2008年12月

ケインズの葬送

今年は、ケインズがあらためて注目された年だった。マルクスは完全に葬られたが、ケインズはまだ成仏していないようだ。今ごろ墓場からよみがえるのは彼も本意ではないと思うので、その意義と限界を簡単にまとめておこう(この記事は入門的ではない)。

『一般理論』は非常に難解な本である。脱線や重複が多く、前後で矛盾していて、統一的な理論モデルがどこにも書かれていない。これは「ケインズ・サーカス」という研究会の記録をもとに書かれ、コアになったのはリチャード・カーンの乗数理論だったので、正確にはカーンとの共著だといわれる。この研究会のメンバーだったジョーン・ロビンソンも「ひどい本だ」と評した。特に岩波文庫の訳本は、絶対に読んではいけない。

乗数については、1933年にカレツキが(ポーランド語で)発表した理論のほうが数学的に明快だ。彼が依拠しているのは新古典派ではなくマルクスで、剰余価値率(マークアップ)が一定の固定価格経済を明示的に仮定している。所得が乗数倍になるためには、所得の増加によって需要が拡大しても価格が変化しないことが必要条件だからである。カレツキは、現代社会では価格が自由に調整されるのは生鮮食料品のようなマージナルな商品で、中核となる工業製品はマークアップで価格づけされていると論じている。

同様の議論はClower-Leijonhufvudなどによって行われ、Barro-Grossmanに集大成されている。ただBarro自身がのちにこの種の不均衡理論を放棄したように、不均衡状態で価格がなぜ変化しないのかという理由がはっきりしない。新古典派的な凸の戦略空間を考えると、需給ギャップは長期的には価格で調整されて不均衡はなくなるはずだ。この点を理論的に明らかにしたのがMankiw-Romerに代表される「新ケインズ派」で、コーディネーションの失敗(非凸性)があるときは、不均衡状態がナッシュ均衡になってしまうことを明らかにした。

現状は世界規模の取り付けによってコーディネーションの失敗が生じているので、ケインズ的な状況だという理解は必ずしも間違っていない。こうした複数均衡状態では「よい均衡」の所在を知っている賢明な政府が民衆を正しい解に導くことが望ましい、というケインズの思想はマルクスと同じで、こうした計画主義が20世紀後半の経済政策を支配した。しかし問題は、政府が正しい解を知っているのかということだ。

ケインズ自身は『一般理論』の均衡理論的な解釈を否定し、大恐慌では不確実な未来についての悲観的な予想によって過少投資が起きるので、政府がリスクをとるべきだと強調した。これは意外なことに、Lucasの考え方とよく似ている。彼はWSJに寄稿したエッセイで、FRBがリスク資産を買う非伝統的な金融政策は、従来の意味での金融政策というより、政府部門がリスクを負担して「悪い均衡」を脱却する政策だと理解している。

ただ悪い均衡を脱却しても、実際の戦略空間は非常に複雑なので、どこによい均衡があるかは誰にもわからない。もちろん政府が知っているとも限らない。したがって政府が特定の部門に裁量的に支出して、よい均衡に導こうとするケインズ政策は、有害無益な浪費に終わることが多い。悪い均衡を脱却したあとは、民間の経済主体が自律分散的にリスクをとって新しい均衡をさがすしかない。

こういうコーディネーションの問題を、集計的な総需要の不足として表現したケインズの理論は、彼の時代にはやむをえなかったとはいえ、きわめてミスリーディングなものだ。「需要が不足している」という話は、なぜ不足しているのか、そして不足がなぜ価格で調整されないのかを明らかにしないかぎり、説明にはならない。だからケインズの診断は正しかったが、その学問的表現は誤っており、不均衡状態を政府が解決できるという彼の処方箋は、社会主義に代わってパターナリズムの温床になった。彼をつつしんで葬送し、21世紀にふさわしい処方箋を考えることが、われわれの仕事だろう。

金融危機についての入門的まとめ

年末になって、本屋にはぞろぞろ「大恐慌本」が出てきた。現在の不況を「世界恐慌」などと名づける本は、それだけで読まないほうがいい。それは著者が1930年代と現在の違いを理解していないことを示すからだ。しかし官僚やメディアにはそのレベルの理解も共有されていないようなので、今年の記事のリンクで金融危機についての入門的な知識をまとめておこう。ちょっと長いので、いつも読んでいる読者は飛ばしてください。
  1. 金融危機の原因は大恐慌とは違う:今回のアメリカの金融危機の最大の原因は、住宅バブルの崩壊にともなって、複雑でリスクの見えにくい金融商品の逆淘汰が起こったことによる金融システムの崩壊だ。これは30年代の大恐慌とも日本の90年代とも異なる21世紀型の危機であり、既知の処方箋はない。マクロ政策は、一時的な「痛み止め」の意味はあるが、今回の危機はそれだけで自然治癒するほど軽傷ではない。

  2. 大恐慌は再来しないシュワルツも証言するように、大恐慌の最大の原因はフーバー政権におけるFRBの「清算主義」的な金融政策で、それが金本位制によって世界に拡大したというのが、今日の標準的な理解である。これについて指導的な役割を果たした研究者が、ほかならぬバーナンキだ。したがって管理通貨制度のもとで中央銀行が金保有量の制約なしに通貨供給を拡大できる現在では、名目GDPが半減するような「大恐慌の再来」はありえない。

  3. 大量失業の原因は「需要不足」ではない:ケインズの「有効需要の不足が非自発的失業の原因だ」という説明は、今日ほぼ否定されている。アメリカの急激な経済収縮が1933年に終息したあとも、20%近い高い失業率が続いた最大の原因は、Kehoe-Prescottなどの世界規模の実証研究によれば、ワグナー法による労組の結成で製造業の実質賃金が上昇した(名目賃金が下がらなかった)ことだ。

  4. 日本の長期衰退の原因も需要不足ではないHayashi-Prescottが指摘したように、日本の90年代以降の長期低迷の原因は、短期の需要不足ではありえない。ケインズ的な理解でも、投資水準の変わる長期では、需要不足は価格によって調整されるはずだ。10年以上も名目ゼロ成長が続く原因は短期的な景気循環ではなく、生産性(TFP)の低下という長期の要因である。

  5. 財政政策で問題は解決しない:アメリカで財政出動が行われているのは応急処置で、問題の解決にはならない。それを見て日本でも「もっと財政刺激を増やせ」という声が強いが、財政政策は日本経済にとって有害無益だったというのが多くの実証研究の結論だ。「全治3年」というなら、その3年間にどういう病気をどうやって治すのか明示しないかぎり、財政政策は一時しのぎにしかならない。

  6. 伝統的な金融政策はきかない:大恐慌と現在が似ているのは、30年代には商業銀行で取り付けが起こったのに対して、今回は影の銀行システムで取り付けが起こり、金融システムが崩壊したことだ。したがって欧米の最優先の問題は、金融システムの再建であり、利下げや流動性の供給などの金融政策はその補助でしかない。日本でもゼロ金利に近い状態になった段階で伝統的な金融政策は終わりで、それ以上の緩和は意図せざるバブルをもたらすリスクがある。

  7. 日本の不況は「輸出バブルの崩壊」だ:これに対して、邦銀はハイリスクの金融商品にあまり投資しなかったので、欧米のような金融危機は起こっていない。主要な問題は、トヨタの赤字転落に象徴される、輸出産業だけで日本経済を支えてきた「片肺飛行」の終わりであり、これは国内の非製造業の生産性が上がらないかぎり、長期化するおそれが強い。

  8. 輸出不況には二重の原因がある:輸出が激減して貿易赤字になった最大の原因は、2000年代の金融政策による円安バブルの崩壊だが、もうひとつの原因はアメリカのGDPの6%にのぼる経常赤字の水準訂正だ。この背景には、医療費と住宅費が支出の半分を占めるアメリカの過剰消費構造があり、是正には長期間を要するだろう。

  9. 過剰貯蓄が世界経済を不安定にする:アメリカの経常赤字が縮小することは世界経済にとっては望ましいが、世界のGDPの2%にのぼる日本や新興国などの過剰貯蓄が行き場を失い、新たなバブルを引き起こすリスクも大きい。特に日本は、国内で投資機会を増やさないかぎり、長期衰退は避けられない。

  10. 非伝統的な金融政策の効果は疑問だ自然利子率が負になった段階で、金融政策の効果はなくなる。FRBがリスク資産の購入などの非伝統的な金融政策に踏み込んだのは「背に腹は代えられない」ためで、成算があってのことではないだろう。このような政策は2000年代の初めに日銀が一通り実行したが、白川総裁の総括によれば、その金融政策としての効果は限定的で、主要な効果は銀行の不良債権処理を促進したことだった。

  11. 人為的インフレ政策はきかない:デフレの状態で中央銀行がインフレ目標を掲げて「インフレにするぞ」と宣言し、通貨を無限に供給すればデフレを脱却できるというクルーグマンの提案は、日銀が「時間軸政策」として実施したが、大した効果がなかった。クルーグマンも明示的に撤回し、バーナンキも実施しない。かつて人為的インフレを「世界標準だ」と称して日銀を罵倒した岩田規久男氏の一派は、過去の言説に責任をとれ。

  12. 雇用規制の強化は「官製失業」を生み出す:30年代の経験でも明らかなように、デフレ期に雇用規制を強化することは平均賃金を引き上げ、失業率を増やす。財界に賃上げを要請する経産省の雇用カルテルは、失業者の犠牲によって労組の既得権を守る不況促進策だ。

  13. ドル基軸の世界経済構造は変わらない:今回の危機を「ドル覇権の終焉」などと結びつける議論があるが、現実には欧州通貨の減価のほうが激しく、ドルが基軸通貨の地位を明け渡すことは考えられない。「アメリカ資本主義の終焉」などという粗雑な議論をする前に、今回の危機の生じたメカニズムを具体的に分析する必要がある。
ここに書いたことは、現在の学界のほぼ標準的な考え方で、たとえばMankiw's blogに書かれていることとほぼ同じだ。30年代と現在は違い、日米の危機も質が違うので、学説史的な議論は現状を理解する役には立たない。したがって今後とるべき政策についても、前例はないので、政策担当者や経済学者が試行錯誤しながら考えるしかないだろう。そのために必要なのは、頭にしみこんでいるケインズの亡霊を払拭することである。参考文献もリストアップした。

今年のベスト10(アクセス)

当ブログの記事で今年読まれたものを「はてなブックマーク」で集計してみると、ベスト10は次のようになる。これはアクセスの多い順ではないが、注目度の順とはいえるだろう。
  1. 大麻で逮捕するならタバコを禁止せよ:11/16
  2. 古舘伊知郎氏が「格差社会」を語る気味悪さ:11/17
  3. B-CAS社の罪は「退場」では消えない:8/7
  4. 医師会には社会的常識が欠落している人が多い:11/20
  5. 太田誠一氏の「政治団体事務所」は隣の家だった:8/26
  6. iPhone 3Gはジョブズの敗北宣言:6/11
  7. 地デジの非常識:7/25
  8. 404 Blog Not Foundを読むのをやめた:2/11
  9. 10年は泥のように働け:5/29
  10. 温暖化懐疑論のまとめ:7/5
10行足らずの1が歴代のベスト1になったのは驚いたが、マスメディアが取り上げないからだろう。こういうタブーになっている話題は強く、3や7もおなじみの地デジの話だ。ASCII.jpに連載している「サイバーリバタリアン」でも、担当編集者によると「B-CASがらみは普段の数倍から10倍ぐらいアクセスがある」という。この理不尽なしくみを無理やり使わされている消費者の怒りを少しでも代弁できたとすれば、それだけでも当ブログの価値はある。

私にとっての今年最大の珍事件は5で、ヤフーニュースのヘッドラインになり、1日30万PVを超えた(アクセスはこれが最大)。まったくの偶然でこんなことが起こるのは、宝くじで2億円当たる確率より低い。私の運をこれで使い切ったとすれば、惜しいことをしたものだ。結果的には福田首相の退陣でうやむやになったが、閣僚でなければ政治資金の使い方がでたらめでもいいということにはならない。なぜ公認会計士の監査を義務づけるぐらいの改革ができないのだろうか。

今年の初めには月間100万PVだったアクセスも、今月はすでに200万PVを超えた。自分で読んでも、わかりにくくて大しておもしろくもないのに、なぜアクセスが増えるのか謎だ。たぶん日本語で読むに値するブログがきわめて少ないことによる稀少性と、マスメディアのバイアスを補正する機能を果たしているのだろう。大麻も地デジもそうだし、2や4や10もそうだろう。ビジターを「なかのひと」でドメイン別に集計すると、
  1. NTTグループ
  2. 富士通 
  3. ソニー
  4. 東芝
  5. 松下電器産業
  6. 日本電気
  7. 日本IBM
  8. 京都大学
  9. 東京大学
  10. 日本放送協会
母集団の圧倒的に多い1は当然として、ITゼネコンからのアクセスがあいかわらず多い(アクセス禁止になった日立は30しかない)。誤解のないようにいうと、ITゼネコンの業績はよくないが、社員の能力は高いので、当ブログを読んだ心ある社員が「10年は泥のように働け」などという愚かな経営者を見限って起業することを望みたい。ソニーや松下にとってもいい年ではなかったが、VCには金が余っているようなので、今がスタートアップのチャンスだ。グリーもIPOで1000億円集めたように、「不況のときは創造的破壊はできない」などというのは迷信だ。

当ブログは基本的に趣味でやっているので、記事を書く時間は1日1時間以内と決めているのだが、ここまでアクセスが増えると、メインテナンスが負担になってきた。gooブログの貧弱な機能ではこれ以上は無理なので、来年からライブドアの協力で、この個人ブログとは別に、複数アカウントで書くHuffington Postのようなオピニオンサイトをつくることになった。年明けからベータ版を公開する予定である。

トヨタの長すぎた栄光

今年の日本経済を振り返ると、最大のサプライズは年末に明らかになったトヨタの赤字だろう。かつてトヨタは、向かうところ敵なしだった。奥田碩氏が経団連の会長だった時代には、財界の政策立案を行う渉外部に70人ものスタッフを擁し、経済政策を動かした。電波政策にまで口を出し、通信業者が使うはすだった710~730MHzにITSが割り込んだ。

トヨタは「環境にやさしい」自動車を宣伝しているが、環境に一番やさしいのは不要な自家用車を減らすことだ。交通事故を減らすもっとも効果的な方法も、車を減らすことである。そんなことは自明だが、車に依存して道路を建設している政治家も、交通警察官の雇用を維持している警察もそれはいわない。奥田氏の「マスコミに報復してやろうか」という発言にも、メディアは沈黙した。トヨタが暗黙の「検閲」をやっていることは、業界ではよく知られているからだ。

トヨタが悪いのではない。トヨタ以外に日本経済を支える企業がない状況が、20年以上も続いているのが異常なのだ。1980年代に、アメリカの製造業はトヨタを先頭とする日本企業の攻勢にあって没落し、IT産業に経済のコアを転換することで90年代以降、復活を果たした。しかし日本経済は、トヨタが成功したがゆえに、その転換を果たすことができなかった。90年代の長期不況の原因は、80年代に上方に乖離していた成長率が(産業構造の転換に失敗して低下した)潜在成長率に回帰したとみるのが、多くの実証研究の結果だ。

そして2000年代の初頭に、また異常な金融緩和によって上方に乖離した輸出産業の業績が、円安バブルの崩壊で本来の水準に戻ると、唯一のエンジンを失った日本経済は失速した。日本の製造業の労働生産性はアメリカの1.5倍なのに、サービス業は0.5倍という生産性の不均衡が、日本の最大の病である。旧態依然の銀行を公的資金で延命し、それによってゾンビ企業を大量に温存した経済政策が、非製造業の生産性低下をもたらしたのだ。

トヨタの栄光は、長く続きすぎた。トヨタは、日本が第2次産業革命の後期に成功した時代の象徴だが、その時代は90年代に終わるべきだった。これから必要なのは、トヨタに依存するのではなく、トヨタに学ぶことだ。もっとも重要な教訓は、企業が成長する鍵は政府の産業政策でもマクロ政策でもなく、グローバルな競争だということである。第3次産業革命に立ち遅れた日本経済を建て直すためには、NTTやITゼネコンのような「恐竜」が情報通信産業の中核をになっている状況を変え、デジタル・ネイティブな企業の参入をうながす必要がある。

1980年代にそれを実現したのは、今たたかれている投資銀行だった。MCIはマイケル・ミルケンの支援で発行したジャンク債によってAT&Tの独占していた長距離通信市場に参入し、マッコー・セルラーはミルケンのジャンク債で携帯電話市場に参入した。こうした競争の激化がアメリカの、そして世界の通信市場を大きく変えたのだ。トヨタ的な系列資本主義は、系列内では人的・物的資源の配分を最適化できるが、産業間の生産性の不均衡を変えることはできない。だから創造的破壊を実現する上で政府ができることがあるとすれば、競争の促進と資本市場の改革だろう。むしろ今こそ、日本に本来の意味の投資銀行や投資ファンドを育てるときである。

[中級経済学事典] 新古典派総合

週刊ダイヤモンドの1月10日号(来週月曜発売)の特集は「デフレ再来」。また「まずデフレを止めよ」とかくだらない話かと思ったが、執筆陣からめでたくリフレ派は一掃され、「グローバルな構造的デフレ」の分析だ。さすがに経済誌は、朝日新聞より進歩しているようだ。

現状を構造的な潜在成長率の低下とみるか、一時的な需要不足による景気循環とみるかが、今後の経済政策を考える上で大きな分かれ目だ。政治家はつねに後者をとり、「景気対策」を発動したがるバイアスをもつが、これは自明ではない。両者を折衷して「デフレを止めてから構造改革をすればよい」という類の話は、大昔の新古典派総合の発想だ。

これはサミュエルソンの有名な教科書で初期に提唱されたもので、不完全雇用のときはケインズ経済学が、完全雇用のときは新古典派経済学が有効だという話である。しかし、なぜ不完全雇用では価格メカニズムが働かないのかという説明はない。最近の新ケインズ派総合の教科書では、このような非論理的な折衷ではなく、長期的な自然率の世界をベンチマークとし、現実の状態がそこから乖離しているかどうかをまず考える。

たとえば失業率が5%あったとしても、新古典派総合のようにただちに景気対策をやれということにはならない。もし自然失業率が5%であれば、現状は定常状態に近いので、総需要を追加しても改善しない。自然失業率を下げるためには、サマーズもいうように労働組合の既得権を削減し、労働市場の流動性を高めることが重要だ。

同様に、長期金利が1%に低下したとしても、それが自然利子率に見合う水準であれば、無理に下げる必要はない。非伝統的な金融政策で過剰な通貨供給を行なって金利が自然率の下方に乖離すると、バブルが起こるだけで企業活動は改善しない。こういう場合に必要なのは、自然利子率を引き上げる構造改革だ。Hayashi-Prescottが指摘したように、日本の長期不況の最大の原因が投資機会の喪失による自然利子率の低下だというのは、多くの経済学者のコンセンサスである。

デフレのもう一つの要因は、新興国の登場や情報技術革新による相対価格の低下である。こうした議論を「物価水準と相対価格を混同するもの」としてしりぞけるのも、古い「1財モデル」のケインズ派だ。最近のマクロ理論では、原理的に相対価格と物価水準の差異はない。物価水準Pは、i財の相対価格Piを集計したΣPiの略称にすぎない。このような相対価格の変動も、構造的な要因である。

だから現状が自然率に比べて上か下かを判別することが政策立案の第一歩である。ただ自然率は安定していないので、計量データで同定することはむずかしい。考えられる一つの基準は、マクロ政策への感応性である。財政・金融政策を最大限に発動しても経済に大きな影響がないときは、すでに自然率に近い水準にあると考えられる。

「100兆円の財政政策できかなかったら200兆円やればいい」とか「政策金利0.1%ではきかないがゼロにすればきく」などというのは、自然率の概念を理解しない「どマクロ経済学」の発想だ。最近のマイナス成長も、急激だからといって短期的な乖離とは限らない。これは輸出産業の最大の市場だったアメリカの過剰消費の修正という長期的要因が大きいので、日本の景気対策で是正することは不可能だ。

週刊ダイヤモンドでも多くのエコノミストが指摘するように、アメリカ経済の縮小と新興国の台頭という長期的トレンドは不可避であり、こうした問題についてマクロ政策は何の役にも立たない。景気対策という誤ったアジェンダばかり論じられることによって、グローバルな長期の問題への対応が無視される弊害はきわめて大きい。

所有という幻想

松本零士氏がセリフの「盗用」をめぐる裁判で敗訴した。彼がpro-copyright派の愚劣さを世の中に示した功績は大きいが、この事件もいろいろなことを考えさせる。

松本氏の脳内では、すべての情報は作者が所有しているのだろうが、これは著作権という誤った制度が生み出した幻想だ。情報の複製が「盗用」なら、彼の「銀河鉄道999」は宮沢賢治の盗用だ。そもそもヴィトゲンシュタインが指摘したように、自然言語の文法も語彙も社会的に共有されているのだから、私的言語はありえない。複製や共有を盗用というなら、すべての表現は盗用なのだ。

トヨタの没落も単なる販売戦略の誤りではなく、「自家用車」という幻想の終わりの始まりではないか。私は免許をもっていないが、今まで不自由したことはほとんどない(例外はシリコンバレーでタクシーがなかったとき)。少なくとも日本の都市では、タクシーですべて用は足りる。わざわざ自家用車を所有して、週末にドライブするぐらいしか使わないのは社会的な浪費だ。

同じように浪費されているのはコンピュータだ。PCは1日のうち平均1時間も稼動していないだろう。これをつないで使う「クラウド」は、従来のハードウェアを所有するという考え方を変えて、必要なときだけ借りて使うものだ。これは実は、新古典派経済学の企業理論と同じである。資本財に完備市場があれば、設備を企業が所有する意味はなく、必要なときだけ借りて使えばよい。そんなことは普通の資本財では不可能だが、インターネットはそういう世界を実現しつつある。

契約理論が教えるように、所有権は将来どのように資源を使うか予想できないとき、その残余コントロール権を特定の人が独占することによって権利の配分を効率化する次善のしくみだ。しかし情報のように共有可能な公共財では、このような所有権は意味がない。物的な資源も、クラウドのように事前に予約せずに自由に使うことができれば所有権で囲い込む必要はない。

半導体が絶対的に供給過剰になれば、価格メカニズムで計算資源を節約する意味はなく、むしろそこにアクセスする人の関心が稀少になるので、その個人情報を売買するビジネスのほうが有望だ。グーグルのAdSenseは、間接的に個人情報をmonetizeするしくみだが、プライバシーについての無意味な規制が撤廃されれば、もっと直接に個人情報を売ることもできよう。

今後100年を考えると、おそらく近代社会の基本的な枠組である所有権の意味が薄れ、情報資源は必要なときだけレンタルするしくみに変わっていくのではないか。このとき問題なのは、物と所有者が1対1に対応しなくなり、価格形成がむずかしくなることだが、それは資源や情報を共有する最善のシステムを実現することに比べれば大した問題ではない。価格メカニズムは、所有権という非効率な権利を効率的に配分するしくみにすぎないからだ。

だから今は、所有権=価格メカニズムという300年ぐらい続いたシステムから、次のシステムへの過渡期だろう。次にくるのがどんなシステムなのかまだよくわからないが、その移行を実験しているのが(彼らが自覚しているかどうかは別として)グーグルだと思う。彼らが電波の「コモンズ」に強い関心を示しているのは、たぶん偶然ではない。

バブルはまた必ずやってくる

今のようなとき、政治家も財界もかさにかかって「果敢な金融緩和をしろ」と中央銀行に求めるインフレバイアスはどこの国にもみられるが、異常な金融政策は異常な結果をもたらす。中央銀行の独立性が定められているのは、こうした政治的圧力から守るためだ。

日本の1980年代のバブルも、1985年のプラザ合意以降の円高不況に異常な金融緩和でのぞんだことが原因だった。日銀が1989年に利上げしたとき、橋本蔵相は「利上げを撤回させる」と恫喝した。このためバブル崩壊後も、日銀はすぐ利下げしなかった。ふたたび上げるとき、政治家との争いになることを恐れたからだ。これが誤りだったことは今からみれば明らかだが、その原因をつくったのは政治家のインフレバイアスなのだ。

1997年のアジア経済危機と翌年のLTCM破綻のあと、FRBは大量の流動性を供給し、それを1年以上続けたことがITバブルに火をつけたといわれている。そしてITバブルが崩壊したあと、FRBが2005年まで金融緩和を続けたことが今回の住宅バブルの原因になったことをグリーンスパンも認めた。また2000年代に行われた日銀のゼロ金利・量的緩和と財務省の大規模なドル買い介入が、円キャリー取引を呼んでアメリカにバブルを輸出した。

金融政策はコストが低いので、「今のような不況期にいくら緩和しても大丈夫だ」と思いがちだ。たしかにアメリカの例でいえば、FRBがいくら利下げをしても、ドットコム・ブームは再来しなかった。しかし住宅という別の市場でバブルが起こっていたのだ。今のアメリカでは金融システムの崩壊によって流動性危機が生じているので、FRBの非伝統的政策も意味があるが、日本の不況は実体経済の「トヨタ危機」なので、これ以上流動性を供給しても改善しない。政治家が日銀を恫喝するのはよくあることだが、経済学者までそれに加わって騒ぐのは見るに耐えない。

このようにバブル崩壊後の金融緩和が次のバブルを呼ぶ事件は、最近20年の間に日米だけで4度も起こっている。だからバブルは、また必ずやってくる。どういう形で起こるかは事前には予想できないが、確かなのは、必要以上に大量の通貨を供給し続けると、必ずどこかにはけ口ができて(物価もしくは資産の)インフレが起こるということだ。それは多くの場合、ターゲットにしている市場でデフレが是正されるのではなく、別の市場や別の国で起こる。中央銀行にも、フリーランチはないのである。

昭和恐慌は再来しない

朝日新聞に、「昭和恐慌に学べ」というあきれた記事が出ている。
学習院大学の岩田規久男教授は「昭和恐慌のようにデフレに陥ると、相当果敢な政策を採らないと立ち直れない」と政府・日銀の積極対応を促す。ただ、当時と違い現在は国債発行残高が積み上がり、政策の自由度を奪っている。
この神谷毅という記者は、今のほうが「政策の自由度」が低いぶん昭和恐慌より悪いといいたいようだが、この記事は他方で「金本位制が大恐慌の原因だった」とも書いている。彼は、今の日本が金本位制だと思っているのか。EichengreenBernankeが明らかにしたように、金本位制による信用収縮の連鎖が大恐慌の大きな要因であり、日本の昭和恐慌の引き金も1930年に行われた金解禁だった。だから、こういう「大恐慌の再来」論は、ほとんどの専門家が否定している。大恐慌の教訓に学んで、いま世界の中央銀行は流動性を最大限に供給しているからだ。

岩田氏のいう「昭和恐慌のようなデフレ」とは何のことか。この記事にも出ているように、昭和恐慌ではGDPは18.3%も下がったが、今はマイナス1.7%だ。両方をデフレという言葉で一括するのはナンセンスである。小泉内閣の構造改革を「浜口内閣と同じ清算主義だ」などと攻撃した岩田グループの主張は、学界でも批判を受けた。フーバー政権のメロン財務長官のいった「銀行がつぶれるにまかせる」という意味での清算主義を実行している国は、現代には存在しない。

救いがたいのは、経済部の記者がこんな支離滅裂な記事を書き、それをデスクが誰もチェックできないことだ。しかもこういう無学な記者に限ってリフレ派だけに取材して、ケインズ経済学が最新理論だと思い込んでいる。朝日新聞は、経済部の記者には経済理論研修を義務づけるべきだ。

FCCを廃止せよ

レッシグがNewsweekに寄稿し、インカンバントの政治的影響力によって電波政策をゆがめているFCCを廃止せよと論じている。おもしろいのは、彼の主張が保守派のロビイストPeter Huberと同じであることだ。ただヒューバーがコモンローにゆだねよと論じているのに対して、レッシグはInnovation Environment Protection Agencyという機関を設置せよと主張している。初代の長官には、Werbachが適任だろう。

他方、日本はOECD諸国で唯一、通信放送規制の独立行政委員会がない国になってしまった。そして日本が主要国でほとんど唯一、周波数オークションを実施していないことも偶然ではない。総務省の官僚はオークションに前向きだが、それを妨害しているのは放送局と系列の新聞社である。彼らは自分たちの電波利権がオークションで奪われるという理由のない恐怖を抱いているのだ。そんなことしない(海外でも前例がない)から、新聞もテレビもせめてオークションのニュースぐらい報道してよ。

リスクヘッジからリスクテイクへ

先日、日本の大手ベンチャーキャピタルから私の携帯電話に連絡があり、「話を聞きたい」という。最初は何のことかわからなかったのだが、「コンサルティングをやっていると聞いたが、事業を起すなら支援する」という。ありがたいオファーだが、私のコンサルティングは個人事業者としてやっているので、今のところ(残念ながら)VCの資金が必要なほどの規模ではない、と丁重にお断りした。

しかし考えてみると、これは恐るべきことだ。アメリカではVCに資金量の何倍ものベンチャーが申し込み、それを審査して投資するのが当たり前だ。ところが日本では逆に、私のような個人にVCのほうから連絡してくる。日本では、それほど投資機会が枯渇しているのだろうか。前にも紹介した磯崎さんの記事によると、日本のVCの資金量は1兆円と、個人金融資産のわずか1/1500だという。

日本経済の最大の病は、需要不足でもクレジットクランチでもなく、この投資機会の不足である。このため慢性的に資金が供給過剰になって自然利子率が負になり、デフレになる。自然率は(定義によって)マクロ政策で変えることはできない。それを高めるには、ケインズのいうanimal spiritsを高めてリスクテイクを増やす環境をつくるしかない。

リスクテイクというのは、単に冒険することではない。たとえばオプションを買う投資家はリスクをヘッジするが、そのためにはオプションを売る企業がいなければならない。この場合、売り手はオプション(一般的には条件つき請求権)を売ってリスクを買う。つまりリスクより高い価格で証券を売ってもうけるのがリスクテイクである。資金的にはゼロサム・ゲームにすぎない金融市場によって利益が生み出されるのは、こうしたリスクの効率的配分によって異時点間の資源配分が効率化されるからだ。

今年の経済財政白書のテーマも、リスクテイクだ。図のように、起業家が多い国ほど成長率も高い(もちろんアイスランドのようにリスクも高いが)。ところが日本は、リスクヘッジする預金者ばかりで、リスクテイクする起業家がいないため、リスクの価格である金利がゼロに張り付く。

したがって日本経済にとって重要なのは、リスクテイカーを増やしてリスクの配分を効率化することだが、これは容易ではない。今回の金融危機の原因は、投資銀行が過剰にリスクを取った(というかtail riskを無視した)ことだが、リスクの取り過ぎを改めるのは、元気のよすぎる子供をおとなしくさせるようなもので、それほどむずかしくない。「引きこもり」の子供を元気にするほうが、はるかにむずかしい。

トヨタに代表される日本の多重下請け構造は、リスクを系列全体でプールし、不景気になったら下請けや臨時工を切ることによって本体が生き延びるシステムである。ここでは下請けがバッファの機能を果たして、リスクテイクしている。世の中では、不況になると「中小企業がかわいそうだ」というが、好況のとき彼らの収益率が親会社よりはるかに高いことは誰もいわない。

ただ、あまり無慈悲に下請けを切ると好況になっても戻ってこないので、系列という長期的関係の中で親会社も一定のリスクを負担する均衡が成立している(Kawasaki-McMillan)。しかしこうした長期的関係は、それを裏切ることによる短期的な利益が大きくなると、維持できない。今回の危機は、系列構造の崩壊をもたらす可能性が強い。

したがって好むと好まざるとにかかわらず、日本の企業間関係はドライな戦略的関係にならざるをえないだろう。グローバル市場のリスクは系列でシェアするには大きすぎるので、水平分業でリスクを売り切るほうが賢明だ。この場合、リスクを買う部門がハイリターンの成長産業なので、こうしたエンジンをもっている国が成長する。

日本人にはそういう産業は向いていないので、図のようにローリスク・ローリターンに特化するというのも一つの選択だが、全体のパイが大きくならないと再分配や「格差」をめぐる紛争が多発して、かえって不安な社会になるだろう。リスクテイクのしくみを作らないかぎり、縮小均衡と財政破綻はまぬがれない。




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