2008年06月

ノンワーキング・リッチ

このところ、いろんなメディアから「格差社会批判の批判」みたいな取材が来る。「ワーキングプア」が消費しつくされたら、今度はその批判で飯を食おうということらしいが、いい加減うっとうしいので、ここでまとめて書いておく。

先日の秋葉原事件の犯人も、年収は200万円というから、韓国の一人あたりGDPぐらいで、絶対的基準でみれば「プア」とはいえない。精神異常者というのは一定の確率でいるので、こういう突出した事件を一般化することはできない。ブルーカラーの待遇は労働需給の従属変数なので、それ自体を「是正」することは無意味だ。「日雇い派遣」の禁止は、企業がアンケートに答えているように、(もっと不安定な)アルバイトに置き換わるだけである。

問題はワーキング・プアではなく、その裏側にいる中高年のノンワーキング・リッチである。私のNHKの同期は、今年あたり地方局の局長になったが、話を聞くと「死ぬほど退屈」だそうだ。末端の地方局なんて編成権はないから、ライオンズクラブの会合に出たり、地元企業とのゴルフコンペに参加したりするのが主な仕事で、「あと5年は消化試合だよ」という彼の年収は2000万円近い。

日本経済の生産性を引き下げて労働需要を減退させ、若年労働者をcrowd outしているのは、こういう年代だ。彼らは世間的には、それなりの地位について高給を取っているが、本人は「生ける屍」である。年功序列などという愚かな雇用慣行がなければ、まだ現場で働けるのに、こうして「座敷牢」で50代を過ごす。官僚の場合は、特殊法人に天下って税金を浪費する。

経済の生産性を決めるのは、人口の5%ぐらいの意思決定を行なう人材の質である。かつては優秀な人材が製造業に集まって世界進出を果たし、日本経済を牽引した。しかし産業の軸が製造業から外れたあとも、彼らは衰退する製造業に残り、それにぶら下がる非生産的な銀行や官僚機構でも、優秀な人材が大量に社内失業している。こんな状況は日本経済にとっても迷惑だし、彼らも幸せではない。こうしたノンワーキング・リッチを強制的に早期退職させ、その退職金を増額して起業させる政策というのはとれないものか。

追記:「オヤジの起業」に関心が集まっているようだが、これは半分冗談。主旨は、ブルーカラーの雇用の固定化ではなく、ホワイトカラーの雇用の流動化が重要だということである。

「中抜き」の経済学

磯崎さんにも指摘されたように、日本の中小企業には銀行からの借り入れでリスクをとる傾向が強い。私の例にあげた会社(私は利害関係者ではない)もそうだし、新銀行東京も再建の方針に「ベンチャー融資」を掲げている。この原因には、中小企業がVCや資本市場で資金を調達するのがむずかしいというだけではなく、さまざまな要因がある。

基本的な問題は(日本だけではないが)、税制のバイアスだ。Modigliani-Millerでも知られるように、法人税や倒産がなければ、理論的には負債と株式は同じである。しかし現在の税制では、金利は経費として控除されるが、配当には課税される。日本では「会社は経営者のもの」という通念が強いので、中小企業は節税のため、借り入れで資金を調達して利益を配当しないように操作する。その結果、企業の70%以上が赤字法人である。

本質的な違いは、銀行が資金を仲介してリスクをプールするのに対して、VCや投資ファンドでは投資家がリスクを負担するという点だ。銀行型の仲介構造は、情報の非対称性が大きいときは意味がある。銀行が預金者に代わって融資先を審査し、その情報コストを利鞘として取るわけだ(Leland-Pyle)。預金者がリスク回避的で逆淘汰が起こる場合には、銀行が集中的にリスク管理を行なう必要がある。

同様のローリスク・ローリターン構造は、日本社会に広くみられる。たとえばソフトハウスがITゼネコンの下請けになると、資金リスクはない代わり、利鞘は元請けにとられる。携帯端末メーカーは赤字営業だが、キャリアは数千億円の利益を上げている。メディアの世界でも、アメリカではハリウッドのプロデューサーがすべての権利をもっているが、日本では隣接権者にすぎないテレビ局がコントロール権をもち、プロダクションは下請けだ。

この構造は、情報が稀少な時代には有効だったが、ITによって情報が過剰になった世界では、本源的な生産者にコントロール権を移し、自由にリスクを取れるようにしたほうがいい。ところが仲介者は、こういう中抜き(非仲介化)に抵抗して既得権を守ろうとする。ゼネコンは談合で利権を守り、テレビ局は政治家を動員して電波利権を守る。

他方、系列構造に慣れた生産者も、あまりそれを変えようとしない。この中で単独でリスクをとっても、談合に阻まれて市場に参入できないからだ。しかし、このシステムが限界に来ていることは明らかだ。特にITの世界では、ローリスクで取れるリターンはほとんどないのに、系列構造にみんながぶら下がり、業界全体が沈没している。ここから脱却するには、まず談合を破壊し、生産者を既得権のくびきから解き放つことが第一歩だ。

追記:磯崎さんのきょうの記事によれば、会計的にも融資と投資の区別はそれほど絶対的ではないようだ。別にこれは「論争」ではなく、事実認識は同じなので、誤解なきよう。

追記2:TBでも指摘されているように、企業の経営者も負債と株式の区別はよく知らない。大企業の取締役が「どれぐらい借り入れで調達するかは銀行とのつきあいで決める」というのを聞いて、唖然としたことがある。

オークションの人間行動学

私は以前から周波数オークション(および逆オークション)を提案しているのだが、総務省には聞いてもらえない。2001年にその是非が検討されたときも、審議会に経済学者がいないので、「キャリアの経営が破綻する」とかいうナンセンスな理由で却下された。しかし本書を読むと、オークションというのは、そんな恐いものではないことがわかるだろう。

オークションは、マクミランもいうように自分の評価を正直に申告させるメカニズムである。しかし実際には、人間は合理的でも正直でもないので、eBayやヤフオクではスナイパーなどさまざまな変則的行動が起こる。本書は実験経済学の成果も踏まえて、ゲーム理論の最新の成果をおもしろく伝えている。

こうした理論で、ウェブ上で起きている現象を説明できる。たとえばGoogleが急成長した一つの理由は、広告オークションだ。検索広告はGoogleの発明ではなく、Bill Grossが彼の特許を売り込みに来たとき、Eric Schmidtはそれを蹴った。Google自身も、検索広告がこれほど大きなビジネスになるとは予想していなかったのだ(のちにGrossはGoogleを訴えて巨額の賠償を勝ち取った)。

しかし検索ページ上の場所をオークションで売るというアイディア(これはGoogleの特許)は、それまでの広告の常識をはるかに上回る収入をもたらした。この理由は、本書のビッド・シェイディングの理論で説明できる。広告に応札するスポンサーの評価額をv、入札価格をpとすると、その余剰E=v-pを最大化する均衡入札価格p*は

 p*=(1-1/n)v

となる。ここでnは応札者の数で、2人のオークションではp*=v/2、つまり自分の評価額の半分の価格を提示すればよい。ところがnが増えるにつれてp*はvに近づき、nが無限大になると、p*=vとなる。つまり応札者が多いと、スポンサーの余剰はゼロになり、広告による利益をすべてGoogleがとるのだ。従来型の広告では、スポンサーと媒体を仲介する広告代理店が余剰のほとんどをとってしまうが、Googleは代理店を「中抜き」することで高い利益を上げたわけだ。

他方、日本ではいまだに電通が、ナショナル・スポンサーを独占している。Yahoo!Japanが強いのも、電通を使っているからだ。スポンサーも、どんな画面に掲示されるかわからないAdWordsやAdSenseを好まない。ここでも、リスク回避的な行動がゼネコン型の中間搾取を支える構造がみられる。オークションのような透明なメカニズムで、新規参入を促進することが官民ともに必要だ。

ウェブの食物連鎖

磯崎さんから反論がきた。投資と融資の違いは、会計的にはおっしゃる通りだが、経済学的にはどっちもinvestmentである(たとえば有名なSharpeの教科書Investmentsには"borrowing and lending"という章がある)。両者の最大の違いは、債務不履行になった場合に資産の残余コントロール権が債権者(投資家)に移転するかどうかという点だから、
これから「ベンチャー企業」を設立しようという人に口を酸っぱくして言っておきますが、池田さんが設立に関わられた企業のように、金融機関からの借り入れで(個人保証等までして)ベンチャー企業を立ち上げるのは、基本的に絶対やめるべきです。
というのは、おっしゃる通り。私もそういって止めたのだが、その会社は事業を開始してしまい、今月末に1億円の返済期限が来るのに、製品が1台もできてない・・・

この会社の場合、超楽観的な目論見書で、一番うまくいった場合のキャッシュフローを当てにして融資を受けたので、こうなることは目に見えていた。この場合、投資だとVCの株式が紙切れになるだけだが、融資だと債権者が担保を処分できるので、個人保証だと身ぐるみはがれる場合もある。
Facebookは7500万人のユーザーがいるそうですが、このユーザーから仮に一人当たり1000円収益が得られれば750億円の収入になるわけです。「これから7500万人のユーザを獲得します」というのと、「すでに7500万人のユーザがいるという実態がある」のとでは、まったく「いい加減」さが違う。
というのもその通りで、Facebookの場合、最新の数字では1億人を超えたので、これだけのアクセスがあれば、あとはそれをキャッシュに変えるエンジンさえあれば、何とでもなる。単純にGoogleが買っても、黒字になるだろう。つまり、シリコンバレーの企業は独立だというのは過去の話で、今やアクセスを集めるフロントエンドと、それを広告などでmonetizeするエンジンの補完的な分業になっているのだ。

だから今週のASCII.jpにも書いたように、いわゆるWeb2.0企業はIPOではなく買収によってexitする。その受け皿も、GoogleとYahoo!とMSのどれかに「イケてる」と思わせればOKだ。ところが日本では、このエンジンがないものだから、単体で収支を見られると、アクセスを集めるだけのサイトは収益の見通しが立たない。こうしたウェブの食物連鎖を阻害している大きな要因が、検索エンジンが違法になっているなどの過剰規制だ。ただ根本的な問題は、YouTubeのように訴訟リスクを踏み越えても起業しようというstartupが出てくるかどうかというリスク態度なので、
もっと「起業に賭けてみよう」というイケてる人がたくさん現れる社会になることを切実に望みます。
という結論は磯崎さんと同じだ。

地球と一緒に頭も冷やせ!

ロンボルグの本の邦訳が出る。あいかわらず邦題が(おそらく訳文も)下品だが、それを我慢して読めば、現在の温暖化騒動のバカさ加減がよくわかるだろう。この種の議論には、少なくとも5段階の疑問がある:
  1. 「地球が温暖化している」という大前提が疑わしい:ここ18ヶ月連続して、-0.7℃以上という観測史上最大の寒冷化が進行しており、東工大の「理学流動機構」のモデルによれば、これは2000年ごろをピークにして始まった寒冷化の局面の始まりである。
  2. かりに温暖化しているとしても、その主要な原因がCO2かどうかは疑わしい:IPCCの報告書でさえ、「人為的なCO2排出が温暖化の原因である可能性がきわめて高い」と書いているだけで、それが決定的な原因だとは書いていない。人為的な要因があることは明らかだが、自然要因で相殺される可能性もあり、CO2の排出量を削減すれば温暖化が緩和するかどうかもわからない。
  3. かりに人為的温暖化が主要な原因であるとしても、京都議定書によって温暖化を止めることはできない:京都議定書が完全実施されたとしても、それはCO2の濃度を減らのではなく、温暖化を5年ほど先延ばしするだけである。
  4. かりに京都議定書によって温暖化を先延ばしすることに意味があるとしても、その効果がコストに見合わない:Beckerなども指摘するように、100年先の気温をわずかに下げる政策の割引現在価値はたかだか500億ドルであり、1兆ドルを超えるコストに見合わない。同じコストを飢餓や感染症への対策にかければ、数千万人の生命を救うことができる。
  5. かりにCO2削減に意味があるとしても、排出権取引による統制経済は莫大な経済的損失をもたらす:今週のMankiw's Blogでも指摘しているように、この種の絶対的基準のはっきりしない問題には、Coase型(財産権方式)よりもPigou型(課税方式)の政策のほうが望ましいのだ。
温暖化に疑問を呈する科学者を「査読つきの学会誌に出ていない」などという権威主義で否定する向きもあるが、少なくとも経済学の世界では、Mankiwに賛成する経済学者が多数派である(権威主義がお好きなら、ここにはノーベル賞受賞者も2人含まれている)。論理的には、上の5段階の4が成り立つことは経済学で証明できるので、それまでの3段階が(自然科学的に)成り立つとしても、京都議定書の実施に1兆ドルもかけることは政策として正当化できない。温暖化騒動は、経済の論理を知らない自然科学者と環境ロビーの作り出した幻想にすぎないのだ。

いい加減さの最適化

今月の『月刊ASCII』に書いた原稿について、磯崎さんからコメントをもらった。彼の批判は、要するに「日本のVCは、質量ともにそんなに悪くない」ということだ。資金量がベンチャー企業1社あたりだと日本のほうがむしろ多いというのは、そうかもしれない。VCと銀行を一緒くたにした私の書き方にも問題があった。しかし彼はもっぱら「貸す側」から見ているので、「借りる側」からみると、かなり違う姿が見えてくる。

私も複数のベンチャーの設立にかかわったが、日本のVCの敷居はかなり高い。収益の見通しがいい加減だと貸してくれないので、自己資金は縁故で集め、残りは地銀や信金やその系列のノンバンクで、というパターンが多い。この場合、貸してくれるかどうかの第1の基準は社会的信用で、第2に担保だ。担保というのは不動産に限らず、大企業がバックアップしているといった資金源で、最悪の場合は個人保証になる。しかし融資は定期的に返済期限が来るので、予定どおりの売り上げがなかったら、たちまちアウトだ。GoogleやYouTubeのように、赤字のまま何年も追加出資してくれるところはまずない。

これに対して、シリコンバレーのベンチャーは他人の金でやるギャンブルであり、失敗しても会社を解散したら終わりだ。Supernovaに出てきたベンチャーの話も、収益モデルの欠けたいい加減なものが多く、最大手のFacebookですら、黒字化の見通しを聞かれても答えられない。VCも、これに劣らずいい加減で、「歩留まりは10%。そこでいかにもうけるかが勝負だ」と言っていた。このように貸し手・借り手がともにハイリスク・ハイリターン志向なのがシリコンバレーの特徴で、このカルチャーは簡単にはまねできない。だからWeb2.0もシリコンバレーだったし、次もたぶんそうだろう。

他方、日本は3K(個人情報保護法・貸金業法・建築基準法)などの影響で、「官製不況」が強まっている。食品の賞味期限が1日違っていたぐらいでメディアの指弾を浴び、製品をすべて回収するような(よくも悪くも)まじめな風土では、冒険はできない。資金が供給過剰になっているというのも、裏を返せばベンチャーが少ないということだ。ただイタリアのように極端にいい加減だと、逆に投資が回収できないので、いい加減さの最適化が必要だ。少なくとも日本は、今のように「コンプライアンス」がすべてに優越する風潮を変える必要がある。

選挙のパラドクス

選挙のパラドクス―なぜあの人が選ばれるのか?民主主義は最悪の政治形態である――これまで試された他のすべての形態を除いて、というのは有名なチャーチルの警句だが、民主主義にも多くの形態があり、そのすべてが試されたわけではない。選挙制度改革の結果でも明らかなように、投票システムを変えただけで政治は大きく変わる(いいか悪いかは別にして)。

本書は、この投票システムをテーマにして、アロウの不可能性定理に始まる投票のパラドックスを紹介したものだ。巻末に用語解説と索引が(日本の一般書には珍しく)ついているので、いろいろな投票方式のカタログとしても、おもしろく読める。ただ、アロウの結論――理想的な投票制度は存在しない――は、不幸なことにいまだに正しい。そもそもどんな特性が「理想」なのかということについてさえ合意がないからだ。

しかし本書も、投票システムの数学的特性ばかりに関心を集中する「公共選択理論」の視野狭窄をまぬがれていない。現代の政治は代議制であり、アロウの論じたような直接民主主義で政策が決まることはほとんどない。そして投票は、すべての有権者が行なうわけではなく、しばしば半分近い有権者が棄権する。それは1票によって選挙結果が変わる可能性がないからだ。Grossman-Helpmanも指摘するように、これが民主主義が特殊権益政治に堕す最大の原因である。

1人の有権者が政治を左右することは不可能なので、彼らは他人の決定にただ乗りするのが合理的だ。政治に影響を与えることができるのは、多くの票をもつ集団のロビイストであり、彼らのインセンティブは大きい。たとえばウルグァイラウンドによる米の自由化に際して、農業団体が活動したコストは、政治家にばらまいた金を含めても100億円を超えないだろうが、その結果、彼らは6兆円の補助金を得た。建設業のようなロットの大きい産業でロビイングが活発なのは、このような費用対効果が大きいからで、これは民主主義の合理的バイアスである。

残念ながら、このバイアスを是正する決定的な手段もない。ライシュも指摘するように、資本主義が民主主義を「買う」危険性は、それが合理的になればなるほど強まるのだ。それは賄賂のような金銭の授受だけを規制しても防げない。たとえば労働組合が民主党に影響を与えて、票で政策を買うのは合法的なロビー活動であり、規制できない。そもそも政治活動の規制を決めるのは当の政治家であり、ゲーデルも指摘したように、現代の民主主義には論理的な欠陥があるのだ。

追記:オバマ候補が、連邦最高裁の銃保有の権利を認める判決を支持した。この「突然の中道化」の原因は、本書でも紹介されているmedian voterが政策を決めるという法則だ。標的が民主党のメディアンから全国民のメディアンに変わっただけ。

B-CASを「ちゃぶ台返し」すべきだ

ダビング10の施行を遅らせておきながら、メーカーが「ちゃぶ台返し」したとか何とか理屈をこねていた利権団体権利者団体が、その身勝手な主張に批判が集中すると、一転して「消費者重視」と称してダビング10を認め、7月4日からダビング10の開始が決まった。しかし、これは問題の解決にはならない。根本的な問題は、ダビング10もB-CASも独禁法違反の疑いが強いということだ。

欧州委員会は、スウェーデンの「B-CAS」がEU指令違反だとして欧州司法裁判所に提訴していたが、このほどスウェーデン政府が法改正に応じたので、提訴を取り下げた。無料放送を暗号化するシステムが、独占を助長する違法行為であることは明らかだ。おまけにスウェーデンでは、これがBoxerという国営企業に独占されていた。

それでもスウェーデンの場合には、議会で法的に承認されていただけB-CASよりましだ。日本では、ARIBという天下り団体が法的根拠もなくB-CASを事実上義務づけ、メーカーもそれに従っている。ダビング10なんて法的な義務ではないのだから、Friioと同じように無視すればいいのだ。「談合の輪」から抜ける電機メーカーはないのか。

最大の違いは、欧州委員会は裁判に訴えてまでこういう反競争的な行為を取り締まっているのに、総務省=ARIBは逆に、この談合をお膳立てしてきたということだ。しかしB-CASやコピー制御が地デジの普及を阻害し、「5000円チューナー」を不可能にしている。総務省も、本音ではB-CASはつぶしたいので、つぶれるのは時間の問題だ。地デジ対応テレビを買うのは、B-CASとダビング10が「ちゃぶ台返し」されてからでも遅くない。

追記:TBで教えてもらったが、情報通信審議会でB-CASの見直しが検討されるようだ。

800MHz帯のパブリックコメントへの総務省の回答に対する反論

800MHz帯の電波利用についての山田肇氏と私のパブリックコメントに対する総務省の回答が発表された。ちょっと前までは「聞き置く」だけだったのが、個別に答えるようになったのは大きな前進だが、答になっていなくても反論できないのが欠点だ。そこでブログを利用して、インタラクティブにコメントしてみよう。われわれは
  1. 770~806MHz帯(以下800MHz帯)は主としてテレビ中継のFPUに割り当てられているが、実際にはマラソン中継だけの臨時利用である。したがってマラソン中継の行なわれていない時間・場所ではただちに開放すべきである。
  2. 総務省は、放送局に800MHz帯を用いたFPU中継の放送実績と今後の放送計画を報告させ、その結果を公表すべきである。
  3. 移動しながら中継する技術はすでに実用化されており、移動体SNG中継車が各局に配備されている。これを使えばマラソン中継もSNGで可能なので、800MHz帯のFPUへの割り当てはやめるべきである。
とコメントしたのだが、総務省は「1から3について」まとめて答えている:
移動体SNG 中継車は、ビルや電線等により伝送の途絶が発生し、都市部では移動中の中継利用が困難です。
総務省の官僚はテレビ中継をしたことがないから、これはテレビ局に問い合わせたのだろう。私は中継をしたことがあるから、こんな嘘はすぐわかる。マラソン中継はマルチカメラだから、「ビルや電線等により伝送の途絶が発生」する地点では固定カメラに切り替えればいいのだ。実際の中継では、事前にすべての地点を下見して詳細なカメラ割りをした台本をつくるので、こんなことは問題にならない。
一方、800MHz 帯FPU は、SNG やSHF 帯FPU よりも移動中の中継に適しており、マラソン中継に限らず報道中継等にも欠かせない伝送手段となっているものです。
これも嘘である。報道中継に800MHz帯を使うことはありえない。東京タワーなどの中継局が見えないと中継ができないので、事前に中継下見をしないと放送できないからだ。報道中継は、地方局でもSNGである(だからSatellite News Gatheringという)。「報道」とか「災害」とか「公共性」という錦の御旗を出せば、どんな無駄使いも許されると思ったら、大きな間違いである。

総務省は、根本的な1の疑問に答えていない。800MHz帯はマラソン中継専用なのだから、マラソン中継をしない場所では開放できるはずだ。その利用実績を示すよう2で求めたのだが、これに答えていない。しかしテレビ局のコメントには、「ロードレースなどでの移動中継に欠かせないシステムです」(NHK)など、800MHz帯はマラソン用だと正直に書かれている。

そのほか、ラジオマイクに使うなどと書かれているが、そんなものは1MHzもあれば十分だ。貴重なUHF帯に36MHz(時価4700億円)もの帯域を遊ばせているのは、莫大な浪費である。この帯域をオークションにかけるだけでも、地デジに移行するコストはまかなえる。電波利用料の流用ができなくなって、簡易チューナーの配布を生活保護世帯に限るなど、地デジ移行対策に苦しむ総務省にとっては、喉から手が出るほどほしい財源のはずだ。

それなのに、この帯域に手をつけられないのは、テレビ局の嘘を論破できないからだ。このように規制当局よりも規制される企業のほうが情報優位にある場合、当局が企業の情報操作によって彼らの利益を守る結果になる現象をregulatory captureとよぶ。通信業界の場合には、NTTに対して他社が違う情報を出すが、テレビ局は結束して嘘をつくので、見破れない。

おまけにテレビ局は、政治家をコントロールできる。先日、ある改革派といわれる政治家の側近が「地デジには問題があるが、うちの場合はマスコミを味方にして抵抗勢力と戦っているので、テレビ局を敵に回したらおしまいだ」と語っていた。皮肉なことに、世論を頼りにする改革派ほどテレビ局の批判はできないのだ。どこの国でもテレビ局は強力なロビー団体だが、競争のない日本のテレビ局は世界最強である。

追記:百歩ゆずって今のFPUを残すとしても、800MHz帯は「ホワイトスペース」として利用できる。

「近代の超克」とは何か

疎外論的な発想は、新しいものではない。古代に理想的な「始原」を求め、現状をそこからの堕落として描く物語は、『創世記』にもみられる神話のステレオタイプの一つである。その典型が1942年、『文学界』に掲載された座談会「近代の超克」である。

ここでは亀井勝一郎、小林秀雄、河上徹太郎などが、現代風にいえば市場原理にもとづく「ネオリベ」を近代の人間疎外として否定し、「グローバリズム」に対して「アジア的共同体」を対置する。著者も指摘するように、こうした言説は今日も「東アジア共同体」として再生産されているが、それが侵略戦争を追認する論理として「大東亜共栄圏」などに悪用されたことは否定しようがない。

しかし、こうした西欧近代への違和感が繰り返し語られるのは、理由のないことではない。社会を個人に分解し、利己主義を肯定する経済システムは、人々の「利他的な遺伝子」に反するからだ。日本でも、福沢諭吉の国権論は李氏朝鮮を倒そうとする朝鮮独立党と連帯するものだったし、北一輝の「東洋的共和政」は中国の国民党を支援する思想だった。大川周明はガンディーとともにインド独立のために闘い、コーランを全訳した。戦前の知識人は、ビジネスベースで「アジア重視」を語る今日の財界人より、はるかに深いレベルでアジアと連帯していたのだ。

朝鮮や満州の植民地支配も、欧米諸国のように徹底的に搾取するものではなく、むしろインフラを建設してその収益を回収する前に戦争に負けたので、収支は赤字だった。中国や朝鮮が「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」などをいまだに針小棒大に語るのは、ナショナリズムを鼓舞して政権を安定させるための国内向けの宣伝にすぎない。こうした政治的事情のない台湾では、日本を敵視する議論はない。

戦後の占領軍統治によって西洋/東洋という対立軸は侵略戦争のイデオロギーとして葬られ、「大東亜」を語ることはタブーになった。しかし人類の数十万年の歴史の中で、西欧近代はきわめて特殊なシステムであり、文明圏を超えて普遍性をもつかどうかはわからない。それを「超克」しようとする思想はすべて失敗したが、問い続けることは必要である。著者のいう「非戦的国家」などという幻想が、その根拠になるとは思えないが。




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