2009年02月

不況についての迷信

当ブログは匿名の批判はすべて無視しているが、先日の『Voice』の記事を読むと、ネット上の民間信仰が「作家」や「評論家」に与える影響は無視できないようなので、よくある迷信をまとめてみた。
  1. 不況の原因は「需要不足」だから、景気対策で需要を追加すれば問題は解決する:需要不足には、短期的な要因と長期的な要因がある。前者は金融・財政政策によってコントロール可能なGDPギャップ、後者はコントロール不可能な潜在GDPの低下である。マクロ政策によって達成可能な成長率の上限は、後者によって決まる。今回の日本のように、アメリカの過剰消費が正常化することによる潜在GDPの低下を「一国ケインズ政策」で埋めることはできない。

  2. 財政支出によって「完全雇用」が実現できる:たとえば輸出企業に20兆円のGDPギャップがあるとき、土木事業に20兆円出しても、輸出企業のギャップは縮まらず、土建業に超過需要が発生するだけだ。不況の本質は資源配分のゆがみにあるので、経済全体に薄く広くばらまいても、必要な部門には回らない。この点では、市場メカニズムを活用する金融政策のほうがすぐれている。

  3. 日銀が通貨を供給すれば、いくらでもインフレにできる:しかし金融政策は、今のように事実上ゼロ金利になると、きかなくなるという限界がある。この場合、日銀が通貨供給を増やしても、資金需要を超える分は「ブタ積み」になるだけである。ただしCPの買い入れなどによってリスクプレミアムを縮める政策には、一定の有効性がある。

  4. 日銀が「インフレ目標」を掲げればインフレが起こる:バーナンキが「インフレ目標」に言及したと喜んでいる向きもあるが、この程度のゆるやかな目標なら、日銀も「物価安定の理解」として公表している。バーナンキやクルーグマンがかつて主張したのは、デフレ状況で日銀が「インフレにするぞ」と言ってめちゃくちゃに通貨を供給すればインフレが起こる、という人為的インフレ政策である。今そういう愚劣な主張をしている経済学者は、日本以外にはいない。

  5. 不況の最中に構造改革を行なうと、供給を増やしてGDPギャップが拡大する:構造改革によって、供給だけが増えて需要は増えないという根拠は何だろうか。構造改革(産業構造の改革)は、潜在GDPを高めるものだから、需要と供給をともに高める。たとえば土建業から医療・福祉に労働力が移動すれば、労働供給も労働者の需要も増える。

  6. 構造改革は「清算主義」である清算主義とは、1930年代のフーバー政権のメロン財務長官の“Liquidate labor, liquidate stocks, liquidate the farmers, liquidate real estate”という言葉だとされるが、彼がそのような発言をしたことを証明する1次資料はない(これはフーバーの回顧録の表現)。今そういう主張をしている経済学者もいないので、清算主義という言葉は無内容な藁人形である。

  7. 賃金を上げればGDPは上がるCole-Ohanianも指摘するように、ワグナー法によって実質賃金が上がったことが、大恐慌を長期化した疑いが強い。賃上げによって所得が波及する「乗数効果」より、企業が雇用を減らす「価格効果」のほうが大きいからだ。「分配を平等にすればGDPが上がる」という類の主張もナンセンス。ジニ係数と1人あたりGDPに有意な相関はない。

  8. 財政赤字は「国民の国民に対する借金」だから心配する必要はない:債権(国債)を買う世代と、債務(増税による償還義務)を負う世代は別である。国債を買うのは資産選択による合理的行動だが、将来世代が国債を償還するのは国家による強制的な徴税だ。両者が同じなら、増税が政治的争点にはならないだろう。政府紙幣も国債の日銀引き受けと同じで、丸もうけにはならない。
要するに、今のようなゼロ金利状況では、Krugmanもいうように「金融政策で経済を救うことはできない」のであり、膨大な財政赤字があると、Becker-Murphyもいうように「財政政策にフリーランチはない」のだ。回り道のようでも、1%以下に低下した潜在成長率を高めるイノベーションしか、日本が長期停滞から脱却する方法はない。

追記:私の政策提言は「アゴラ」に書いた。

利益相反の犠牲者

私がRSSリーダーに入れている"The Big Picture"の管理人、Barry Ritholtzの本"Bailout Nation"の発売が、1月中旬から何度も遅れていたが、結局、発売中止になった。

版元(McGraw-Hill)の説明では「事実の確認が取れない」というのが理由だが、Ritholtzがくわしく説明しているように、これは嘘である。本当の理由は、McGH社と同じ持ち株会社の傘下にあるS&Pを、Ritholtzが「ポン引き」と書いたことだ。編集者の反対によって彼は原稿を「外交的に」書き直したが、McGH社は最終的に出版中止を決めた。オリジナルの原稿をみても、表現はやや穏当を欠くとはいえ、格付け会社が債券の発行元から手数料をもらって格付けを行なうのは、ポン引きが娼婦を格付けするようなもので客観性は期待できない――というのはごく当たり前の話で、今どき目新しくもない。

このエピソードは、バブル崩壊のたびに問題になる利益相反の皮肉な例だ。ITバブルのときは、ベンチャー企業のIPOを引き受けた投資銀行のアナリストがバブルをあおり、エンロンのときは監査をやったアーサー・アンダーセンがコンサルティングもやっていた。Ritholtzが批判したのは、まさにこうしたcorporate entanglementだったのである。

資本主義と市民社会

小倉氏のブログは、あいかわらずネタの宝庫なので、枕に使わせてもらう。きのうの記事では、こう書く:
マルクスは資本主義の研究者としては一流だったので,資本主義社会を分析するにあたっては,マルクスが開発した諸概念を用いることは有益ですから(そもそも"Capitalism"(資本主義)自体,マルクスの造語ですし。),当然のことなのですが。
これはもちろん間違いである。マルクスのテキストに資本主義(Kapitalismus) という言葉は一度も出てこない。これを初めて使ったのはゾンバルトである(Wikipediaにも書いてある)。これは経済史の常識であり、こんないい加減な知識で、わかりもしない「階級闘争」を語るのはやめてほしいものだ。

よく「資本主義」と「市場経済」を同じ意味に使う人がいるが、両者は別の概念である。ブローデルもいうように、資本主義の核にあるのは不等価交換によって利潤を追求するシステムであり、それは等価交換を原則とする市場と対立する。資本主義は、等価交換によって利潤(不等価交換)を生み出すシステムであり、この矛盾がさまざまな軋轢を生んできた。

『資本論』で圧倒的に多く使われる概念は、資本主義ではなく市民社会(burgerliche Gesellschaft)である。これを「ブルジョア社会」と訳すのは誤りで、これはヘーゲル法哲学からマルクスが受け継いだ概念である(最近の言葉でいえば市場経済)。ヘーゲルにおいては「欲望の体系」としての市民社会の矛盾は国家によって止揚されるが、マルクスは国家は市民社会の疎外態だと考え、それを廃止することによって真の市民社会を実現する革命を構想した。

マルクスが生前に完成した『資本論』第1巻には、階級という概念は出てこない。「諸階級」が出てくるのは、第3巻の最後の「三位一体定式」の部分である。階級対立は剰余価値によって生み出される二次的な関係であり、マルクスの理論の本質ではないのだ。またマルクスは「平等」を求めたこともない。彼が理想として掲げたのは「私的所有」を廃止して「個人的所有」に置き換え、「自由人のアソシエーション」を築くことだった。これは今の言葉でいえば、労働者自主管理に近いが、それもユーゴをはじめとして失敗に終わった。

つまり資本家が私的所有によって資本を独占する生産様式は、市民社会に寄生して本源的な価値の源泉である労働を搾取するシステムで、それを転倒して自立した市民が生産手段を共有して自覚的に生産をコントロールする、というのがマルクスの構想した未来社会だった。これは「強い個人」がみずからの主人になるという思想で、リバタリアンに近い。つまりマルクスは(ハイエクと同じく)きわめて正統的なモダニズムなのである。その派生的な結論として導かれた「階級闘争」とか「プロレタリアート独裁」などの概念が間違っていたことは、彼の決定的な限界ではない。

むしろマルクスとハイエクがともに依拠した西欧的な市民社会の概念が、どこまで普遍的なモデルなのかが問題だ。歴史的には市民社会が普遍的ではないことは自明であり、「欲望の体系」が人々の感情を逆なでする不自然なシステムであることも、ヘーゲルが指摘した通りだ。しかしそれが西欧文化圏の奇蹟的な成長を可能にし、それ以外のモデルがすべて失敗に終わったことも事実である。マルクスは、階級対立を生み出さない純粋な市民社会としてのコミュニズムが可能だと考えたが、それは間違いだった。欲望を解放する市民社会は、必然的に富の蓄積によって不平等な資本主義を生み出すのである。

つまりわれわれは「不自然で不平等な市民社会が、物質的な富を実現する上ではもっとも効率的だ」という居心地の悪いパラドックスに直面しているのだ。これを拒否するか受け入れるかは、ある意味で歴史的な選択である。「新自由主義」を否定して、政府が不況で困った個人や企業をすべて救済し、それによる財政赤字をまかなうために税率を70%ぐらいに引き上げる国家社会主義も、一つの政策だろう。そうやってゆっくり衰退してゆくことが、日本にとって現実的に可能な唯一の選択肢であるような気もする。

日本経済のダメージはなぜアメリカより大きいのか

30分で書いた先日の記事が思わぬ議論を呼んでいるので、補足しておく。書き方が混乱をまねいたのは申し訳ないが、これは「外国貿易乗数は大国のほうが大きい」という常識を書いただけだ。ちょうど先週出た日銀の金融経済月報に、この原因についての分析があるので、引用しておこう:
わが国の生産の落ち込みは、世界的な景気調整の震源である米国と比べても、むしろ大幅なものとなっている。これには、以下に示すように、日米製造業の構造の違いが大きく影響していると考えられる。

第1に、鉱工業を構成する産業のウエイトの違いである。鉱工業の生産の内訳をみると、わが国は、落ち込みの大きい輸送機械(自動車等)、電気機械類(電子部品・デバイス、電気機械、情報通信機械)、一般機械(設備機械等)の3業種で鉱工業全体の約5割を占めているのに対し、米国では、それに対応する業種の比率は2割程度。

第2に、輸出の影響の違いである。輸送機械など3業種では、ウエイトだけでなく、生産の落ち込み幅自体もわが国の方が大きく、これには輸出の大幅減少が影響している。わが国では、これら3業種を中心に製造業の輸出比率がもともと米国より高く、しかも近年は、新興国・資源国の需要拡大や為替円安を背景に、輸出比率はさらに高まっていた。


第3に、需要ショックの波及効果の違いである。輸出が増加すると、その生産に必要な財・サービスの国内取引を通じて次々と他の製造業の生産に波及し、結果として当初の需要増加の何倍かの国内生産が誘発される。わが国では部品や素材の国内調達比率が高いことから、こうした最終需要の製造業生産に対する誘発力は高い。
私の記事で書いたのは、このうち「第3の効果」だけで、本質的な問題は日本経済の2000年代の成長率のほぼ半分が輸出の増加によるものだったことである。先日の『Voice』の記事を読むと、こうした問題を「需要不足は景気対策で一発で片づく」と考える民間信仰はまだ根強く残っているようだが、今回の外需の不足をもたらしたのは製造業の産業構造であり、マクロ政策で変えることはできない。

世界経済同時危機―グローバル不況の実態と行方

池尾・池田本は、アマゾンの先行発売だけで重版になった。都心の本屋には並び始めたが、それと並んでいるのが本書だ。テーマもほぼ重なるので読んでみたが、競合するというより補完的な本だと思う。われわれの本では、危機のメカニズムを理論的に分析することに重点を置いたが、本書はマクロ統計を駆使してグローバルな視野から論じている。

その結論は、われわれとほぼ同じだ。危機の背景には、新興国の過剰貯蓄をアメリカが吸収したことによるグローバル・インバランスがあり、高いリターンを実現したようにみえる投資銀行の金融商品の中身は多分に詐欺的なものだった。それが放置されたのは、オフショアの「影の銀行システム」が銀行規制の抜け穴になっていたためだ。したがって今回の危機の主要な原因は、時代遅れの規制による「政府の失敗」であり、これを「新自由主義の行き過ぎという観点で捉えることは、誤った判断となる」。

日本の投資不足が慢性的に続き、それを外需で埋めてきた経済構造が、欧米より大きなダメージを受ける原因となった。したがって日本経済を内需主導に転換する改革が必要で、地方公務員の給与が異常に高く有能な人材が民間に集まらない「社会主義的」な経済構造が成長を制約している――というのが本書の結論だ(これもわれわれとほぼ同じ)。

原田泰氏は「リフレ派」に近いが、このように市場を重視する考え方は「構造改革派」と同じであり、もはやそういう対立には意味がない。「富をつくった人に富が還元されるしくみがなければ社会は豊かにならない」というのは、すべての経済学者のコンセンサスである。

金融危機と「ナイトの不確実性」

今回の金融危機について、グローバル・インバランスと金融技術とFRBの金融緩和に原因を求める「通説」に対して、Caballeroが異を唱えている。
問題は資金の過剰ではなく、金融商品の不足である。新興国などの旺盛な投資意欲を満たす安全でリターンの高い金融商品が慢性的に不足しており、アメリカの投資銀行がその需要を満たしたため、資金がアメリカに流入したのだ。グローバル・インバランス(特にアメリカの経常赤字)はそれによって生じたもので、世界的な低金利もその結果だ。そのギャップを埋めたのはアメリカの住宅ローン市場であり、リスクの高いサブプライムローンをプールしてAAA格付けを得る金融技術だった。

しかし金融技術は、個別の金融商品のリスクをヘッジできても、金融システムが崩壊するような(Knightの意味での)不確実性をヘッジすることはできない。ラムズフェルドの有名な言葉でいうと、投資銀行はknown unknownを扱うことはできるが、unknown unknownを扱うことはできないのだ。それは民間の仕事ではなく、政府や中央銀行の仕事である。ところがアメリカ政府とFRBは、投資銀行を通常の企業の破綻と同じように扱い、不確実性を爆発的に拡大してしまった。

この結果、金融の保険機能がなくなって企業の現金制約が非常にきびしくなり、経済が大きく収縮している。したがって必要な政策も、銀行への資本注入より、政府が資産を額面で買収してtail riskを減らすほうが重要だ。いま起きているのは大規模な取り付けの一種なので、悪い均衡から脱出して「普通の不況」に戻すために必要なのは、預金保険のような「金融保険」の機能である。
Tail riskを管理することが金融機関の仕事なのか政府や中央銀行の仕事なのかは、今後の制度改革でも争点になろう。カウンタパーティ・リスクを度外視してCDSを売っていた投資銀行が免罪されるとも思えないが、すべての証券が投げ売りされるリスクを織り込んで格付けや値付けを行なうことも不可能だろう。Caballeroは、もう少し具体的な提案もしている。

「安定化政策」は経済を不安定にする

Sachsがこう書いている:
米政府とFRBは、経済を安定させるつもりで、かえって不安定にする政策を続けてきた。オバマ政権の巨額の財政政策は、短期的には成功するかもしれないが、長期的にはさらに深刻な危機をまねくおそれが強い。

アメリカを繁栄に導いたのは、非裁量的なマクロ政策だった。1970年代の「ハイ・インフレーション」の教訓は、裁量的な景気対策がかえってスタグフレーションをもたらすということだった。このため80年代以降、ルールにもとづく金融政策がとられ、インフレは沈静し、アメリカ経済は安定した。

ところがLTCMの破綻やY2K問題に過剰反応して、FRBが通貨供給を膨張させたため、ITバブルが起きた。その崩壊と9・11の後、FRBは異常な金融緩和を行なって、現在の危機の原因をつくった。このような近視眼的な政策を繰り返すのはやめるべきだ。巨額の赤字財政やゼロ金利は、対症療法にはなるが、ドルを暴落させるリスクが大きい。

いちばん大事なのは、パニックに陥らないことだ。FRBは日本のデフレの轍を踏むまいとして過剰な金融緩和を行なったが、その結果起こった住宅バブルの崩壊で、アメリカはデフレに陥ってしまった。「大恐慌が来る」という類の話はナンセンスだ。1930年代には、金本位制のもとで預金保険もない状態で、銀行がバタバタつぶれた。その過ちを当局が繰り返すことはありえない。

アメリカ経済が回復するために必要なのは、ゼロ金利や財政赤字ではなく、財政収支を長期的に均衡させ、政府が長期的な成長を可能にする公共インフラに投資することだ。目の前の急激な変化に右往左往してアドホックな「安定化政策」をとることは、かえって経済を不安定にするという歴史の教訓に学ぶべきだ。
私も、MankiwCowenと同じく1票。

外需の影響

日本経済が外需の変化の影響を受けやすい、と書くと「日本の輸出のGDP比は小さいから影響はない」といったコメントが来る。そういう間違いを堂々と書いた「1ドル70円台の日本経済」という記事が月刊誌に現れたので、基本的なことだが訂正しておく。
「日本の輸出依存度って、せいぜい15%だけど、これって高いかな?」
「……高いだろう。15%もあるのだから」
「でも他の国と比較すると、日本の輸出依存度は、主要国のなかではアメリカの次に低いよ。なにしろ製造業が衰退しちゃった、あのイギリスよりも低いんだから」
輸出のGDP比が小さいからといって、その影響も小さいとは限らない。輸出の波及効果の大きさを示す外国貿易乗数Xは、限界消費性向をc、限界輸入性向をdとすると、

X=1/(1-c+d)

ここで貿易依存度が小さいとdが小さくなるので、Xは大きくなる。逆にいうと、輸出が減った場合のマイナスの影響も大きい。輸出産業の部品を国内で調達する比率が高いからだ。一般に大国では貿易の比重は小さくなるので、輸出比率の小さい日本が外需の影響を受けやすいのである。

この記事は他にも間違いが多く、正しい部分はほとんどない。

銀行の国有化

昨今の銀行国有化をめぐる議論は、シティバンクを決済銀行にしている私としては他人事ではない。米政府はまだそこまで踏み切っていないが、グリーンスパンも国有化を支持する状況になり、もう時間の問題だろう。預金者として気になるのは、このまま放置すると自己資本がBIS基準を割り込んで海外営業できなくなることだ。とにかく自己資本を強化してほしい。

そういう個人的な理由もさることながら、もう国有化しか選択の余地はないと思う。Hart-Shleifer-Vishneyの基準でいうと、完備契約が可能であれば、国有化する必要はない。銀行の資産査定が厳格にできて経営者の行動を規制でコントロールできれば、民間企業のまま規制すればいいのだ。しかし現状では非常に大きな不完備性が生じ、特に資産価値が外部からまったくわからない状態になっているので、政府が介入して資産査定をやらないと処理できないだろう。

むしろ問題は、国有化が最終解決にならないことだ。日本では1998年の「金融国会」で長銀の国有化が決まり、次いで日債銀が国有化された後も、他のメガバンクは依然として「自己責任」による不良債権処理を続けていた。これについて2002年、柳沢金融担当相と竹中経済財政担当相が対立し、柳沢氏が更迭されて竹中氏が金融担当相を兼務し、「竹中プラン」で強制的な処理を打ち出した。結果的には、りそなを救済したりして、それほどドラスティックな処理はしなかったが、この「脅し」によって銀行が最終処理を加速した。

今回もシティとバンカメが国有化されることは避けられないとしても、その範囲をどこまで広げるかがむずかしい。「スウェーデンは国有化で片づいた」とよくいわれるが、これはアメリカでいえば地方銀行ぐらいの規模で、あまり参考にはならない。すべての米銀を国有化したら、財政が破綻してドルが暴落し、世界中に金融危機が拡大するおそれが強い。日本の経験でいうと、個別の介入より竹中プランのようなルールの厳格化によるcredible threatのほうが効果的なのではないか。

米財務省の検討しているbad bankも、運用がむずかしい。日本でも日銀が「平成銀行」による処理を計画していたが、最初に東京の二信組にそのスキームを適用したため、「高橋治則の貯金箱に公的資金を投入した」という批判を浴びて、後退せざるをえなかった。整理回収機構も、住専処理で批判を浴びたことに対する埋め合わせとして始まったため、むやみに刑事罰を振り回す変な組織になってしまった。

こうしてみると、真の敵は銀行ではなく、勧善懲悪や自己責任を求める世論(メディア)だ、というのが日本の教訓だ。大塚将司氏もいうように、特に自己責任論に熱心だったのは日経新聞である。視野の狭い「事後の正義」が経済をだめにするのは広く見られる法則だが、不良債権処理では特にそういう感情論を排し、リスクと便益を冷静に比較衡量する必要がある。どっちにしても、シティの預金は守ってください・・・

訂正:シティバンクは、2007年から預金保険の対象になった。関係者にご迷惑をかけたことをおわびします。

リスクのきらいな日本人

小倉秀夫氏によれば、
新自由主義って,人命に特段の価値を見出しません。そもそもたかだか人命のために企業活動が制約されるということが池田先生には許せないのだと思います。「人命と,建築業界の収益とどちらが大切なんだ」と問われて,法律家は人命だと答え,経済学者は建築業界の収益だと答える。
よくこれで弁護士をやってるね。私がどこで「人命に特段の価値を見出さない」と書いたのか、と反論されたら、訴訟なら終わりだ。「小倉ヲチ」なんてサイトもあるぐらい、世の中に彼の被害者は多いようで、まともな議論の相手にはならないが、病理学的な観察の対象としてはおもしろい。

何度も書いたように、リスク管理の目的はリスクをゼロにすることではない。人命が他のすべてに無条件に優先するのなら、まず自動車を禁止すべきだ。重要なのは、リスクと便益のトレードオフの中で何を選ぶかという目的関数の設定である。ところが日本人はこれが非常にへたで、特に役所は「経済性より人命のほうが大事だ」というメディアの攻撃に弱く、責任をまぬがれるために過剰セキュリティを義務づける傾向が強い。これを霞ヶ関では「政府ガード」というそうだ。

この問題は、実は日本経済の最大の課題である内需拡大ともからんでいる。日本人のポートフォリオが異常にリスク回避的で貯蓄過剰になっているという問題は、私の学生のころからゼミの研究テーマだったが、いまだに変わらず、原因もはっきりしない。日本の金融システムが「間接金融」中心になっているというのがよくある説明だが、これは原因か結果かわからない。1980年代に外資系証券がアークヒルズに大量にやってきて、「これからは証券の時代だ」といわれたが、バブル崩壊でほとんど撤退してしまった。

残る最悪の説明は「日本人はリスクがきらいなのだ」という文化論だが、これは何も説明していないに等しい。私が参考になると思っているのは、ゲーム理論でいうリスク支配戦略の概念だ。ゲームに複数均衡がある場合、一つの均衡がパレート支配的であっても、合理的な行動によってそこに到達するアルゴリズムは存在しない。しかし進化ゲームを考えると、Kandori-Mailath-Robなどで知られているように、個人的にリスクをとる突然変異が十分大きければ(パレート支配的な)リスク支配戦略が実現する。

逆にいうと、日本人のように突然変異の少ない(同質的な)集団では、自分だけ他人と違う行動をとるリスクが将来の利益より大きいので、昔からのローリスクの均衡への経路依存性が強くなる。こうしたリスクを効率的に配分するのが金融システムの機能で、日本でも80年代には長銀や興銀が投資銀行への転進をはかったが、バブル崩壊に巻き込まれて挫折した。そのため、ハイリスク型の金融市場が形成されず、資産構成がローリスクに片寄ったまま現在に至っているのではないか。

このローリスク志向のおかげで、邦銀は今回の金融危機では難をまぬがれたので、悪いことばかりでもないが、この壁を突破しないと日本は、長期停滞から脱却できないだろう。まぁゆっくり衰退するというのも一つの選択ではあり、事実上それしかないような気もするが、それが「正義」だと勘違いして日本を衰退の道にひきずりこむのはやめてほしいものだ。




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