の「ビジョン行政」が復活している。しかし「情報大航海プロジェクト」の失敗(関係者は「大後悔」と呼んでいるそうだ)をみてもわかるように、役所が産業を育成する時代ではない。経産省はターゲティング政策からは手を引き、財界や労組の抵抗を排して資本・労働市場を改革すべきだ。

Animal Spirits

ケインズの乗数理論は役に立たないが、彼が強調した不確実性や「アニマル・スピリッツ」などの心理の問題は、今回の経済危機であらためて注目されている。本書はAkerlofとShillerという巨匠が、そうした不況の心理的な側面を、行動経済学の成果を使ってやさしく解説したもので、読み物としても楽しめる。

ケインズの理論はIS-LM図式として教科書になり、それをさらに洗練して合理的期待理論ができた。現在のマクロ経済学の主流であるDSGEもその延長上にあるが、現在の危機はこの種の均衡理論への大きなチャレンジだ。DSGEでは代表的家計が永遠の未来を合理的に予測し、均衡は一つに決まると想定しているが、現状では人々が自信をなくし、その悲観的な予想が実現してますます自信をなくす複数均衡が生じているからだ。

複数均衡の理論的な可能性は、20年ぐらい前にCooper-Johnなどが指摘したが、通常の不況では大した問題ではなかった。しかし大恐慌や今回(あるいは90年代の日本)のように大規模な経済危機になると、人々が「悪い均衡」に集まるコーディネーションの失敗が深刻な問題になる(これは池・池本でも指摘した)。ゲーム理論でよく知られているように、こういう場合に均衡選択の一般的なアルゴリズムは存在しない。

したがって人々を「よい均衡」に集めることが、政府や中央銀行の役割だ。本書では、こうした均衡選択における信頼の役割を信頼乗数(confidence multiplier)と呼んでいる。大恐慌のときもそうだったように、危機の本質は金融システムへの信頼が失われたことだから、FRBが大量の通貨供給を行なって金融システムを支えることは、マネーストックへの効果より信頼乗数に働きかける効果のほうが重要だ。これは意外にも、Lucasの意見と似ている。

この観点からみると、発言が二転三転して支持率が10%を切った日本の首相の信頼乗数はマイナスだから、3次補正なんかやるのは税金の無駄だ。彼を更迭することが最大の景気対策である。





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