2008年04月

テレビ進化論

最近、送っていただく本が増えた(*)。当ブログの販促効果が知られるようになったからだろうか。『さらば財務省!』などは、当ブログ経由で140冊も売れた。ほとんど大型書店なみだ。先週は5冊いただいたが、そのうち2冊が本屋で買ったあとだった。本書もその1冊だ。

著者の出身は経産省コンテンツ課の官僚だが、風貌はとてもそうは見えない。本書の中身も、ギョーカイの複雑怪奇なしくみを客観的に分析した入門書だ。書評は来月発売の『アスキードットPC』に書くので、ここでは気になった点を一つだけ:106ページ以下で、「地デジという名の時限爆弾」がテレビ業界を震撼させている様子を描いているが、その原因が「電波を有効利用したいという政府の決定によるものだ」というのは間違いである。

FAQにも書いたように、郵政省の頭には「有効利用」なんかなかった。これは(Q2に書いたように)後からつけた理屈だ。ハイビジョン(MUSE)がMPEGに負けたので、それを取り戻したいという産業政策がメインだった。しかもデジタル化するならCSでやればよかったのに、「県域免許を守れ」という自民党郵政族の政治力で、地デジが決まってしまった。当時、放送政策課長になる予定だったY氏は「1兆円以上かけて地上の中継局を建て直すなんてバカなことはやめるべきだ。CSなら200億円でできる」と主張したが、放送と無関係の部署に異動された。

要するに、「アメリカに負けるわけには行かない」という郵政省の面子と、「電波利権を守れ」という政治家の圧力で、ビジネスとして成り立たない地デジが決まってしまったのだ。当時、これに反対したのは10人だけだった。テレビはもちろん新聞も翼賛報道一色で、特に日経新聞はその後、私の原稿をいっさい載せなくなった。言論統制が誤った意思決定の軌道修正を困難にし、破滅的な結果をもたらすという社会主義の教訓を、日本のメディアがみずから示したわけだ。

(*)送り先は、職場(〒103-0028 八重洲1-3-19 上武大学大学院)にお願いします。

『紛争の戦略』 『個人主義と経済秩序』

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古典が2冊、復刊された(シェリングは初訳)。『紛争の戦略』は1960年、『個人主義と経済秩序』は1948年の本だが、内容はまったく古くなっていない。経済学に古典とよべる本は少ないが、この2冊は、少なくとも経済学部の学生は絶対に読むべき本である。

シェリングの本は冷戦を「協調ゲーム」ととらえ、核戦争を回避する「よい均衡」に到達する情報戦略を考えるものだ。こうした「均衡選択」の戦略は合理的には導けず、当事者の心理が重要だ。これはゲーム理論の最良の入門書であると同時に、今なお新しい問題を提起している。

ハイエクの本については、今さら解説するまでもないが、帯に「インターネットはここから始まった!」と書いてあるように、若い読者が読んでも新鮮だろう。版元のPR誌に私も推薦文を書いたが、ハイエクの本を1冊だけ読むなら、本書をおすすめする(アマゾンのタイトル表示がおかしいので、直したほうがいい)。

市場検察

6508fa8f.jpg先日、大学時代のゼミの先輩の日銀OBと話したとき、彼の後輩(私の先輩)である白川総裁の本が話題になった。「典型的なBOJ viewだけど、ああいうふうに系統的に整理して発表されたのは初めてだ」と彼は評価していた。「失われた10年」の根本原因は監督行政(prudential regulation)の失敗で、日銀がその手段をほとんど持たない「片肺」では、バブル崩壊をコントロールするのは無理だったという。

その監督を行なうべき大蔵省が、逆に官製粉飾決算で問題を拡大したことは、当ブログでも何度も書いたとおりだが、その大蔵省のでたらめな監督行政を監督するラスト・リゾートが検察だった。本書は、検察が「官治国家」の秩序からはみだした政治家をたたく従来の役割から、「市場の番人」として行政も含めて監視するビジネスモデルに変身することで権限拡大をはかる過程を描いたものだ。

前著は「村山さんも慎重に書いたなぁ」という印象で物足りなかったのだが、本書はかなり踏み込んで、記事にできなかったことまで書いている。特に、風俗接待をめぐる見込み違いで大蔵官僚を大量処分に追い込んだ石川逹紘・東京地検検事正を大蔵省が激しく攻撃し、彼が「整理」された経緯は生々しい。本書を読めば、マクロ統計しか知らない「なんちゃってエコノミスト」のインタゲ論議なんて笑い話である。

しかし最後に著者も書いているように、「官僚中心国家」のゆがみを監視するのが、官僚の中の官僚である検察しかいないというのは皮肉な状況だ。基本的には、政治や司法が官僚機構から自立し、民主主義のルールと民事訴訟で市場を監視するのが望ましいが、そのためには明治以来100年以上にわたって継承されてきた「官僚国家のDNA」を解体する気の長い作業が必要だろう。

人生越境ゲーム

著者は、私が非常にお世話になった恩師なので、客観的な書評はできないが、本書は日経新聞に連載されたとき話題になった、とても学者の自伝とは思えない波乱万丈の活劇である。

一つだけ補足すると、60年ブントの理論的支柱とされる「姫岡国独資論」は、今の過激派のような誇大妄想的な革命論ではない。「民主主義的言辞による資本主義への忠勤」などレトリックは過激だが、内容は意外に常識的で、トロツキーのスターリン批判と宇野経済学の国家独占資本主義論を現状分析に応用したものだ。本書でも43ページで少し紹介しているが、要点は
  • ソ連はスターリン官僚に簒奪され、もはや「労働者国家」とはいえない
  • 日帝は米帝から一定の独立性をもっており、「対米従属」という規定は成り立たない
  • 国独資は帝国主義(金融独占資本主義)の次の必然的な発展段階で、「構造改革」のような改良主義では変革できない
というもので、独特のジャーゴンを除くと、当時の現状認識としてはそう的外れではない。ここでいう構造改革は、トリアッティや江田三郎などの議会主義路線で、それを批判して暴力革命の必然性を説くという論理だった。もちろん当時の日本にそんな必然性はなく、ブントは自壊したわけだが、すでに1950年代後半に、スターリン的社会主義を否定していたことは重要だ。「社会主義は80年代末に崩壊した」と思っている人が多いが、世界的にも60年代以降、社会主義の知的権威はなくなり、私の学生時代にも民青というのは頭の悪い学生の代名詞だった。

「新左翼」が、スターリン主義に代わる意味のある思想を生み出したわけではないが、それが何かを残したとすれば、現在の社会の枠組みを疑うという精神だろう。それは意外に社会科学にとって大事なことで、些末な「社会工学」モデルを数学的に飾ることが自己目的になっている現在の経済学に比べれば、60年ブントのほうが志は高かったといえよう。

岩波書店の死

最近、岩波文庫版の『一般理論』が売れているらしいが、これは絶対に読んではいけない。もともと原著が、サミュエルソンも「あの本が出た当時、MITで理解できる人は1人もいなかった」といったほど、難解(というより支離滅裂)な本である。おまけに訳者は、マクロ経済学を勉強もしたこともないマル経。理解不可能な原著を理解能力のない訳者が訳して、読者が理解できるはずがない。

さらにひどいのは、今週でた本山美彦『金融権力』(岩波新書)だ。これはほとんどネタである。「読んではいけない」という冗談で書いたコラムを最近、復活したら、意外にアクセスが集まっているが、17冊のうち7冊が岩波の本だ。私は岩波に幻想をもっている世代ではないが、それにしてもこの質の低下は目をおおわしめるものがある。

最近では大江健三郎訴訟で、裁判所に「大江氏の記述は事実ではないが、誤解してもしょうがない」と助け舟を出してもらって、かろうじて一審では助かった。しかし「人権擁護」をうたう岩波は、「集団自決を命じた証拠はない」と裁判所も認定した赤松大尉を、屠殺者という差別用語で罵倒する『沖縄ノート』の記述を、このまま重版し続けるのか。岩波も社会主義と一緒に、墓場に行ったほうがいいのではないか。

知財創出

経済学の分野で、いわゆる知的財産権を研究している研究者は少ないが、著者はその一人である。本書の原著は4年前に出たもので、この分野のスタンダードといってもよい。中心は特許で、アメリカの混乱した特許制度の改革が重要なテーマだ。この点については米政府も最近、審査の厳格化や先願主義への転換で「パテント・トロール」を駆除するなどの方針を決めた。

本書の重要な指摘は、財産権モデルは創作を促進する唯一の手段ではないということだ。歴史的には、重要な発明に国王が賞金を出すしくみのほうが古く、多くの文明圏で採用されてきた。現代でも、Kremerの提案のようにそういうシステムは可能であり、実験も始まっている。また科学研究への政府助成は、賞金システムの一種だ。

かつて農業社会では、あらゆるものが生物をモデルにして理解されたように、工業社会ではすべてのものを工業製品=私有財産をモデルにして考える。これは認知コストを節約する上では合理的だが、情報という財産モデルに合わないものを工業社会の枠組みに押し込もうとするバイアスが、多くの問題を引き起こしている。

廣松渉のいったように、今後200年ぐらいの世界は言語をモデルにした事的世界観で理解されるようになるとすれば、このゲシュタルト転換には、まだ数十年はかかるだろう。知的財産権をめぐる混乱の根底には、この世界観の違いがあるような気がする。

ネット規制について冷静な議論を

きのうMIAUに続いてthink-filtering.comという団体がネット規制に「反対声明文」を出し、きょうはマイクロソフトやヤフーなど5社が反対声明を出した。しかし反対声明がたくさん出るのに、その対象となっている「規制法案」とは何なのか、よくわからない。

こうした声明で想定されているのは、当ブログで今月初めに紹介した通称「高市法案」だと思われるが、これは自民党として党議決定されたものではない。総務部会がきのうまとめた「インターネット上の違法有害情報対策について」をきょう見たが、努力義務を定めているだけで、罰則はない。民主党でもらった「子どもが安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律案」も、ほぼ同じで罰則はない。

自民党内でも高市法案は少数派で、支持者は10人前後だといわれる。きょう国会周辺で聞いた限りでは、高市法案が党議決定される可能性はきわめて低く、民主党が罰則に反対しているため、国会で成立する可能性はまずない。今の情勢では、自民党の総務部会案と民主党案が衆議院内閣委員会で一本化される見通しが強い。したがって高市法案に対して反対声明を出しても、政治的な意味はほとんどない。むしろ重要なのは、もっと現実的な立法論だ:
  1. 法律は必要か。自主規制だけでよいのではないか
  2. 罰則は必要か。自主規制だけで実効性があるか
  3. 有害情報の基準をどこまで厳密に規定するか
  4. 紛争処理機関をどう整備するか
  5. 技術的にどこまで対応できるか
1については、携帯については自主規制団体もできているので、必要ないだろう。ただPCについては、自主規制の実効性が疑わしい。ISPの数が非常に多いからだ。またISP側からは、コンテンツを削除した場合などの民事免責を求める要請がある。このためには、自主的に削除できる基準を法的に決める必要があろう。ただ、これだけならプロバイダ責任制限法の改正でも対応できる。

2が最大の問題だ。携帯の場合は自主規制でカバーできるが、PCの場合は自主規制団体に参加しない業者は、そもそも網にかからない。2ちゃんねるやはてなのような確信犯には、ペナルティを課すことができない。この場合は、ISPでサイト丸ごとフィルタリングするしかないが、ISPにも確信犯がいるので、悪質ISPの商売が繁盛するかもしれない。

3については「有害情報の基準が曖昧だ」という批判が多いが、これは逆だ。個人情報保護法のように実定法で厳密に決めると、かえってにっちもさっちもいかなくなる。むしろ基準はゆるやかに決め、その運用は自主規制団体が実態に応じて変えたほうがよい。

4については、高市法案のように警察官僚による第三者委員会で処理するのは最悪だ。ホットラインセンターの能力も足りないので、むしろ一定の基準を設けてデータベースを共有し、民間団体が自由に参入すればいい。たとえばMIAUがADRになってもいい。無料でサービスを行なう必要もない。裁判所でも印紙税を取っているのだから、ビジネスとして紛争解決をやってもいいだろう。そういう民間の活動をサポートする法律や予算措置は必要だと思う。

5については、フィルタリング技術には限界があり、今年の段階で罰則つきで強制するのは無理だ。しかしソフトウェアをダウンロード可能にするなど、体制をとる必要がある。これも無料である必要はなく、ウイルス対策ソフトのようにセキュリティの一種と考えれば、ビジネスとしての可能性もある。またNTTのNGNも、閉域網であるがゆえの安全性をアピールできよう。

まず自主規制でやってみて、それでも効果がないようなら、あらためて罰則(営業停止などの行政処分も含めて)の導入を議論する必要が出てくるかもしれない。しかし、とりあえず自主規制と努力規定という最小限の法律でスタートしてみてはどうだろうか。

個人情報保護法を廃止せよ

個人情報保護法について、国民生活審議会は「過剰反応」が広がっていることを警告する運用方針を出したが、改正や撤廃の方向は出さなかった。こんなことは、2004年に法律ができる前からわかっていたことだ。しかし、当時は「プライバシー絶対保護」を叫ぶ声が圧倒的で、自民党より過激な野党案が出て、今のようなことになった。

プライバシーについては、日本はOECDの8原則を1994年に批准したので、法律をつくらなければならなかったが、すでに先行して法制化した欧州では、過剰規制で問題が起こっていた。このため努力規定だけの基本法にし、金融・医療など一部の情報については個別法で対応するというのが通産省(当時)の方針だった。

ところが1999年に住基ネット法案ができるとき、「国民背番号反対」を叫ぶ人々が騒いだため、公明党が「個人情報保護法で厳罰を課さないと賛成できない」と言い出し、自治省(当時)は住所氏名まで含む罰則つきの個人情報保護法をつくることにした。これが間違いの始まりだった。特に日弁連が、「自己情報コントロール権」なるものを主張して、規制強化の旗を振った。

これに対して新聞協会は、法律には反対せず、「報道だけは適用除外にしろ」という声明を出した。他方、雑誌協会が「雑誌も適用除外にしろ」と騒ぎ、結果的には「著述業」まで適用除外になったが、こういうロビー団体のないインターネットは、ほぼ全面的に規制対象になった。

このとき「個人情報保護法は危険だ」と法律そのものに反対したのは、私を含む経済学者など20人だけだった。このアピールでも「罰則を削除する」「主務大臣が監督するのではなく、第三者機関(ADR)で紛争処理を行う」などの対案を出した。野党にも過剰規制を批判する人がいて、社民党の保坂展人氏がわれわれのアピールを引用して国会で質問したところ、細田IT担当相(当時)が答に窮して経産省の北畑隆生官房長(当時)に問い合わせた。これに北畑官房長が過剰反応し、経済産業研究所の理事長・所長と私に懲戒処分を出した。

この法案は3年近く店ざらしになっていたのだが、引き金を引いたのは野党案だった。そこには思想・戸籍などの「センシティブ情報」については収集も禁止するという規定が、(思想調査を恐れる)共産党や(身元調査を恐れる)部落解放同盟の主導で盛り込まれ、「これは危険だ」ということで、当時は政府案のほうがましに見えたのだ。

今となっては、何が正しかったかは明らかだろう。「運用の改善」ではなく、個人情報保護法は廃止すべきだ。今回のネット規制についても、高市案(警察庁案)が突出しており、総務部会はフィルタリングを「努力義務」とする案をまとめた。経産部会も慎重な姿勢で、自民党内の調整もまだ時間がかかりそうだ。こういうとき過激な野党案が出ると、個人情報のときのように政府案がそれに引っ張られるおそれがある。まず民主党に問題を理解してもらうことが第一歩だ。プロジェクトチームには当時、個人情報保護法に関与した人もいるので、その教訓を思い出してほしい。

公文俊平という偽善者

MIAUなどのネット規制法案に反対する共同声明に、公文俊平が署名している。彼は、いったいどの面さげて「インターネットの言論の自由」を語っているのか。4年前、メーリングリストでの発言を理由にして3人の研究員を「解雇する」と通告し、訴訟を起されて結局、この通告を撤回し、給与を支払わされて恥をかいたことを忘れたのか。

そのとき彼の暴挙に怒った国際大学特別顧問、中山素平氏は公文を国際大学グローコム所長から解任した。中山氏が故人となった今、これは貴重な歴史的記録なので、以下に一部、引用しておく。
平成16年4月19日
公文俊平様
中山素平
前略 用件のみ申し上げます。
 貴兄が昨年の10月末頃と記憶しますが来訪され、新年度からグローコム所長を退任されたい旨、申し出がありました。私は所長の実務は若い者に任せるべきと申し上げ、貴兄はこれを了承されました。
 その後、西、池田、山田3氏同席の上、私が彼らの性格・適性を知っておりますので、3人それぞれの分担についても直接、意見を申し上げました。然るところ、小生が本年に入り肺炎の為2ヶ月程入院している間に、貴兄と3氏の間柄が一変して対立し、加えて人事権のない辞令の乱発等により、グローコム内は混乱しました。[中略]
 仄聞するところ、貴兄が3氏に辞任を勧告していると言われていますが、グローコム内部のみではなく、一般社会の信用を失墜し、混乱させた責任は貴兄にあります。私は、牛尾氏、村上先生とグローコムを創立した先輩として、まず貴兄の即時辞任を勧告します。
早々
こうしてわれわれ3人をやめさせようとした公文は、逆に中山氏に解任され、多摩大学に逃亡したのである。その後、グローコムは所長も副所長も不在のまま解散状態になり、現在に至っている。このように表現の自由を踏みにじり、中山氏によって社会から追放された人物が、政府に「提言」するとは笑止千万だ。
 
公文は、もともと「社会主義経済」の専門家だったが、社会主義の崩壊とともに仕事がなくなり、NTTの御用学者として仕えているうちに、リクルート事件で未公開株を取得して東大から追放された。この提言には、他にも会津泉や山形浩生などナンセンスな連中が名を連ねているが、類は友を呼ぶとは、このことだろう。MIAUも、こういうのと縁を切らないと、自民党からも民主党からもバカにされるよ。

情報社会の倫理と法

今度のネット規制事件は「情報社会の倫理」とは何かを考えるいいきっかけだろう。まったくの自由放任で秩序が維持できないことは明らかだが、では自主規制で「倫理」を教育すれば秩序は維持できるのか。

これは法哲学では古い問題で、本書も少し紹介しているように、道徳をいくら教え込んでも、罰則がなければ実効性はない(だから「道徳教育」にはほとんど意味がない)。法哲学の標準的な理解は、ヘーゲル以来の「倫理の実体は、主観的な意見を超えて社会的に存在するルールと、違反を制裁するメカニズムである」というものだ。これは経済学も同じで、enforcementのない約束やモラルには意味がない。

しかしenforcementは、実定法には限らない。人類の歴史の圧倒的大部分では、それは共同体の暗黙の掟であり、英米では慣習法だ。それでも掟には「村八分」というペナルティがあり、慣習法には司法という第2次ルールがあるが、サイバースペースの自主規制には、そうしたメカニズムがない。普通の市場ではreputationが傷つくと客が逃げるというペナルティがあるが、2ちゃんねるや「裏サイト」は偽悪的なほど人気が集まる。

本書は、こういう問題に答を出しているわけではなく、主としてアメリカのコンピュータ関係の裁判の事例研究である。特に今回のネット規制とよく似ているのは、児童インターネット保護法だ。これは話題のマケイン議員が提案したもので、全米図書館協会が違憲訴訟を起こし、下級審では勝訴したが、連邦最高裁は2003年に合憲判決を出した。

今回の問題にも、簡単な答はない。本書で解説しているように、ケースを積み上げて試行錯誤するしかないだろう。日本の場合、問題の全容もわからない今の段階で刑事罰までついた規制を行なうと、個人情報保護法のように後戻りがきかなくなり、萎縮効果によって「官製不況」を拡大するリスクが大きい。




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