2008年09月

霞ヶ関の2ちゃんねらー

霞が関をぶっ壊せ!本書の112~4ページに、話題を呼んだ怪文書「公務員制度の総合的な改革に関する懇談会報告書への素朴な疑問」の全文が出ている。おもしろいのは、最初に出ている(スペースも最大の)論点、「政と官の関係」だ。見出しには「なぜ集中管理が必要?国会議員が情報を得られなくなり、かえって『官僚主導』になるのではないか?」と書かれ、「政官の接触の集中管理」の禁止を彼らがもっともいやがっていることがよくわかる。

著者によれば、これを書いたのはなんと当時(今年3月)の行政改革推進本部事務局に総務省から出向していた次長だったという。公務員制度改革の責任者が、渡辺大臣の方針を全面的に否定する怪文書を流していたのだから恐れ入る。彼は今年の異動で本省に戻ったが、この怪文書の筆者であることは霞ヶ関に知れ渡っていたので、増田総務相の怒りを買って左遷されたそうだ。

民間の常識では考えられないが、霞ヶ関や永田町にはこういう怪文書が実に多い。昔、佐高信氏に「NHKは、怪文書が多いのとタクシー券の使い方がでたらめなのはナンバーワンだ」といわれたことがあるが、そのNHKにいた私でも驚くほど、日常的にこういう「紙爆弾」が飛び交う。特に権限縮小になるような改革に対しては組織を挙げてサボタージュを行い、「大臣のお考えとは違いますが・・・」といって官僚が政治家に勝手な根回しをするのは日常茶飯事である。皮肉なことに、この怪文書が「なぜ集中管理が必要?」という質問の答なのだ。

そもそも正式の公文書が、怪文書のようなものだ。省内で回ってくる書類には「・・・課」までしか書かれておらず、ペタペタ決裁印が押されて責任者は誰かわからなくなっている。政策の責任は組織が負うので、あとになって問題が起きたときも最初の起案者は追及されない。事件が表面化したときの責任者が公式には責任を負うが、彼は実際には経緯を知らないので、処罰されることはない。この徹底した匿名性は、2ちゃんねるよりはるかに悪質で影響が大きい。

90年代に住専処理を誤って6850億円の税金を浪費した寺村信行銀行局長も、東京の2信組のbailoutで不良債権処理を致命的に混乱させた西村吉正銀行局長も損害賠償責任は問われず、大学教授として優雅な老後を送っている。日債銀で「奉加帳」を回して銀行に2100億円の損失を与えた銀行局の中井省審議官は、検察がいったんは詐欺罪で立件を検討したが、見送った。奉加帳は「組織としての決定」で、個人に責任を負わせることはできないという判断だった。

これは著者もいうように、情報の非対称性を利用したモラル・ハザードである。官僚(エージェント)が匿名で、大臣(プリンシパル)が情報劣位にあるかぎり、エージェントが利己的な行動をとることは避けられない。これを改革する方法は情報の非対称性をなくすことだが、エージェント(代理人)は定義によってプリンシパル(依頼人)より多くの情報をもっている(そうでなければ依頼人が自分でやればよい)ので、非対称性を完全になくすことはできない。

日本でまともな政策論争が成り立たない原因も、霞ヶ関の2ちゃんねる体質にある。著者のように霞ヶ関を批判する側は実名なので、いろいろな誹謗中傷を浴びるが、それをつぶそうとする官僚は匿名だ。「素朴な疑問」は品のいいほうで、最悪なのはブラック・ジャーナリズムに情報を流して金や女の話を書かせる手法である。この匿名性は、日本のウェブがガラパゴス化する原因でもある。少なくとも公文書についてはすべて責任者の署名を義務づけ、霞ヶ関から「2ちゃんねらー」を追放すべきだ。

小泉純一郎氏の遺産

小泉元首相が引退を表明した。彼について「構造改革をやった功績は大きいが、その負の側面が顕在化している」などという論評が多いが、政治的にはともかく、彼の経済政策には正負ともにほとんど特筆すべきものはない。郵政民営化は、高橋洋一氏もいうように財投改革で実質的には終わっていた話だし、道路公団の民営化も猪瀬直樹氏が裏切ったおかげで、骨抜きになった。「構造改革が格差を拡大した」とかいう批判に至っては、笑止千万だ。次の図(OECD統計)を見ればわかるように、日本の非正規雇用の比率は1994年から一貫して増加しており、2001年に小泉氏が首相になってから特に加速した気配もない。格差を生み出したのは長期不況と、若者を犠牲にして中高年の雇用を守る日本的雇用慣行なのである。


小泉氏の唯一の経済政策への貢献は、不良債権の最終処理を実行したことだが、これはむしろ竹中平蔵氏の功績だ。竹中氏も全容を把握していたわけではなく、土壇場でりそなを救済して、処理は中途半端に終わったが、これによって最終処理が一挙に進み、日銀のゼロ金利と量的緩和があいまって金融システムは最悪の状況を脱した。

日本経済が世界に自慢できるものはほとんどないが、不良債権処理の純損失がGDPの25%という戦後の先進国では最高記録を樹立したことは、貴重な教訓だ。この「先輩」からみると、米政府の不良債権処理策は、ポイントを外している。今回の案は不良債権の買い取りがメインで、それに対して「バブルに踊って失敗した銀行を税金で救済するのはけしからん」という(日本でも10年前によく聞いた)批判が多いが、日本の教訓からいえることは、英文ブログにも書いたように、最大の問題は銀行を納税者の負担で救済すべきかどうかではないということだ。

不良債権の買い取り会社としては、日本でも1993年に「共同債権買取機構」がつくられたが、銀行救済との批判をかわすために買い取りの原資は当の銀行が融資することにしたので、不良債権を「飛ばす」受け皿になっただけだ。1996年に住専問題で農協を救済したことへの批判に対応して「住宅金融債権管理機構」ができ、1999年に「整理回収機構」になって全銀行の不良資産を買い取ることになったが、ほとんど機能しなかった。

その原因は、不良債権処理を銀行の「自主性」にまかせたため、実質的に破綻していた銀行は資産の売却によって破綻が表面化することを恐れ、大蔵省も彼らの粉飾決算を奨励したからだ。彼らが単なる「引き当て」ではなく不良資産の売却を行うようになったのは、2002年に竹中平蔵氏が金融担当相になり、銀行の資産査定を厳格化してからである。つまり不良資産の買い取りという受け皿をつくるだけではだめで、そこに売却させる圧力がないと機能しないのだ。

アメリカは時価会計なので、FRBや政府が銀行を監視して情報開示を徹底すれば早期解決は可能だが、資産査定が甘いとエンロンのような「創造的会計」が続けられる。米政府は、この点に必ずしも自覚的ではない。銀行株の空売りを禁止したのは、この観点からいうと逆である。リーマンやAIGを最終処理に追い込んだのは、株式市場のアタックだった。リーマンは今年の第1四半期まで、利益を計上していたのである。

最終処理のプレッシャーをかける上で重要なのは、当局のコミットメントである。小泉氏が不良債権処理の重要性を理解していたかどうかは疑問だが、彼の「言い出したらきかない」キャラクターが、竹中氏の乱暴で一貫性を欠く処理策がそれなりに効果を発揮した原因だった。竹中氏が小泉氏の退陣後、議員辞職したのも、他の首相では党と妥協し、まともな経済政策はつぶされることを知っていたためだろう(事実つぶされた)。

この点で小泉氏の最大の功績は、彼が党内のコンセンサスを無視して思い込みを実行に移す変人だったことにある。こういうキャラクターを持った政治家は少なく、日本の政界で出世することはむずかしい。しいていえば小沢一郎氏ぐらいだが、最近の彼にはよくも悪くも原理主義的な面がなくなり、民主党は小泉改革を否定して郵政民営化も「見直す」そうだから、まったく期待はもてない。小泉の前に小泉なく、小泉の後に小泉はないのだろうか。

アメリカという特殊な国

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今回の金融危機を「アメリカ資本主義の崩壊」とか「グローバリズムの終焉」などという向きも多いが、投資銀行に代表される超合理主義は、アメリカの土着の思想ではない。その「古層」には、合理主義を否定し伝統に回帰する保守主義が今も根強い。

独立革命で英本国と戦った人々には、国家権力に対する不信感が強かった。米国憲法の起草者たちが書いた『ザ・フェデラリスト』では、連邦政府が州を支配することに反対する人々を説得するために、州のような直接民主主義のほうが「多数の専制」に陥る危険が大きいと論じている。この意味でアメリカ民主主義の起源は、バーク的な保守主義に近い。そこにみられるのは、啓蒙的理性への懐疑であり、政府に対する不信である。

これに対して戦後、民主党政権のもとで合理主義的なリベラルが優勢になり、Affirmative Actionのような平等主義とケインズ的な介入主義が続いたが、1980年代のレーガン政権以降、保守主義が息を吹き返した。それがブッシュ(子)政権で過激化したのが、ネオコンである。しかし彼らの源流はトロツキストや民主党左派で、アメリカ的民主主義を戦争に訴えてでも世界に輸出しようとする発想は、世界革命を信じたトロツキーと同じだ。この意味でネオコンは、アメリカの保守主義の中では異端である。その影響力がピークに達したのが第1次ブッシュ政権だが、イラク戦争の失敗で壊滅した。

『追跡・アメリカの思想家たち』は、バークを「再発見」したラッセル・カークを出発点とし、レオ・シュトラウスやニスベットなどの足跡をたどり、アメリカの保守主義の原点をさぐったものだ。11人も取り上げているので、個々の思想家については「さわり」程度の記述しかなく、読み方もジャーナリスティックで哲学的な深みには乏しいが、日本であまり紹介されていないアメリカの保守主義についての入門書としては便利だろう。

もう一つのアメリカの精神的支柱は、キリスト教である。大統領選挙で妊娠中絶が大きな争点になるのは、アメリカ国民を動かす動機が欲望よりも理念であることを示している。これも建国の父のピューリタニズムの遺伝子が受け継がれているのかもしれない。数万人の信徒を擁してディズニーランド化した「メガ・チャーチ」や、ケーブルテレビで数百万人に伝道する"TV Evangelist"などは、キリスト教がアメリカの精神的なインフラになっていることを示している。

『アメリカの宗教右派』は、このわかりにくいキリスト教右派の実態を整理したものだ。著者によれば、教会はもとは政治とは無縁だったが、カーター政権で南部の福音派が政治的な発言力を強めたことをきっかけにして、共和党の中で宗教右派の発言力が強まったという。彼らの勢力が最大になったのも"born again"体験をもつブッシュ(子)大統領のときだったが、宗教右派に批判的なマケインが共和党の大統領候補になるなど、彼らの影響力も衰えている。

このようにアメリカは、よくも悪くも特殊な国である。彼らは英語以外の言語を知らず、パスポートの所持率は20%以下。海部美知さんもいうように、アメリカこそ「パラダイス鎖国」の国なのだ。そこで生まれたものがグローバルに見えるのは、彼らが英語とドルという標準を握っているからにすぎない。しかしグローバル資本主義によってローカルな秩序が破壊され、世界は原子的個人に分解されつつある。アメリカ的な生活様式が普遍性をもつようにみえるのは、彼らが200年前からこの孤独な世界に生きてきたためだろう。

中川昭一氏のためのマクロ経済学超入門

アメリカで行われている金融危機対策については、経済学者にとっても勉強になるハイレベルの論争が行われているが、日本ではまだ半世紀前のケインズの亡霊が徘徊しているようだ。中川財務相・金融担当相が『中央公論』7月号に書いた「日本経済復活のための13の政策」には、典型的なバラマキ政策が並ぶ:
  • 年金の物価スライド制復活と長寿医療制度での保険料軽減
  • 子育てに必要な最低限の育児費や教育費は国が全部面倒を見る
  • 基礎年金の全額税方式化
  • 定率減税の復活
  • 法人税減税
  • 一人当たり三〇〇万円まで非課税の証券マル優制度の創設
  • 政府系ファンドの創設
総額21兆円以上という小沢一郎氏なみの規模だ。こういう「積極財政」が「国民を元気にする」という思い込みが何度も語られるが、中川氏はこういう政策がマクロ経済的にどういう波及効果をもたらすか、ご存じなのだろうか。非常に基本的なことだが、経済政策の責任者がこの程度の知識もないのは、それこそG7会合で恥をかくので、大学1年生レベルのマクロ経済学を確認しておこう。

21兆円もの財政支出を「真水」で増やすとなれば、国債の増発は避けられない。「世界一の借金王」を自認した小渕首相が84兆円もの国債を発行した結果、彼が首相に就任した1998年から長期金利が上昇し、資金流入が増えて40円もの円高になった(図)。この結果、輸出産業は深刻なダメージを受け、景気は悪化した。


これは理論的には、マンデル=フレミング・モデルで説明できる。資本の完全移動性を仮定すると、世界中で実質金利は同一になり、為替レートを縦軸にとるとLM曲線は垂直になる。ここで財政支出を増やすと、IS曲線は次の図のように外側にシフトするが、国債の発行で金利が上がると海外から資本流入が起こり、元の金利に戻るまで続く。変動相場制のもとでは、これによって円高になって輸出が減るので、所得水準は変わらない。


つまり中川氏のバラマキで「元気になる」ようにみえるのは一時的な錯覚で、その効果は国際資本移動で打ち消され、円高によって輸出産業がそのコストを負担するのだ。結果的には、こうした政策によってGDPは増えず、輸出産業から競争力のない国内産業に所得が移転されるだけだ。世界経済全体のバランスをみても、アメリカの巨額の経常赤字が円高圧力になっているので、資金が円にシフトする可能性は高い。

長期的な影響は、さらに悪い。バラマキによってプライマリー・バランスの黒字化が遅れると、財政赤字が発散するおそれがある。これを避ける方法は大増税か、インフレで政府債務をチャラにする「徳政令」しかない。そういう将来の不安が大きくなると、いくら減税しても消費は増えないというのが中立命題である。これは実証的には疑わしいが、巨額の財政赤字のもとで「積極財政」をとっても、国民は「元気になる」どころか不安になるだけで効果がないことは、ここ10年の日本経済の実績が何よりも示している。

東大法学部卒の中川氏はISもLMも知らないかもしれないが、知り合いの経済学者にきいてみてほしい。地底人以外は、だれでも同じように答えると思う。

「大蔵省」の復活?

麻生内閣の布陣でちょっと驚いたのは、中川昭一氏が財務相と金融担当相を兼務したことだ。麻生首相は記者会見で「金融問題が世界で関心を呼ぶ中、1人の方にやっていただいた方が機能的だと判断した」と説明し、「スタッフの統合もあるのか」との質問に、その可能性を否定しなかった。財政と金融の一体化は、彼の持論だそうだ。今年は大蔵省から金融監督庁(当時)が分離されて10年になるが、時計の針を戻して「大蔵省」を復活しようということだろうか。

たしかに「G7財務相・中央銀行総裁会合の参加国で、財務相が金融を所管していないのは日本だけだ。来月のG7会合で金融問題を議論するためにも兼務したほうがいい」という首相の意見は一理ある。大蔵省の解体は、斉藤次郎事務次官が小沢一郎氏についたことに対する自民党の報復という意味合いが強かった。

「9月危機」の結果、ゴールドマンやモルガン・スタンレーも銀行持株会社になり、1933年のグラス・スティーガル法以前の状況に戻ったので、グリーンスパンもいうように、監督当局が財務省とFRBとSECにわかれているのはおかしい。銀行行政と証券行政の統合あるいは監督行政と金融政策の統合は必要だ。しかし「大蔵省」に戻すことは、これとは意味が違う。予算編成と金融行政には「シナジー」はない。欧米のTreasury Departmentは国庫を管理する官庁で、予算はアメリカの場合は議会予算局で編成される。G7諸国にならうのなら、主計局を内閣に分離すべきだ。

かつての大蔵省では、金融・証券局は「4階」グループといわれ、主計・主税局などの「2階」グループから落ちこぼれたキャリアの行くところだった。特に主計局長になりそこねた次長が銀行局長になるという悪習があり、金融危機の「主犯」とされる寺村信行氏も、局長が初めての銀行局勤務だった。こんな状態では、高度に発達した金融技術が理解できないのはもちろん、バランスシートも読めないので、ひたすら護送船団行政を守ることしかできない。

金融行政の分離は、こういう状態を改め、金融の専門家が銀行を監督しようとするものだった。これによって、大蔵省当時にはできなかった長銀や日債銀の破綻処理も可能になった。それを元に戻すことは、日本は(というか麻生首相は)「失われた10年」から何も学んでいないということを世界に示す結果になろう。

白川総裁も示唆するように、金融庁を合併するならむしろ日銀としたほうがいい。今回のアメリカの事件は、現代の経済変動は景気循環というマクロ経済学の教科書にあるような形ではなく、マルクス的な恐慌に近い形で起こることを示した。こういうとき、アメリカの場合にはポールソンもバーナンキも専門家だからいいが、中川氏と白川氏が彼らのように一致して行動できるとは思えない。首尾一貫した危機管理体制が必要だ。

経済学者の公開書簡

不良債権処理策についての122人の経済学者の議会への公開書簡が、シカゴ大学のウェブサイトで発表された:
経済学者として、われわれは今回ポールソン財務長官が議会に提案した金融危機への対応策に懸念を示すものである。われわれは現在の危機がきわめて困難なものであることは理解しており、金融システムが機能するためには大胆な行動が必要であることにも合意する。しかし、この案には以下のような深刻な問題がある:
  1. 公正さ:この案は、納税者の負担で投資家に補助金を出すものである。投資家は利益を得るとともに、損失を負担しなければならない。企業の破綻がシステミック・リスクをもたらすとは限らない。政府は特定の企業を救済するのではなく、金融システムが正常に機能するようつとめるべきである。

  2. 曖昧さ:新しく設置される機関の目的も、それを監視するしくみも明確でない。納税者が不良債権を買うなら、買収の条件、理由、方法が事前に明示され、事後的にも検証できるようにすべきである。

  3. 長期的な効果:この案が実施されれば、その効果は一世代ぐらい続く。最近は問題を抱えているが、アメリカのダイナミックで革新的な資本市場は、この国に大きな繁栄をもたらした。短期的な問題に対応するために資本市場を規制によって弱体化することは、近視眼的である。
署名者には、以下のような著名な経済学者が含まれている:

  • Acemoglu, Daron (Massachussets Institute of Technology)
  • Harris, Milton (University of Chicago)
  • Hart, Oliver (Harvard University)
  • Heckman, James (University of Chicago - Nobel Laureate)
  • Kashyap, Anil (University of Chicago)
  • Levine, David K.(UC Berkeley)
  • Scharfstein, David (Harvard University)
  • Stokey, Nancy (University of Chicago)
  • Zingales, Luigi (University of Chicago)

モラル・ハザード

最近の金融危機をめぐる報道で、「モラル・ハザード」という言葉がよく出てくる。新聞ではたいてい(倫理の欠如)と補足しているが、これは誤訳である。この言葉は保険用語で家の燃えやすさなどの"physical hazard"(物質的危険)と対になる概念で、Slateの記事にも書かれているように、moralは「倫理的」という意味ではなく"perceptual or psychological"という意味だ。つまり"moral hazard"は、保険に入ったことで防火を怠るなどの「心理的危険」のことである。

この言葉を経済学で初めて使ったのはKnightで、保険用語として使っている。これを情報の非対称性との関連で使ったのはArrowだが、ここでも「プリンシパルから見えないエージェントの行動」というテクニカルな意味で、道徳とは関係ない。日本では、内田樹氏のように「悪事」一般と混同する人も多く、「金儲けと犯罪の境目をユルユルにして現在に至っていることが、社会全体のモラルハザードを引き起こしているのではないでしょうか」などと説教するコラムニストもいるが、これはナンセンスだ。モラル・ハザードは悪党の行動ではなく、情報の非対称性を利用する合理的行動である。

この言葉が金融で使われるようになったのは、1980年代のS&L危機のときで、貯蓄組合が高金利の預金をジャンク債などのハイリスク商品で運用し、失敗しても預金保険で救済されるという本来の保険用語で使われた。これを防ぐには、リスクの高いエージェントの保険料を引き上げるなどの対策が有効で、倫理とは関係ない。今回の米政府の不良債権買い取り策についても、モラル・ハザードという言葉が必要以上に道徳的な議論を巻き起こし、政治家が反対する原因になっているが、これは事前のインセンティブについての概念なので、火事が起きてから道徳を論じても意味がない。

吉田茂の機会主義

麻生太郎氏の政見には語るに足るものはないが、唯一おもしろいと思ったのが「安倍晋三氏には岸信介以来の保守の理念に殉じる気概があったが、私の政治哲学は吉田茂以来のプラグマティズムだ」という話だ。

戦後の占領期に7年以上も政権にあった吉田は、日本の戦後体制をつくったといってもよい。安倍氏の否定する「戦後レジーム」というのは「吉田レジーム」である。しかし、そこに一貫した信念があったわけではない。吉田は「平家・海軍・外務省」といわれる傍流の外交官であり、敗戦で本流の陸軍や内務省が解体されたために「消去法」で首相になったにすぎない。彼はリベラルでも平和主義者でもなく、晩年には「憲法第9条は間近な政治的効果に重きを置いたものだった」と語っている。平和憲法は「侵略国」とか「軍国主義」というイメージをぬぐい去るための機会主義的なレトリックであり、いずれ日本が豊かになれば改正が必要だと考えていたのである。

講和条約や安保条約で対米依存路線を敷いたのも吉田だが、これも貧しい日本が米軍に「ただ乗り」し、復興に資源を集中しようという機会主義だった。憲法をつくったGHQ民政局のケーディス次長などの社会主義者は、第2次大戦を「最後の戦争」と考え、20世紀後半には軍備は不要になると考えていたが、その見通しは講和条約が結ばれる前に、朝鮮戦争で崩れてしまった。ダレス国務長官は、講和にあたって憲法を改正して再軍備することを要求したが、吉田は「平和国家」をとなえて軽武装路線を貫いた。

本流の国家社会主義は、戦後しばらく雌伏を強いられたが、岸はCIAの金を使って1957年に首相として復権した。それ以降、福田・中曽根系の「右派」と田中・大平系の「左派」が、疑似政権交代を続けてきた。この対立軸は欧米とは違うもので、右派が「戦後の総決算」とか「戦後レジームの清算」などのconstructivismを打ち出すのが特徴だ。これはバーク的な保守主義とは違い、北一輝以来の「革新官僚」の流れである。これに対して、左派が既成事実としての憲法を守る立場に立ち、こちらが伝統的な保守主義に近い。

権力の中枢を握っていたのは、戦前から続く官僚社会主義に根ざした右派だったが、憲法という呪文を解くことは、予想以上にむずかしかった。このため戦後の日本では、保守すべき伝統が憲法と対米依存というリベラリズムになる「ねじれ」が生じた。これに対してナショナリズムを掲げる右派の主張は、「憲法は押しつけで、戦前の日本こそ保守すべき伝統だ」という無理のあるもので、平和主義の建て前をアカデミズムやジャーナリズムが真に受けたため、右派は言論の世界ではつねに少数派だった。

今回の麻生/小沢の対決は、このように自民党内で繰り返されてきた対立が、自民/民主という政権選択として出てきたものだ。ここで保守本流を継承するのが、野党の小沢氏だというのが皮肉なところである。麻生氏の機会主義が何も変えられないことはいうまでもないが、小沢氏の計画主義も、霞ヶ関の協力なしでは何もできないだろう。両方とも、日本的パターナリズムの変種にすぎないからだ。

小沢一郎と大久保利通

小沢一郎氏が民主党の代表に3選された。その所信表明を読んで、おやっと思ったのは「明治以来の官僚を中心とする国の統治機構を根本的に改革する」など、統治機構という言葉が3回出てくることだ。「格差是正」や農業保護などのくだらない政策が並んでいるのはこれまで通りだが、その財源が明示されていないという批判に答えて、統治機構を変えることで行政を効率化するというロジックになっている。

それにしても「明治以来の統治機構」という言葉が、政治家から出てきたのは珍しい。こういう観念的な言葉は、選挙向けのスローガンとしては役に立たないが、当ブログでもたびたび書いてきたように、これが日本経済の行き詰まっている本質的な原因である。バラマキの財源を捻出するために統治機構を変えるというのは逆で、「官僚内閣制」を変えないかぎり、どんな改革も法律として実現できない。

この意味で、高橋洋一氏が新著で書いている公務員制度改革こそ「本丸」である。今回は人事を変えただけだが、その立法化が麻生内閣のもとで行われたら、換骨奪胎されるおそれが強い。本気で霞ヶ関を変える気なら、小沢氏の所信に公務員制度改革が入っていないのはおかしい。

私の友人に小沢氏の元秘書がいるが、彼によると小沢氏は読書家で、書庫には歴史の本が多いそうだ。特に明治の元勲にくわしく、大久保利通が好きだという。大久保は版籍奉還や廃藩置県を行い、プロイセンの中央集権システムを輸入して「明治の統治機構」をつくった人物である。彼は内務省を設置し、初代の内務卿になった。大久保が現在の霞ヶ関をつくったといってもよい。

大久保を敬愛する小沢氏は、本当に統治機構を変える気があるのだろうか。かつて大蔵省と画策した「国民福祉税」のように、むしろ官僚機構を掌握して使おうというのが彼の戦略だったのではないか。民主党がシンクタンク「プラトン」をつくろうとしたときも、小沢氏は「政権をとったら霞ヶ関を使えばいいんだ」と反対したという。少なくとも最近までの彼の議論に、霞ヶ関そのものを変えるというという方向性はなかった。

これも選挙向けのリップサービスなのか、それとも「大久保以来の官僚機構」を否定する心境に達したのか、聞いてみたいところだ。民主党の若手議員も「小沢さんが格差社会を語るのは似合わない。彼にはもっと大きな話をしてほしい」といっている。今回の所信表明で彼が出した囲碁のたとえでいえば、「急場」の話しかない麻生太郎氏に対して「大場」の話をぶつけてこそ小沢氏の本領が発揮されるのではないか。

カーラ・ブルーニ

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洞爺湖サミットをドタキャンしてひんしゅくを買った、フランスのサルコジ大統領夫人、カーラ・ブルーニの新譜"Comme si de rien n'etait"の一部がウェブサイトで公開された(過去のアルバムは全曲聞ける)。ヌード写真がオークションにかけられたり、歌詞で麻薬のことを歌ったり、あまり音楽的じゃない話題ばかりにぎやかだが、曲は地味なフォークソングという感じだ。中にはサルコジに捧げた"Ta Tienne"(あなたのもの)という曲もある。
あなたは私の王、私の最愛の人
私の熱狂、私の愚かさ、私の混乱
私の祝福された糧
私の魅力的な王子
私はあなたのもの・・・





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