
本書はブログの記事をつなぎ合わせたもので、著者も認めるようにかなりいい加減な本だ。エドマンド・バーク的な保守主義をなぜか構造主義と呼んで、奇妙な「日本論」を展開している。しかし私が批判したマルクスの記事もインサイダー取引の記事も削除され、ポパーの誤読の部分も削除されているのは好感がもてる。献本も「理解は共有している」というメッセージかもしれない。
問題は、松原氏の無知である。彼は「構造改革」を否定し、「世の中を使えるように維持する」内田氏のピースミール社会工学を絶賛するのだが、これは私が指摘したにもかかわらず、内田氏が訂正していない誤解である。ハイエクがポパーを批判したように、社会をデカルト的合理主義で制御しようとする社会工学という考え方は、社会主義と同じ計画主義(constructivism)なのだ。このへんの議論は拙著でも少しふれたので、サポートページに一部掲載した。
「革命」を否定する思想は、保守主義でも構造主義でもない。ハイエクは保守主義者と呼ばれることを拒否したし、構造主義はレヴィ=ストロース自身が「超越論的主観なきカント主義」と呼んだように、逆にデカルト的理性が野生の社会にも普遍的に存在すると考える思想である。ただ私は、内田氏とは違う意味で、構造主義は今日でも重要だと思う。「形式が本質に先立つ」とした構造主義が20世紀の思想の分水嶺であり、ポストモダンはそのcorollaryにすぎないからだ。
「フーコーの社会史」とか書いている松原氏は、どうせフーコーもレヴィ=ストロースも読んでない(あるいは読んでも理解してない)のだろう。中沢事件で村上泰亮氏などが抜けてできた駒場の「知の空白」は、いまだに大きい。