2008年03月

日米の金融危機:共通点と相違点

当ブログへのアクセス元で多いのは、IT業界と大学とメディアと官庁だが、それ以外ではファイナンス業界が多い。中でもトップは、ゴールドマン・サックスだ。当ブログの記事を英訳して本国に送る企業もあるようなので、こうした読者のために、Economist 誌の今週の特集を、日本との比較で紹介しておこう:

もちろん、きっかけはベア・スターンズ(BS)の破綻だが、今回の危機がこれまでと違うのは、金融商品を通じたネットワークの相互依存(entanglement)が非常に強く、複雑になっていることだ。しかも、どこに毒が入っているかわからないので、疑心暗鬼で銀行が債権回収に走ることが、さらに信用収縮をまねき、資金繰りが行き詰まる・・・という悪循環に入った。

こうした投資銀行は自己資本の最大4.5倍という巨額の負債でレバレッジをかけているので、融資が引き上げられると、たちまち資金繰りが行き詰まる(図)。しかも、ここから読み取れる「次の候補」が破綻すると、影響はBSの比ではない。


このあたりは、1997年の山一証券の破綻のときとよく似ている。その少し前に三洋証券が破綻したとき、コール市場でデフォルトを発生させるという日銀の致命的なミスのために、山一はコール市場で資金が調達できなくなった。支援を約束していた富士銀行も、自分が危なくなってきたので、約束を反故にした。私の友人は当時、社長室でつなぎ融資に走り回っていたが、11月には万策尽きた。BSの破綻も、直接的には短期資金市場で借りられなくなったのが原因だ。

だから日本のバブルとのアナロジーでいうと、今のアメリカは、リアルタイムでは1991年ぐらいだが、プロセスタイムは一挙に1997年末ぐらいに飛んでいる。これは、ある意味ではいいニュースだ。危機が表面化することが「外科手術が必要だ」というシグナルを国民や政治家に送るからだ。そうなれば、日本のようにぐちゃぐちゃの処理をしても5年ぐらいで片づいたので、今回の危機もそう長期化しないだろう。

ただ今回の危機が日本と違うのは、このentanglementだ。邦銀の業務は単なる金貸しだったので、その債権債務関係はわかりやすく、大企業にはメインバンクがあったので、責任の分担もわかりやすかった。ここでは、ゾンビ企業を追い貸しで延命する soft budget constraint が問題だった。

しかし欧米の銀行はそういう「義理人情」で動かないので、一挙に破綻が表面化した。こうなると、問題は Blanchard-Kremer のいう秩序破壊(disorganization)の局面になる。日本の場合は、こうなっても公的資金を逐次投入して、そのほとんどを失った。その教訓からいうと、2002年の「金融再生プログラム」(竹中プラン)ぐらいまで飛ぶのが賢明だ。このプラン自体にはいろいろ問題があり、最後は(債務超過だった)りそな銀行を救済するなど中途半端だったが、これが邦銀に「soft budgetを断ち切れ」というシグナルを送り、一挙に処理が進んだ。これと日銀の量的緩和があいまって、ようやく日本経済は2003年に底を打った。

その教訓からいうと、FRBが流動性をジャブジャブに供給すると同時に、ブッシュ大統領のように公的介入をためらわず、「腐ったリンゴ」はただちに国費を投入して破綻処理し、できればBSのように事業譲渡で市場からつまみ出すべきだ(小さいリンゴは清算してもいい)。Economist誌は、まだ「内科療法」でやれると考えているようだが、これは甘い――と自信をもっていい切れるのが日本の悲しい強みだ。

要するに、今回の危機は日本の危機をフィルムの速回しのように加速し、一足飛びに公的介入の必要な最終局面に入っているのだ。金融庁や日銀がこういう教訓をFRBに積極的に提供してはどうだろうか。バーナンキは持論の「ルール型金融政策」が破綻して右往左往しているようだから、本質的な問題は信頼の回復だ、というケインズとハイエクがともに強調した1930年代の教訓をレクチャーすればいい。

こういう意味では、日銀総裁に財務官僚OBを起用することにこだわっている福田首相は、林文夫氏もいうように、どうしようもないアナクロニズムだというしかない。民主党の山岡国対委員長は「白川総裁ならすぐ飲む」と明言したのだから、白川総裁がベストだと思う。「若すぎる」なんて拒む理由にはならない。

サブプライムの不確実性

フェルプスがサブプライム危機についてのエッセイをWSJに寄せている:
最近まで、未来は合理的に予見できると称する経済学と、リスクを合理的に管理できるという「金融工学」と、インフレ目標のような「ルール型金融政策」ががファッションだった。しかし、その種の理論は最近の大規模な危機をまったく説明できない。

1920年代には、ナイトやケインズが「不確実性」にもとづく経済学を構想した。またハイエクの理論は、フリードマンや私が考えた自然失業率の理論の先駆だった。彼は、長期的には政府は金利や失業率をコントロールできないと考えた。しかし、これはその「自然」な率が一定だということではない。

ハイエクの理論によれば、自然利子率はバブルによって上昇し、中央銀行がそれに沿って金利を上げないとインフレが起こる。これが今回、起こったことに近い。
私もハイエクの本を書く必要上、彼とケインズのややこしい論争(というかハイエクの一方的な批判)を読んだが、彼らの見解は見かけほど違っていない。2人とも、長期的な自然利子率や自然失業率はコントロールできないという点で一致していたが、ケインズは短期的には政府の金融・財政政策に意味があると考え、ハイエクは中央銀行が自然利子率から外れた金利を設定すると、経済はかえって不安定化すると論じた。

大恐慌はケインズが正しかったことを示すようにみえたが、最近の研究はハイエクのほうが正しかったことを示唆している。今回も、おそらく歴史はハイエクが正しいことを証明するだろう。「自然率」は人々の心理によって決まるもので、政府がコントロールできないからだ。

最近の状況を考えるには、RBCとかDSGEなどの衒学的な飾りばかり多い「設計主義的合理性」の理論より、1930年代の巨匠の議論のほうが参考になる。LucasからPrescottあたりまでの理論は、あと100年ぐらいたったら、マーシャル~ケインズ~ハイエク~カーネマンと続く経済学の流れの脚注みたいなものになるのではないか。

さらば財務省!

ご存じ高橋洋一氏の、財務省への決別の辞。といっても、ありがちな暴露本ではなく、半分ぐらいは名著『財投改革の経済学』の一般向け解説だから、専門書を読むのがつらい人は、本書を読めばだいたいのことはわかる。あとの半分は彼の個人史で、酒の席で聞いた話に比べるとかなりおとなしいが、一般の人が読むと驚くような霞ヶ関の内情が書いてある。

ちょっと意外だったのは「大蔵官僚が数字に弱い」という指摘だ。著者が財投のファンドマネジャーになる前は、金利リスクもヘッジしないで、兆単位の穴があくような運用をしていたという。たしかに東大法学部卒で、経済学も会計も勉強していない人がやるのだから、そんなものかとも思うが、数百兆円の会計を「丼勘定」で運用していた実態にはあきれる。

著者が理財局にいたときやった資金運用部の解体(財投債の発行)によって、財投改革の「本丸」は終わっていた。一般には知られていないが、ここが実は最大の分かれ道で、民営化はそこから必然的に出てくる結果にすぎない。だから小泉内閣で行なわれた郵政民営化は、本丸が落ちてから外堀を攻めるような奇妙な闘いだったのだが、著者は不思議なめぐりあわせで、民営化も手がけることになる。彼がいなければ郵政民営化はできなかったし、その必然性もなかった。

おかげで彼は、財務省から徹底的にきらわれ、帰る場所もなくなった。それでも彼がこういう道を選んだのは、専門知識のおかげで、転職という外部オプションがあったためだと思う。普通のキャリア官僚は、いろいろなセクションを転々として、役所内の根回しのような文脈的技能しか身につかないので、民間でつぶしがきかず、役所にしがみついて天下りまで斡旋してもらうしかない。しかし彼のように財政や金融の知識があれば、いざとなったら辞めるというオプションがあるので、平気で役所の方針と違うことをやるわけだ。

今度の公務員制度改革に問題があるのは、そういう官僚のキャリア・パス全体の改革につながらない点だ。今のような「ジェネラリスト」養成の人事ローテーションをやめて、専門知識を身につけさせ、どんどん民間に出られるようにすれば、役所の中でも思い切ったことができる。それによって霞ヶ関も活性化するだろう。今のままでは、著者もいうように、霞ヶ関は小泉政権以前の状態に戻ろうとしているようにみえる。

「ネット法」について

一昨日、「デジタル・コンテンツ有識者フォーラム」という団体から、「ネット法」についての提言が送られてきた(送信元は法律事務所)。メディアからコメントも求められたが、最近バタバタしていて、文書をちゃんと読んでいない。また私は法律の専門家でもないので、以下は本文だけざっと読んだ上での、経済学の観点からのごくラフな感想である:
  • ベルヌ条約違反だ・・・と文化庁は脊髄反射するだろう。しかしベルヌ条約は国外の著作物との関係を拘束するだけで、国内の契約を拘束するものではない。事実、文化庁はベルヌ条約にない「送信可能化権」などを定めている。

  • 権利者がこれで合意するのか:今回の提言の目玉は、これまでハードコアの著作権強化論者だった角川歴彦氏が「有識者」に名前を連ねていることだ。権利者がすべてこういう方式で合意するというのなら意味があるが、彼の個人的な意見では大した意味はない。そのへんがはっきりしない。

  • 二重規制になるのではないか:著作権法の改正ではなく、新規に立法する意味がわからない。先日の記事でも書いたように、法制局は法律の矛盾や重複を極度にきらうので、著作権法が今のままで、それと矛盾する新法を出すのは無理だろう。結局は著作権法の改正が必要になるので、改正だけでやったほうが簡単だ。

  • 権利者さえ合意すれば新法は必要ない:逆にいうと、著作権法は強行法規ではないので、当事者が合意すれば、民法の「契約自由の原則」で、どんなライセンス形態も可能だ。もし権利者団体がこういう方向で合意するなら、新法を提案するより、イタリア方式で自主ガイドラインをつくればよい。

  • 所有権のドグマを脱していない:現在の著作権法の最大の問題は、中山信弘氏も指摘するように、情報を無理やり「モノ」として物権的に扱っている点にある。小倉秀夫氏も指摘するように、許諾権を残したままでは改革の名には値しない。「フェアユース」などという曖昧な概念では、所有権のドグマから逃れることはできない。

  • 流通業者の独占強化がねらいか:しかも「ネット権」を集中的にもつのは、著作者ではなく、「映画製作会社、放送事業者、レコード製作者」などの流通業者である。これは彼らを隣接権者から権利者に昇格させ、本源的な創作者の権利を奪うことになる。ウェブでは、こういう業者を「中抜き」してレディオヘッドのように効率的に配信する実験が始まっており、これはその流れに逆行するものだ。
要するに、こういう新法は実現するとも思えないし意味もない、というのが私の印象だ。著作権法を抜本改正し、隣接権を廃止して権利を著作者に集中し、許諾権や著作者人格権を廃止し、譲渡可能な報酬請求権として著作権を規定しなおすのが本筋だと思う。この場合、無方式主義を改めて登録制にし、いま放送業者だけに認められている包括ライセンスを、すべてのユーザーに可能にする規定も必要だ。著作者の委託を受けて報酬を一括請求する団体を流通業者からアンバンドルし、イタリアのSIAEのような「ワンストップ・ライセンス」を可能にすることが望ましい。

世界一優秀な日本のテレビ局

マスメディアが「第四の権力」だとはよくいわれることだが、舛添要一氏によれば、派閥の崩壊した自民党では「メディアが最大派閥になった」という。与野党のねじれで官僚機構の調整機能が麻痺してしまった現状では、「大連立」騒動を読売新聞が仕掛けたように、メディアが権力の空白を埋める第一権力になったのかもしれない。

きょうの「サイバーリバタリアン」で取り上げた電波の話は、先週のICPFシンポジウムで話した内容だが、そのあと、ある無線の専門家に「池田さんの言うことは、技術的には正しい。しかし、あなたの理屈はアメリカでは通るかもしれないが、日本では無理だ」といわれた。彼は、この話は「最初からVHF帯は放送業界が取り、UHF帯は通信業界に60MHz空けるという結論が決まっており、『懇談会』はその結論に誘導するセレモニーにすぎない」という。UHF帯(710~770MHz)を空けるのは「アナアナ変換に携帯業者の集めた電波利用料を使ったときの取引だ」。

なるほど・・・と納得してしまうのもよくないのだが、これが日本の現実だ。放送業界の政治力は圧倒的に強いので、行政も手をつけられない。彼らの政治力の源泉になっているのが、政治部の記者と政治家の癒着である。たとえば朝日新聞の政治部には、テレビ朝日の系列局の電波利権を取るのが専門の(記事を書かない)波取り記者がいる。企業の規模としてはテレビ局を合計したよりはるかに大きいNTTも、政治力という点ではとても及ばない。だから通信業界には曲がりなりにも競争が導入されたのに、放送業界の寡占は温存されているのだ。

彼らの既得権に手をつけると大事件になるのは、新聞の特殊指定のときも見せつけられた。すべての新聞が公取委を批判し、シンポジウムを開いて「御用文化人」を集め、国会議員や地方議員まで動員して、常軌を逸した騒ぎを繰り広げた。こういうときの彼らの特徴は「われわれの既得権を守れ」とは決していわず、「活字文化があぶない」とか「放送の公共性を守れ」などと正義の味方を装うことだ。

しかしテレビ局は、VHF帯でもうけるつもりはない。大事なのは、新規参入を妨害するために帯域をふさぐことなのだ。昨年の在京キー局の売り上げは1兆6000億円、経常利益は1250億円と好調だが、それは番組がすぐれているからではない。普通のテレビで、無料で見られるチャンネルがそれしかないからだ。拙著『電波利権』でも紹介したように、地上波テレビ局の企業戦略は一貫して、この寡占状態を守ることだった。ケーブルテレビを零細化し、BSは子会社で全部ふさぎ、IP放送は著作権を盾にとって妨害してきた。これは独占企業の行動として経済学の教科書に載っているmarket foreclosure(市場からの締め出し) という、きわめて合理的な戦略だ。(*)

彼らが「通信と放送の融合」に消極的なのも、同じ理由だ。欧米では、ケーブルやCSやネットとの競争に押されたテレビ局がYouTubeと提携したりしているが、日本では地上波局の寡占はゆるがない。今の楽なビジネスでもうかるのに、リスクをとって新しいビジネスをやるインセンティブがないのだ。だから楽天がTBSに「新しいビジネスで一緒にもうけよう」と呼びかけるのは、永遠の片思いである。TOBをかけないかぎり、何年たってもTBSは話し合いには応じないだろう。

この「第一権力」が他の三権より有利なのは、それをチェックする機関がないことだ。新聞社がテレビ局と系列関係になっているため、メディアの相互批判も封じることができる。おかげで、地デジもB-CASもコピーワンスも、ほとんどの人が知らないうちに決まってしまった。VHF帯も、そろそろ「着地点」が見えてきたようだ。電波利権を守る一貫した戦略と、それを守り抜く政治力という点では、日本のテレビ業界の力は世界一といっていいだろう。

(*)締め出しによく使われる手段が「垂直統合」である。だから放送業界が「水平分離」に反対するのも合理的だ。cf. Hart-Tirole

追記:この記事には、トータル5万を超えるアクセスが集まったので、英訳した。

日本政治のブラックホール

きのうの記事に「中の人」らしき読者から「法律の制定過程としては、省内調整→他省庁調整、法制局審査→与党議員根回し・・・とありますが、キーマンとなる人の誰か1人でも首を縦に振らない人がいたら、全てパーです。今は、この中に民主党も入ります」というコメントがあった。

日本の官僚機構では、こういう非公式のコンセンサスを得る調整のオーバーヘッドが非常に大きく、キャリア官僚の仕事の大半を占め、拘束時間が異常に長い。この原因は、公式の内閣―大臣―各省庁というツリー構造とは別の、族議員や他省庁とのスパゲティ状の非公式ネットワークで実質的な意思決定が行なわれるからだ。

その原因は、天皇制にある。東京の上空を夜、ヘリコプターで飛ぶと、まぶしいほど明るい都心に、ブラックホールのように真っ黒な空間が広がっている。皇居である。ロラン・バルトが、この空虚な中心が日本の社会を象徴しているとのべたのは有名だが、それは日本の法制度の象徴でもある。

明治憲法では、主権者である天皇が実際には政治権力を行使しないため、権力の空白ができた。この空白を埋める調整機能の所在は、時代とともに変化した。明治期には、この中枢に山県有朋などの元老がいたが、こうした非公式の調整機能はたぶんに属人的なものなので、藩閥の力が低下するとともに元老の重みは低下した。

元老に代わって空白を埋めたのは、政党だった。大正期には、官庁の主要ポストは政治任用で、官僚出身者が政治家になって政策を立案するようになり、政党が立法と行政を仲介して調整する機能をもつようになった。しかし二大政党は権力維持のために高級官僚ポストを独占し、財界との関係を強めて腐敗がひどくなった(『政党と官僚の近代』)。

特に昭和期に入って不況に突入すると、国民不在の政争を続ける政治家への不満が官僚にも強まった。岸信介などの革新官僚は軍部と手を結び、商工省を乗っ取って「軍需省」とし、中枢機能を「企画院」に集中した。政党も、政権をとるために軍部に迎合するようになった。戦時体制は、岸の信奉する北一輝の理想とした軍の支配による国家社会主義を実現するものだった。軍は「統帥権の独立」によって議会に制約されなかったため、いつの間にか本来の権力機構の外にあった軍部が権力の中枢になり、他の国家機構を食いつぶし、その暴走は止まらなくなった。

この中心なき官庁セクショナリズムは戦後も続いたが、高度成長期には大蔵省の予算配分機能が空白を埋めた。しかし予算が増え続ける高度成長期が終わると、各省庁の配分が固定化して、大蔵省の裁量の余地は少なくなった。そして90年代には、不良債権処理の失敗で、大蔵省の威信は低下し、金融機能を切り離されて「財務省」に格下げされた。

岸に連なる国家社会主義は、通産省の統制派として残ったが、総合調整機能は失った。通産省には、白洲次郎(初代の貿易庁長官)の流れを汲む国際派もあったが、昔から「平家・海軍・国際派」といわれるように主流にはなれなかった。この対立は「ターゲティング派」と「フレームワーク派」の対立として、その後も残ったが、後者は村上人脈にみられるようにパージされた。

だから中心は今も空虚なままで、むしろブラックホールは広がっている。かつての自民党では、派閥のボスが元老の役割を果たし、族議員にもボスがいて、たとえば郵政族なら野中広務氏に話を通せばOKだったが、今ではそういうボスが(よくも悪くも)いなくなった。最近では、衆参の「ねじれ」によって民主党までコンセンサスを広げなければならないため、政策は全員一致でないと承認されなくなり、政治は完全に止まってしまった。

しかし野党が議会で多数派になる状況は、大統領制の国ではよく起こるもので、フランスではcohabitation(同棲)という粋な名前がついている。アメリカでも、ブッシュ政権の指名した裁判官が上院の公聴会で拒否されるといった事態は珍しくない。日本では、官僚が「同棲初体験」で、野党に根回しするネットワークがないため、政治が止まっているのだろう。

今回の公務員制度改革は、こうしたスパゲティ構造を断ち切ってツリー状に整理しようとするものだが、それが実現するかどうかは、率直にいって疑問だ。怪文書にみられるような官僚の本音と一致しない制度をつくっても、彼らはそれを面従腹背でボイコットするからだ。官僚の人事を集中管理するという構想は、GHQの強要した職階制と人事院でも試みられたが、官僚は法律を制定しながら無視して職階制を空文化し、人事院の機能も最小化した。内閣人事庁も、同じような結果になるおそれが強い。

天皇というブラックホールは、1000年以上も続いてきた構造だ。武士が政権を取った後も、彼らは天皇の「臣下」であり、明治維新も天皇の代理人と称する下級武士による「復古」だった。この空虚な中心を「私が埋める」と僭称するような「不敬」は許されないだろう。だからブラックホールを取り巻くリゾーム状のネットワークも、法律ぐらいで変わるとは思えない。

霞ヶ関のスパゲティ

公務員制度改革が、土壇場で官僚の猛烈な巻き返しにあって迷走している。「内閣人事庁」をコアにして、公務員の業務と人事を官邸が集中管理するという法案は、渡辺行革担当相と中川秀直氏などの「反霞ヶ関」勢力と、その他の圧倒的多数の闘いになっているようだ。

その多数派工作の武器になっているのが、「公務員制度の総合的な改革に関する懇談会報告書への素朴な疑問」と題するA4で3ページの怪文書だ。今のところウェブに全文は出ていないが、河野太郎氏のブログによれば、概要は次のようなものだ:
  1. 政官の接触を集中管理すれば、国会議員が情報を得られなくなりかえって官僚主導になる
  2. キャリア制度を廃止して、優秀な公務員が集まるのか。一人の公務員が採用されてから退職するまでにどんなキャリアを歩むかという観点から制度設計を考えるべきではないか
  3. 懇談会が提案する幹部候補生育成システムはキャリア制度の看板の掛け替えではないか
  4. 人事を内閣一元管理にして、実際に仕事をしている省の人間以外がきちんとした評価をできるのか。大臣の任命権を制限することが適当なのか
  5. 内閣人事庁は、労働基本権の付与とセットになる話だ。それがなければ新しく庁を作るほどの業務量はない
ここには、官僚の本音が出ていておもしろい。彼らがもっとも強く抵抗しているのは、明らかに1の政治家への根回し禁止である。なぜ根回しがよくないのか、民間人にはわかりにくいので、マスコミも「イギリスの制度の直輸入で非現実的だ」などと(官僚に教わったとおり)批判しているが、これは的外れだ。実際の政策決定プロセスは、私の体験した例でいうと、
  • ある日、「緊急経済対策で2000億円」という補正予算が各省に「内示」され、通産省(当時)の「取り分」は500億円と決まる。正式発表は1週間後なので、それまでに500億円の使い道を省として決めなければならない。時あたかもITバブルの最盛期だったので、某課長補佐が私のところに来て「ITがらみなら何でもいいから、来週までに500億円の使い道を考えてください」という。
  • 私が半信半疑で、前から考えていた新技術のための「特区」を提案すると、その日のうちに電話が来て「200億出るので、ペーパーを書いてください」という。その新技術の専門家に電話すると、すぐ飛んでくる。彼と一緒に素案を書き、翌日、課長補佐と担当者を加えた打ち合わせをして、徹夜で提案を書き、提出する。
  • 正式発表の前日、課長補佐から電話があり、「最終候補に残ったんですが、**課の##先生がらみの案に負けました」。
わずか1週間で200億円が出ては消えたのだが、これがよくあるパターンの短縮版だ。「実働部隊」は課長補佐で、彼がネタ探しと文書の作成をし、総指揮と省内の分捕り合戦は課長が、政治家への根回しは局長級がやる。最終決定と対外発表は事務次官――要するに、政策立案に政治家はほとんど噛んでいないのだ。ただ分捕り合戦の中で「族議員」に根回しし、政治家の力関係が決め手になることが多い。これが問題の「政官の接触」で、本来の内閣を中心とする指揮系統とは別のルートで政策が実質的に決まる「官僚内閣制」の原因になっている。

これはプログラミングでいうと、SE=政治家の知らないところで、プログラマ=官僚がアドホックにコードを書き、それを「とにかく動くように見える」アルファ版にしてSEに見せる。SEの仕事は、いろんなコードからどれを選ぶかということだけで、全体設計がない。しかも出てくる紙はA4で3枚ぐらいなので、コードの中身はわからない。それより紙を持ってくる官僚との人間関係や「貸し借り」で法案が決まる。そして実際にコード(法律・政省令)を書くのは、プログラマまかせのブラックボックスだ。

この法律が、以前の記事でも書いたように、関連法が複雑に相互依存したスパゲティ構造になっているため、官僚にしか書けない。これが彼らの権力の源泉なのだ。特に法案として実装する段階になると、コーディングは官僚が独占しているので、彼らが勝手に仕様を変更することもできる(政省令でやることが多い)。そのコードも相互依存している上に、内閣法制局が厳格に重複や矛盾をチェックするので、他省庁や法制局との折衝にいちばん時間がかかるが、法制局を通った法案がつぶれることはまずない。

政治家の主な仕事は、完成したコードを事後承認して、国会で野党と話をつけること。9割以上の法案は国対レベルで通るので、この通常法案に入れることが最大のポイントだ。しかし、これにいちゃもんをつけたい官僚が、野党やマスコミにネガティブ情報を流すと、「対決法案」になる。こうなると国会の会期中は、毎日徹夜(といってもほとんどは待機)が続く。

今度の改革案は、こういうスパゲティ構造を改め、クライアント(内閣)が全体設計を決め、SE(閣僚)が仕様を決めてプログラマ(官僚)に発注し、プログラムの構造も、せめてC言語ぐらいの階層型に整理しようということだ。こうすることでコードの見通しがよくなり、リテラシーのない政治家やマスコミにもチェックできる。しかしそうすると、これまで実質的にSEの仕事をやってきたプログラマ(官僚)にとっては、いちばん大事でおもしろい仕様の決定の仕事をSEに取られ、自分たちには「土方仕事」しか残らない。

官僚が今回の改革案に抵抗しているのは、このように透明性の高いコーディングを阻止し、COBOLよりわかりにくい(全体像は誰にもわからない)スパゲティ構造を守って彼らの独占を維持するためなのだ。しかし皮肉なことに、今度の人事庁案は法案としてすでにコーディングされているので、いつものように法案化の段階で換骨奪胎することができない。だから「怪文書」という非常手段に出たわけだ。

このコーディングをやった「裏切り者」が高橋洋一氏である。郵政民営化が与野党の反対を押し切って通ったのも、彼がコーディングをやったからだ。おかげで彼は、本籍の財務省に戻れなくなったが、東洋大学に「脱出」した。彼によれば「法律を書くのはプログラミングとまったく同じで、文法は簡単だから2、3回やれば誰でも書ける」という。

だから人事庁に各省が「面従腹背」で骨抜きにしたら、官邸が民間からプログラマを公募し、直接コーディングをすればいい。ITゼネコンで土方仕事にうんざりしているエンジニアにも、政府という巨大なマシンを動かす、新しいエキサイティングな仕事が開けるかもしれない。

リバタリアンな日本経団連

きょうのICPFシンポジウムがニュースになるとすれば、総務省の「通信・放送の総合的な法体系に関する研究会」の中心人物である中村伊知哉氏が、「情報通信法」(仮称)について、「日本経団連の案を支持する」と明言したことだろう。

当ブログでも何度かふれたように、業界ごとに縦割りになっている通信・放送規制をレイヤー別に再編成する情報通信法の考え方は、私も10年前から提言してきたことであり、ごく常識的な改革だ。しかし、この「本丸」であるインフラの問題をほったらかしにして「表現の自由」ばかり問題になるのはおかしい、と中村氏はいい、「コンテンツの問題については、経団連の案のように原則規制なしにするほうがすっきりする」と評価した。

その経団連の提言は、ちょっと財界の文書とは思えないぐらいリバタリアンだ。特に通信業界にくらべて「放送については、制度発足以来、制度的枠組みについてほとんど手が付けられていない」と放送業界の後進性を指摘し、
通信分野においては、規制緩和とともに公正競争等の条件整備が進み、様々な新規参入や多様なサービスが展開され、サービスの質の改善や価格の低下が見られ、結果としてユーザーの利益が反映されるようになってきた。一方、放送の世界では、放送事業者の利害を調整する形での事業者中心の行政が旧態依然として行なわれている
と放送行政を批判している。その上で「わが国では、情報通信分野の競争政策の策定、執行、監視は、ほとんど事業者間調整に特化している」と指摘し、規制部門と産業振興部門が同一の組織で一体となっているかぎり、これは改まらないとして
わが国においても、来るIP時代を見据え、国家行政組織法第3条に基づく独立行政委員会として、電気通信・放送に関する独立規制機関の設置を検討すべきである。
と(総務省のもっともいやがる)規制部門の分離を提言している。さらに議論の集中しているコンテンツ規制については、
いわゆる「オープンメディア」における違法・有害コンテンツ対策は、事業者以外も対象となりうることから、法体系としての整合性の観点からも、全ての国民が守るべき法律としての一般法である刑法、プロバイダー責任制限法、知財法等の関連法、民間の自主的な取り組み、フィルタリング等の技術的な対応、国際的な連携により総合的に行うべきである。
として、基幹放送(地上波放送)だけに現状程度の規制を課す以外は「原則自由」とせよ、と結論している。これは総務省案では「一般メディアサービス」として規制の対象にしている放送型サービスを規制の対象から除外するものだ。その具体的な影響は、CSやIP放送でポルノのチャンネルが増えることぐらいだろう。ウェブ(ユニキャスト)に有害コンテンツがあふれているとき、IP放送(マルチキャスト)だけ規制するのは無意味だ。

私も、この経団連の案に賛成だ。以前の記事でも書いたように、表現の自由がどうとかいう議論は、放送業界が本丸のインフラ問題に手をつけさせないための「目くらまし」である。「外堀」にすぎないコンテンツの話はもうやめ、本丸から先に議論すべきだ。

電波社会主義の復活

社会主義はとっくに崩壊したと思っていたら、電波行政の世界では、ほとんどの人の知らないところで、社会主義が密かに復活しているようだ。

3月10日に、総務省の「携帯端末向けマルチメディア放送サービス等の在り方に関する懇談会」の第9回会合が非公開で行なわれたが、関係者によれば、VHF帯のアナログ放送を止めた「跡地」には、現在のワンセグの延長上の技術であるISDB-Tmmが採用される方向らしい。しかも、これを提案しているのはテレビ局なので、電波の割り当てを受けるのもテレビ局の子会社になりそうだ。彼らは「VHF帯はもともと放送局のものだ」と主張しており、この懇談会も最初から「携帯端末向けマルチメディア放送」という用途を総務省が決めている。

この案には、根本的な疑問がある。第一に、2011年にVHF帯が空くという想定は、非現実的だ。地上デジタル放送「対応」テレビは、今年2月で3100万台に達しただけ。テレビの生産台数は年間約1000万台で一定しているので、これから売れるテレビがすべて地デジ対応になると仮定しても、2011年7月の段階で6600万台。全国に1億3000万台あると推定されるテレビの半分にすぎない。

この状態でアナログ放送を止めて、残り6000万台以上のテレビを粗大ゴミにする計画を総務省が本当に実施するなら、それを国会に説明して、国民の合意を得るべきだ。特に、低所得者が取り残された状態で電波を止めた場合、放送の「ユニバーサルサービス」をどうやって維持するのか。また、このような大量の廃棄物を政府が作り出す政策が許されるのか、環境省とも協議して説明すべきだ。

この意味で、VHF帯の利用計画はもともと「空中楼閣」なのだが、立ち退きが不可能でも、ガードバンド(局間の電波のすきま)を利用してサービスを行なうことはできる。少なくとも2011年の段階では、こういう形でサービスが開始される可能性が高い。こういう緊急避難計画(contingency plan)が考慮されず、行政の決めたことは100%実現するという前提で計画が進められているのも、相変わらずだ。

第二の疑問は、このように細切れの周波数帯でサービスが開始されるとすると、ISDB-Tmmで想定されているような社会主義的な周波数配分は不可能であり、望ましくもないということだ。2.5GHz帯では各事業者に自由な伝送方式を選ばせた総務省が、VHF帯ではほとんど地デジの周波数割り当てのような案を出してくるのは不可解だ。「放送村」だけは、まだ社会主義の夢から覚めていないのか。

第三の疑問は、ISDB-Tという「日の丸技術」を政府が決めることだ。総務省の資料でみても、ISDB-Tは日本とブラジルにしかない「パラダイス鎖国」技術である。世界的には、DVB-Hが事実上の国際標準で、アメリカではクアルコムのMediaFLOでサービスが始まっている。つまりこれは、かつての携帯電話のPDCの失敗を繰り返す可能性が高い。ただでさえ国際競争力のない日本の通信機器産業は、これで壊滅するだろう。

要するに、VHF帯の利用計画は、電波利権をテレビ局とITゼネコンが山分けする方向で進んでいるのだ。UHF帯についても、「懇談会」という名の官製談合が進められている。アメリカの700MHz帯オークションにはグーグルが参入し、イノベーションが期待されているのに、日本では政府が日の丸技術を決めて既存業者に割り当てるのは、「イノベーションによって成長力を高める」という政府の方針と矛盾するのではないか。

明日のICPFシンポジウムでは、こうした電波社会主義の復活に対して、ユーザーがどう対応すべきかを考えたい。まだ空席があるので、どうぞ。メディアの方は「取材だ」と言っていただければ、入場料は無料です。

追記:この「携帯マルチメディア放送」よりさらに怪しいのは、「コミュニティ放送」や「地方デジタルラジオ」などに大部分が割り当てられる全体計画だ。こうした用途は汎用無線で実現できるので、帯域を細分化せず、汎用のIP無線に割り当てるべきだ。

「収穫逓増」の幻想

今週の「サイバーリバタリアン」のテーマは「撤退」。今週もソニーがドコモの端末から撤退するとか、新銀行東京も撤退論が与党にも出てくるなど、撤退の価値が話題になっている。

先週の記事では、マイクロソフトが大きくなりすぎたのがよくないと書いたが、今回のコラムでは、日本の携帯電話メーカー11社を合計してもノキアの1/3にもならない「過小規模」が競争力の弱い原因だと書いた。両者は矛盾しているようだが、そうではない。前者は、OSとアプリケーションのような異なる部門を社内にもって部品を自社生産することによる範囲の経済、後者は固定費が大きい場合、大量生産することによって単価が下がる規模の経済の問題だ。

IT産業では、部品がモジュール化されてグローバルな市場が成立しているので、範囲の経済はほとんどない。他方、規模の経済は多くの工業製品にみられるが、IT産業ではソフトウェア開発のような固定費が大きくなる一方、半導体のコストが下がったため、この効果が特に強い。もう一つ、ある規格が標準になると、多くの人が使うがゆえに普及するというネットワーク外部性もある。

ITバブルのころは、これらを全部ごちゃごちゃにして収穫逓増と呼び、「シナジー」とか「ひとり勝ち」などの効果を誇大に宣伝する経済学者がいた。それを真に受けて、ソニーの出井社長は900社以上の連結子会社をつくったが、結果的にはソニーのコーポレート・アイデンティティが曖昧になり、イノベーションを生み出せなくなってしまった。

特にiPodより先に音楽配信市場に出ていながら、自社レーベルの「知的財産権」にこだわってMP3をサポートしなかったのは、典型的な「範囲の不経済」である。PS3の開発のときの最大の誤りは、ゲーム機単体ではなく、CPU「セル」の外販で採算をとる計画になっていたことだ。結果的には、この範囲の経済もないことが判明し、セルの製造部門は東芝に売却された。残されたPS3だけで投資を回収するのは、絶望的だ。

他方、通信(特に携帯電話)やコンピュータの場合は、国内のクライアントに固有の規格に特化してしまい、国際競争がないため、「パラダイス鎖国」の中で、規模の経済のない会社が仲よく共存してきた。かりに日本メーカーの端末の開発費がノキアと同じだとしても、1台あたりの固定費は10倍以上ちがうので、とても競争にならない。ここでも「開国」によってグローバルな競争にさらし、資本市場で集約する必要がある。
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