2008年11月

[中級経済学事典] 複数均衡

一時、IT業界で収穫逓増というbuzzwordが流行したが、最近は忘れられたようだ。しかし、この概念は現在の状況を考える上で役に立つ。かつて収穫逓増として騒がれたのは、経済学で正確にいうとネットワーク外部性である。これは古典的な意味での収穫逓増(規模の経済)とは違い、ある人の行動による利益が他人の行動に依存するという補完性である。数学的に表現すると、プレイヤーA、Bの行動a、bによる利得関数f(a,b)を2階微分可能とすると、

2f/∂a∂b≧0

これはsupermodular gameとよばれ、利得が最大と最小の二つのナッシュ均衡をもつ複数均衡になる。これを最適反応曲線で描くとコーディネーションの失敗の図になるが、利得関数で描くと次のような図になる。今アメリカ経済が落ち込んでいるのは局所最適だが、全員が協力すれば全体最適が達成可能だとしても、人々の行動の初期値がXより下であるかぎり、非協力(取り付け)がナッシュ均衡になる。他人の行動を所与とするかぎり、自分だけがそこから離れることは合理的ではないからだ。

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ケインズ的な失業も、こういう非凸の最適化問題として理解できるが、これは限界原理のような漸近的な最適化手法では解けない(Cooper-John)。これはITでもおなじみの、他人がみんなウィンドウズを使っているときは、たとえマッキントッシュのほうが性能がよくても自分だけマックに変えると損をする、というネットワーク外部性と同じである。

この場合に考えられる政策は、政府がまず協力的な行動をとり、世の中が協力するという期待を作り出すことだ。このためには、政府が一時的には(たとえば巨額の不良債権を買い取るなど)大きな損失を覚悟して高い山に上り、そこから絶対に降りないというコミットメントを示す必要がある。これがアメリカで多くの経済学者が「大胆な」とか「非正統的な」といった表現を使う理由だ。普通の(合理的な)行動ではだめで、一時的には不合理なコミットメントが必要なのだ(ただし山の頂上まで行く必要はなく、期待値がXを上回ればよい)。

しかし、これは必要条件にすぎない。絶対多数の投資家が政府を信頼するためには、全体最適となるナッシュ均衡が存在するという共有知識が必要だ。そのためには金融システムが正常化し、人々が合理的に行動すれば全体最適に収束することが条件だ。いいかえると、
  • 人々の行動の期待値がXより上になり
  • 協力がナッシュ均衡だという期待が共有される
という二つの条件が必要である。このうち本質的なのは後者で、たとえ政府が債券や株式やケチャップを買いまくっても、財政赤字でいつまでもそんな政策が続けられないと市場が思えば、全体最適はナッシュ均衡にならないので、自律的に維持できない。逆に後者が成り立てば、世界的には資金過剰なので、市場を出し抜いて自分だけ高い山に登ろうという長期投資家(SWFなど)が出てくるだろう。つまり重要なのは、不良債権を清算して「値洗い」し、これ以上悪い均衡にとどまっていても損するという状況を作り出すことである。

これは日本でも同じで、政府が信用されない状態でいくらバラマキをやっても、市場はすぐ悪い均衡に戻ってしまう。そのバラマキの方法も二転三転するようでは、よい均衡の存在もあやしくなり、「景気対策」としても意味をなさない。遠回りのようでも、企業収益を高めて市場の信認を回復することが最善の政策である。

グローバルな逆淘汰

スペンスの金融危機についてのエッセイが、PIMCOのサイトに出ている。彼の処方箋は、第一に金融システムのtight couplingを是正し、決済機能と仲介機能を区別して規制すること、第二に危機管理をルール化し、tail riskが生じた場合に自動的に発動できるようにすることだ。

これはもっともだが、規制強化だけで問題が解決するとは思えない。全世界の金融機関を厳重に監視することはできないし、やりすぎると彼らはオフショアに逃れるだろう。へたをすると、SOX法のように有害無益な過剰規制になる。むしろスペンスが重要な業績を上げた情報の非対称性の問題として、原理的に考え直したほうがいいだろう。

伝統的な金融理論では、商業銀行に代表される「間接金融」は投資家が情報劣位にある場合の古いシステムで、企業の財務情報が開示されれば投資家がリスクもリターンもとる「直接金融」のほうが効率的だということになっている。しかし今回の騒動でわかったのは、こういう区別は意味がないということだ。証券のリスクは開示されているが、大部分の投資家は何百ページもある目論見書を読まない。彼らは「ゴールドマンの組んだファンドなら大丈夫だろう」といったアバウトな判断で丸投げしているから、その信頼が裏切られると一種の取り付けが起こるのだ。

つまりこれは本質的には新しい現象ではなく、Akerlofの有名な論文に出ている「レモン」の問題が、数兆ドル規模でグローバルに出現したものと考えることができる。こういう逆淘汰の対策はよくわかっていて、基本的な考え方は、まともな業者とレモンが別の行動をとるself-selectionのメカニズムを設計することだ。その一例が、スペンスの提案したシグナリングである。

銀行は、本来は自分でリスクをとることによって「この融資先は大丈夫だ」というシグナリングを行なうしくみだ。格付け会社が役に立たないのは、彼らが自分でリスクを負わないため、評価対象の企業を過大評価して手数料をかせぐモラル・ハザードが発生するからだ。同じ問題は債券を起債するオリジネイターにもあり、貸付債権を売却したら自分はリスクを負わないので、リスクを過小申告するインセンティブをもつ。このようにインセンティブが歪んでいるかぎり、格付け会社を規制してもエージェンシー問題は解決しない。

これを解決する原則は、ウォーレン・バフェットのいう"skin in the game"、「身銭を切らないやつの話は信じるな」である。逆淘汰を解決する(本当のことをいわせる)には、エージェントにリスクを負わせることだ。たとえば格付け会社には債券を評価に比例して保有するよう義務づけるとか、オリジネイターには一定の劣後的な債権を保有するよう義務づける(かつてはそういう慣行があったらしい)などのルールが考えられる。日本のメインバンク・システムは、破綻した場合はメインバンクが劣後するという暗黙のルールによってシグナリングを行なってきた。

本源的な財務情報をすべての投資家に完全に開示させることは、可能でもないし必要でもない(ほとんどの投資家は開示されてもわからない)。重要なのは、「この会社は危ない」というシグナルを出さないと仲介業者自身がつぶれるしくみをつくることである。

FRBはケチャップを買うか

Economist誌が、FRBに非正統的な金融政策を推奨している。これは日本が経済政策で世界に誇れる、数少ない分野だ。なにしろ10年近く、論争が続いているからだ(最近は「リフレ派」は姿を消したが)。本書は「失われた15年」との関係でこうした政策を整理しているが、今回の金融危機についての分析を加えて英訳すれば、各国の政策担当者に重宝されるだろう。植田和男氏によれば、非正統的な金融政策には次の3種類がある:
  1. インフレ目標(人為的インフレ)
  2. リスク資産の大量購入
  3. 量的緩和
このうち日銀が行なったのは主として3だったが、あまり効果がなかった。日本の論争で最大の焦点だった1は、「時間軸政策」として一定の効果があったが、大したことはなかった。これはクルーグマンも撤回し、今回はまったく議論になっていない。本書も批判するように「日銀が無責任になることを約束する」という彼の政策提言は、論理的に成り立たないからだ。実際に激しいインフレが起こったら、日銀がそれを放置するはずがないので、クルーグマン的インフレ目標はsubgame perfectな戦略ではなく、市場に信用されない。それは彼も、最近のコラムで認めている:
I and others tried to make for Japan in the 90s and are trying to make again now: creating inflation is easy if you’re an irresponsible country. It may not be easy at all if you aren’t. [...] No matter how much Japan increases the monetary base now, expectations of future money supplies won’t move if people believe that the Bank of Japan will move to stabilize the price level as soon as the economy recovers.
かつてインフレ目標を日銀に強く求めたバーナンキも、今回はまったくそれを口に出さない。その代わりFRBは急速な量的緩和を行ない、GSEの保有するMBSを5000億ドルまで買うことを約束した。これは史上初めてFRBが消費者に対する直接の貸し手になる政策であり、上の2に相当する。Economist誌はこの政策を高く評価しているが、日本の経験からいうと、その効果は限定的だ。日銀は2003年にMBSなどのリスク資産購入に踏み切ったが、ほとんど効果がなかった。今回はGSEの破綻を避ける意味がメインだろう。

こうした政策が効果を発揮するには、中央銀行や財政当局が大規模に介入してGSEを乗っ取り、債券市場を買い占めるぐらいやる必要があるが、そういう異常な政策は意図せざる結果をもたらすリスクが大きい。Economist誌も懸念するように、アメリカのように財政赤字の大きい国でそれをさらにふくらませると、海外からの投資が引き上げられてドルが暴落するおそれが強い。

ただ、かつてバーナンキ自身が日銀に「ケチャップでも何でもいいから無限に買え」と提言したので、こういう政策をとる可能性はある。上の3つの政策のうち、2だけが日銀があまり大規模にやらなかった政策なので、理論的には成功する可能性はある。FRBがケチャップを買うのは見たくないが・・・

クロード・レヴィ=ストロース

3bed3aab.jpgレヴィ=ストロースが、今日で100歳を迎えた。20世紀を代表する知性が1世紀を生き、しかも今でも執筆活動を続けている(今年も新刊が出た)のは驚異的だ。彼のライフワークは『神話論理』だが、質量ともに一般の読者むけの書物ではないので、代表作といえば本書だろう。私も本書に影響を受け、東大の文化人類学の大学院の試験を受けたことがある(論文試験まで通ったが、口頭試問で中根千枝と喧嘩して落ちた)。

1962年に発表されたころ、本書の最終章でサルトルを批判した部分が「構造主義」の宣言として注目されたが、そういう「主義」の本だと思って読むと戸惑うだろう。主要部分は彼のフィールドワークや神話研究などの紹介で、多くの具体例によってデカルト的理性が西洋人の独占物ではなく、「未開人」にも共有されていることを実証しようとする「具体的なものの科学」だ。むしろ「歴史と弁証法」を論じる最終章が唐突な印象を与える。

世の中的には「ポスト構造主義も終わった」などといわれているので、今さら構造主義でもあるまいと思う人も多いだろうが、本書はそういう分類に収まる本ではない。著者の主なメッセージは、野生の思考を通じて人類の共有する普遍的な論理を明らかにし、西欧近代の自民族中心主義を批判することである。ただ人類学界では、彼の親族構造の研究についての評価は高いが、南米の原住民の神話に数学的構造を見出す分析は、反証可能性のない物語にすぎないという批判が多い。しかし著者は『神話論理』第1巻の「序曲」で、さりげなく予防線を張っている:
人類学の究極の目的が、思考を対象化し、思考と思考の仕組のよりよい理解に貢献することであるならば、本書において南アメリカの先住民の思考法の輪郭が私の思考の操作のもとで見えてくるのと、私の思考法の輪郭が南アメリカの先住民の思考操作のもとで見えてくるのは、結局は同じことである。(訳書p.22)
デリダのように、著者の立場そのものが西洋的なロゴス中心主義のもっとも洗練された形態だと批判することも可能だ。しかし20世紀の思想の決定的な分水嶺は、ソシュールから著者に至る言語論的転回にあり、それは後戻り不可能な影響を(経済学を除く)すべての社会科学に与えた。『神話論理』にも道化や王殺しなどの主題は出てくるが、著者はそれを静的な構造に回収してしまう。それは彼がこうしたカオスを認めないからではない。逆に構造が、壊れやすい一時的なものであることを知っているからだ。『神話論理』最終巻の「フィナーレ」(未訳)は、パスカルを思わせる美しい文章でこう結ばれる:
神話の根底にある基本的な二項対立は、ハムレットによって正確に述べられたものだが、彼はそれを楽観的すぎる形で表現した。人は存在するか否かを選ぶことはできないのだ。歴史の本質である精神的な努力によって、人は自明の矛盾した真理を認識し、その根源的な矛盾を解決しようとして限りなく二項対立を作り出してきたが、その矛盾は決して解決できない。

矛盾の一方には、存在という事実がある。日常生活や精神的・感情的な生活、政治的な選択や社会的・自然的な世界、実用的な努力や科学的探究に理由や意味を与えられるのが人だけであることを、彼は深いレベルで知っている。他方には無という事実があり、それは存在の認識と不可分である。人は未来もずっとここにいることはできず、この惑星の表面から消えることは避けられないが、その惑星も死ぬ運命にある。人の労働や悲しみや喜びや希望など、はかない現象の記憶を保持する意識も生き残りえず、やがて人類のわずかな証拠も地球の表面から消されるだろう――まるでそれは最初から存在しなかったかのように。

追記:2009年11月3日、レヴィ=ストロースは死去した。その業績は、疑いもなく20世紀最高の知的遺産として歴史に残るだろう。

シュンペーターの逆説

今週のASCII.jpにも書いたが、朝日新聞が初の赤字に転落したのは、業界にはけっこう衝撃的なニュースだったようだ。これは欧米ではすでに起こっていることで、遅かれ早かれ避けられない。日本では再販制度で守られてきたぶん、独占利潤の崩壊が遅れただけだ。

では新聞サイトで購読料モデルが成り立つかというと、Economistのような高級紙(誌)かポルノサイト以外は無理だろう。広告モデルも、Facebookでさえ赤字だ。"Groundswell"にも書かれているように、Web2.0は既存企業を補完するビジネスで、それ自体で黒字になることはむずかしい。今どき『情報革命バブルの崩壊』とかいう恥ずかしいタイトルの本を出す評論家もいるが、そんなことはとっくにわかっている。問題は、そこから先の「情報が無料に近づいてゆくウェブで、ビジネスは成り立つのか」ということだ。

実は、これは資本主義はじまって以来の難問である。資本が蓄積されるにつれて収穫は逓減するので、利潤率は傾向的に低下するとマルクスは予言した。完全競争市場では正の利潤が上がっているかぎり新規参入が続き、均衡状態で利潤はゼロになるので、一定の独占を維持しないと利潤は枯渇し、イノベーションが止まって資本主義は崩壊する、とシュンペーターは予言した。

これは理論的には正しいが、実証研究の結果はその逆を示している。競争的な市場ほど、イノベーションは活発になるのだ。映画会社の著作権ががっちり守られているハリウッドでは半世紀以上ほとんど新規参入がないが、特許も著作権もない金融商品やウェブでは急速なイノベーションが起こった。これは経済学でシュンペーターの逆説としてよく知られている。

この問題はいまだに解決していないが、今のところもっとも正解に近いのは、Knightの答だろう。彼はリスクテイキングの報酬が集計的には負であることを認めた上で、企業活動をギャンブルにたとえた。重要なのは社会全体の客観的リターンではなく、個々の企業家が主観的にどう考えるかだ。人々が客観的な統計だけをもとに行動するなら、ラスベガスのカジノは成り立たない。それが繁栄しているのは、人々が「自分だけはもうかる」と錯覚するからだ。

社会全体では、おそらくrisk loverよりrisk averterのほうが多いだろうが、そういう人はサラリーマンになるので関係ない。企業活動を行なう人は必ずリスク愛好的なバイアスをもっているので、こうしたギャンブラーがいかに金を使うかで投資水準は決まる。事後的には集計的な利潤はマイナスであっても、事前にはだれも結果はわからないので、ギャンブルに勝ったときの期待収益が高い市場ほどイノベーションは大きくなる。そして100社のうち1社グーグルが出てくれば、あとの99社は(社会にとっては)つぶれてもかまわないのだ。

だから著作権という名の独占レントがないとコンテンツ産業が成り立たないという利権団体の主張は、ナンセンスである。イノベーションにとって重要なのは、事後的な報酬の確実性ではなく、事前の自由度の大きさだから、情報の2次利用をさまたげる「知的財産権」の過剰保護は経済全体にマイナスだ。広告や購読料以外に、LinkedInのような新しい発想もある。いま必要なのは既存のコンテンツを守ることではなく、情報の共有を前提にしてビジネスを成立させる新しいビジネスモデルの実験である。

ICPFシンポジウム「周波数オークションの制度設計」

今年は、世界的に電波の開放をめぐる大きな動きがありました。FCCは11月4日、テレビのデジタル化にともなって空く「ホワイトスペース」を免許不要帯として開放することを決定しました。今年3月には、FCCは700MHz帯のオークションを実施して、191億ドルの国庫収入を上げました。

日本でも、2011年の地上デジタル移行にともなって、約300MHzの周波数が空きます。これをオークションで売却すべきだという議論が、政界・官界で盛り上がりを見せています。周波数オークションは、経済を活性化して国庫収入も上がる一石二鳥の政策です。経済危機の今こそ、目先のバラマキではなく、電波の開放によって新しい産業を創造する必要があるのではないでしょうか。

ただし周波数オークションには、2000年の欧州など失敗例もあります。兆単位の資金が動くので、制度設計には慎重な配慮が必要です。情報通信政策フォーラム(ICPF)では、こうした観点から周波数オークションの問題点を検討し、その制度設計を考えるシンポジウムを開催します。

日時:12月17日(水曜日) 15:00~17:15
場所:東洋大学白山校舎3号館3階3301教室(地図

プログラム
14:40 受付開始
15:00 主催者挨拶:山田 肇(ICPF副理事長、東洋大学教授)
15:05 基調講演:高橋洋一(東洋大学教授) 「霞ヶ関埋蔵金と周波数オークション」
15:35 講演:池田信夫(上武大学教授) 「オープン周波数オークションの提案」(ドラフト
16:15 コメント:鈴木寛(参議院議員)ほか
16:30 全体討論
17:15 散会

参加費:2000円  ※ICPF会員は無料(会場で入会できます)
申し込み:infor@icpf.jpまで、氏名・所属を明記してe-mailをお送り下さい。

ケインズの闘い

私は学生時代に、先生の下請けで『ケインズ全集』の下訳をやったことがある。第1次大戦後の賠償問題についての事務的な書簡集で、訳していて疲れたが、彼の官僚としての優秀さを実感した(その先生が死去したため、訳本はいまだに出ていない)。よく知られているように、ケインズはヴェルサイユ条約でドイツに莫大な賠償を課すことに反対したが、結局フランスに押し切られた。このときケインズの案が通っていたら、第2次大戦は起こらなかっただろう。

本書を読むと、ケインズの本質は経済学者ではなく、官僚あるいは政治家だったことがわかる。政治というのは「総合芸術」であり、経済学はその一部にすぎない。ケインズも、経済学は「モラル・サイエンス」の一つの手段だと考えていた。「わが孫たちの経済的可能性」というエッセイ(1930)には、次のような一節がある:
I draw the conclusion that, assuming no important wars and no important increase in population, the economic problem may be solved, or be at least within sight of solution, within a hundred years. This means that the economic problem is not - if we look into the future - the permanent problem of the human race. (italic original)
そして彼は「経済問題の重要性を過大評価したり、その見かけ上の必要性のために他のもっと重要で永続的な意義をもつ問題を犠牲にしたりしてはならない。それは歯医者のような専門家にまかせるべき問題なのだ」と結論する。彼にとって人生の目的は芸術や哲学であり、経済学は日常生活の雑事を合理化するための実用的な知識にすぎなかった。彼が経済システムを政府によってコントロールしようとしたのも、政府の力を過信したからではなく、逆に経済問題なんてつまらないもので、歯の治療のようにテクニカルに解決できると考えていたからだ。

これは「富の爆発的な増大」によって「必然の国」が克服され、「未来社会の経済運営は簿記のように単純なものになる」と予想したマルクスと似ているが、残念ながらケインズの孫の世代のわれわれにとっても経済問題は解決したとはいえない。彼らがともに間違えたのは、経済システムをコントロールすることは簿記のように単純ではなく、巨大な官僚機構を必要とすることだ。共産主義社会は官僚に押しつぶされ、福祉国家は官僚に乗っ取られてしまった。

しかし今回の経済危機は、過剰消費に支えられてきたアメリカ的な消費資本主義の終焉を示しているのかもしれない。先進国ではケインズのいう「絶対的必要」はもう満たされているのだから、本当は必然(必要)の国はすでに終わったのかもしれない。重要なのは政府が消費を刺激して経済の規模を維持する「ケインズ政策」ではなく、消費の中身を豊かにすることではないか。晩年のケインズが、芸術評議会の会長としてオペラやバレーの育成に最大のエネルギーを注いだように。

本書はケインズの伝記としてはよく書けているが、経済学については何も学ぶことはできない。

「意味づけ」の病

元厚生事務次官殺害事件は、やはり頭のおかしい男の場当たり的な犯行のようだ。ワイドショーでは朝から晩まで、いろんなコメンテーターがこの事件の「意味」を解説しているが、それは無駄である。「犬の仇討ち」というシュールな動機も、本当かどうかはわからない。むしろ統合失調症のような疾患を疑ったほうがいいだろう。

秋葉原殺人事件のときも、私のところにコメントを求める取材や、本で対談してくれという話が来たが、すべて断った。精神異常者はどんな社会にも存在し、彼らは一定の確率で殺人をおかす。その対象が家族であればベタ記事にしかならないが、「秋葉原」や「厚生省」という意味がつくと、メディアが大きく取り上げる。この種の報道は憶測ばかりで、犯罪の連鎖を呼ぶ有害無益なものだ。

こうしたワイドショー的発想の典型が本書である(リンクは張ってない)。内容は、およそ論評にも値しない無内容な雑文の寄せ集めだ。本として最低限の品質管理も放棄し、犯人の名前さえ実名と匿名が混在している。編者(大澤真幸氏)の本が分厚いばかりで中身がないことはこれまでにも書いたが、本書は彼にとっても岩波書店にとっても記念碑的な駄作である。東浩紀、平野啓一郎、本田由紀、雨宮処凛といった「読んではいけない」メンバーが見事にそろっている。

犯罪に過剰な意味づけを行なう傾向は、私の印象ではオウム事件のころから顕著になってきたと思う。カルトというのは集団的な精神病で、それが犯罪を引き起こすのもありふれた現象だ。それに無理やり「日本社会の病理」とか「安全神話の崩壊」などという意味を与え、破防法まで動員して大騒ぎした。

こういう過剰報道は読者からは理解しにくいが、供給側からはごく自然な現象だ。個々の記者や編集者にとっては、社内で陣取りするとき、意味づけが不可欠だからである。前にも書いたことだが、私がかつてニュース番組でビル・ゲイツへのインタビューを提案したとき、デスクが彼の名前を知らないので「全米一の金持ちゲイツさん」という企画で通した。マイクロソフトのCEOという業界ネタではニュースにならないが、「37歳の大富豪」という意味づけがあればオジサンにもわかるのだ。

メディアの社内競争は激しい。特に記者のランクは、どれだけ大きいニュースを出したかで決まるので、編集会議でなるべく社会性のある意味をつける必要がある。単なる交通事故が、「激増する飲酒運転」という意味がつけば(実際には増えていなくても)トップニュースになる。暖かい日が続いたという程度の話も「地球温暖化」と結びつければニュースになる。

1990年代から、このような「物語」づくりが顕著になったのは、おそらく偶然ではない。かつては資本主義と社会主義という大きな物語があり、各メディアは自社の方針に沿って主張すればよかったが、社会主義が崩壊してから「革新勢力」の依拠した物語が失われてしまった。そこで彼らは「格差社会」とか「コンピュータによる人間疎外」とかいう小さな物語をつむいで、反体制のポーズを守ろうとしているのである。

金融危機の起源

The Origin of Financial Crises: Central Banks, Credit Bubbles, and the Efficient Market Fallacy (Vintage)中央銀行が資産価格をコントロールすべきかどうかというのは、ながく論争になっているテーマである。どこの国でも中央銀行の最大の使命は「物価の安定」であり、「バブルの防止」という目的はない。資産価格の上昇そのものに問題はなく、損失をこうむる人は自己責任だ。ただ資産価格が極端に低下した場合には、中央銀行が介入して利下げなどの手段によって安定化する必要がある。

・・・というのが標準的な考え方だが、本書はこうした「非対称な金融政策」は根本的に誤っていると批判する。この政策は、通常は資産価格はファンダメンタルズを織り込んでいると想定する効率的市場仮説(EMH)にもとづいているが、最近の状況はこの仮説の明白な反証だ。財市場では価格の上昇によって需要は減るが、資産市場では価格が上がると需要が増えるself-reinforcingな効果があるので、不安定化する傾向が内在的にあるのだ。

EMHが成り立たないというのは、最近は教科書にも書かれるようになったので大して目新しくない。それに代わる理論として著者が推奨するHyman Minskyの金融不安定性仮説は最近、金融関係者に注目されているが、これは簡単にいうとファイナンスには次の3種類があるというものだ:
  1. ヘッジ・ファイナンス
  2. 投機的ファイナンス
  3. ねずみ講(Ponzi)ファイナンス
1はEMHが想定している取引で、市場で行なわれているのがこれだけなら、市場は均衡に収束して安定する。2も、効率的な投機であれば安定化する(愚かな投資家は淘汰される)が、市場全体が一つの方向に動く場合は不安定化する。3は資産価格が維持できないことを承知の上で、他人に損を押しつけて売り抜けようとするもので、行動ファイナンスでも指摘されている。金融市場が発達するにつれて2や3の取引が増え、資産市場は不安定化するというのがミンスキーの仮説だ。

しかしこの仮説は、主流派の金融理論のように洗練されたものではなく、計量データに裏づけられてもいない。本書も定性的な話ばかりで、EMHの系統的な批判にはなっていないが、中央銀行が資産価格を目的関数に入れるべきだという提言は傾聴に値する。

警察ネタの過剰

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ここ数日、各社のトップニュースは元厚生事務次官殺害事件の関連で埋まっているが、もううんざりだ。最新のニュースでは、犯人らしき人物がTBSのサイトに「今回の決起は年金テロではなく、34年前に保健所に殺されたペットの仇討ちである」などと書いており、ただの精神異常者の犯行である可能性が強い。

海外から帰ってきて日本のテレビを見ると、いつも違和感を抱くのは、こういう警察ネタの扱いが異様に大きいことだ。たとえばBBCのサイトを見ればわかるように、世界の大手メディアのヘッドラインは政治・経済・外交というのが常識で、殺人事件がトップに来るのはSunのような大衆紙だ。

ところが日本では、NHKも警察ネタだらけ。これはメディアの組織内事情もある。海外では基本的に高級紙は警察ネタを取材せず、通信社の配信した情報から重要なものがあれば取材する。ところが日本では各県警や(東京の場合)方面本部に大量の記者を張り付けるので、記者の半分以上は社会部だ。したがって整理部デスクの過半数も社会部出身なので、警察ネタ偏重になる。またデスクが「特落ち」をきらって、独自の企画より横並びの発表ものを優先する傾向が強い。

読者にはあまり知られていないが、警察のメディアへの影響力は非常に強い。昨今の大麻騒動なども、個別には大した事件ではない(過去にいくらでもあった)のに、警察が一斉摘発に踏み切ると、今のような「翼賛報道」が起こる。警察もネタのないときは記者クラブに書いてもらいたいし、記者のほうも「逮捕」という錦の御旗があれば名誉毀損で反撃される心配がないので、露骨な個人攻撃を繰り返す。独自に取材したネタを警察に持ち込んで、ガサ入れと同時にニュースにするパターンも多い。

要するに、日本のメディアは本質的には大衆紙なのだ。これは新聞が最大1000万部近くも売れている状況の必然的な結果ともいえるが、すべてのメディアがSunになってBBCが皆無なのは困ったものである。




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