2008年02月

株主を重視しない経営

北畑発言にみられるように、日本人の「株主ぎらい」は根深い。これは従来、いわゆる間接金融の優位や株式の持ち合い、あるいは日本の経営者が株主の介入をきらう心理などによって説明されてきたが、本書はそれを日本の株式市場の特殊性によって説明しようとするものだ。

堂島の米市場で世界初の先物市場が成立したことはよく知られているが、このように投機的な市場が早くから発達していたことが、株式市場にひずみをもたらした。戦前の株式市場では、出来高の9割は先物取引だったという。今でも株式を「銘柄」とよぶのは、商品取引の感覚だ。商品市況にはファンダメンタルズという概念はなく、気候などの偶然に支配されるのでギャンブルに近い。先物などの保険が発達したのも、こうしたリスクをヘッジするのが目的だった。配当性向もきわめて低かったため、インカムゲインはほとんど問題にならず、短期の投機的な売買が中心になった。

他方、企業の側も「株式会社」という西洋の概念をあまり理解していなかった。明治初期の経営者は士族出身が多く、企業ををモデルとして考え、個人の利益より家の永続性を至上目的とする傾向が強かったので、それを外部から牽制する株主という概念はなじまなかった。株式も額面発行だったので、経営者に株価を高めるインセンティブがなかった。

こうした特徴は、ある時期までは日本企業の強みだった。私の学生のころには「株主と経営者が一体化している古典的資本主義の時代は終わりで、これからは所有と経営の分離した日本型資本主義がいいんだ」と教わった。事実、昔の製造業では、利益は配当しないで、短期的な株価の変動に惑わされず、長期的な設備投資を行なうのが名経営者だった。

しかし、こうした株主無視の経営がエージェンシー問題をもたらし、経営効率を下げることが1970年代から意識され始めた。特に現代のIT産業のように、技術革新の急速な業界では、投資が成功するかどうかはだれにもわからないので、いろいろなプロジェクトを実験して、10のうち1ぐらい当たればいいギャンブルと割り切るしかない。そういうときにはVCのような株主が経営者を選び、失敗したら捨てる株主資本主義のほうが効率が高い。

ところが著者は、TiroleやRajan-Zingalesなどの理論を誤解して、「株主資本主義かステークホルダー資本主義か」という袋小路に入り、「バランスが大事だ」という曖昧な結論で終わってしまう。彼らは株主資本主義を認めた上で、物的資本でコントロールできないイノベーションを何によってコントロールするかを論じているのであり、諸々のステークホルダーの「経営参加」を求めているわけではない。せっかく株主軽視の原因を分析しながら、企業統治の制度論としては竜頭蛇尾に終わっている。

撤退のテクノロジー

今週の「サイバーリバタリアン」のテーマは、東芝の次世代DVDからの撤退だ。新事業に参入する判断は楽だが、撤退する判断はむずかしい。特にJensenが指摘したように、1980年代以降の情報革命で、技術の陳腐化のスピードが上がったため、大企業にとっては新たにプロジェクトを起すより赤字のプロジェクトから撤退するほうが利益に貢献するようになった。

こうした撤退をうながす金融技術が企業買収だが、これを「アングロサクソン資本主義は日本の風土に合わない」などと否定するのはまちがいだ。1970年代までは、アメリカの企業も「総合コングロマリット」として非効率な多角化を進めていた。これを解体・再編するテクノロジーとしてLBOが登場したのである。ただ究極の圧力は最終財市場で製品が売れなくなることで、今回の東芝のように勝敗がはっきりすれば、撤退も容易になる。

いずれにせよ、撤退の判断でもっとも重要なのはスピードだ。歴史的にも、撤退が早すぎて失敗したという事例はほとんどない(逆は山ほどある)。サブプライム問題についての欧米の対応をみても、不良債権を早めに償却して増資をつのるとか、破綻した銀行を国有化するなど、公的資金の投入もためらわないで撤退のスピードを最優先している。これは1990年代の日本の失敗が、強烈な教訓になっていることは疑いない。モルガン=スタンレーのロバート・フェルドマンは次のように書いている:
内外の投資家と話すと、日本が全く話題にならないわけではない。だが、日本に関する興味の中身が変わったように思う。[・・・]最近は、「米国、欧州で深刻化してきたサブプライム問題は、日本の失われた十年とどこが似ていて、どこが似ていないか」になった。すなわち、日本は反面教師の文化財である。博物館に置かれている恐竜のようで、どういうものだったのか、なぜ絶滅したのか、ということ。
彼は、日本のエコノミストが「古生物学者」になってしまった原因の一つとして、日本の司法・行政のレベルの低さをあげている。サラ金をめぐる不合理な最高裁判決によって、「クレサラ弁護士」が数多くの訴訟を起して消費者金融業を壊滅させ、TOBをかけられてから事後的に買収防衛策を導入する経営者の行動を最高裁が認めるなど、日本の司法は経済を知らないという評判が、世界の株式市場に広がった。

そして、こうした不信にとどめを刺したのが北畑発言だった。経産省のトップが個人投資家をバカよばわりしたことは、経済官庁でさえ経済を知らないというショックを世界の株式市場に与えたのだ。資本市場こそ撤退と参入を促進して経済を活性化するメカニズムであることも知らないで、株主を蔑視する彼に、何の処分もしない福田政権を「投資家があきらめる可能性が高い」。

こんな日本から、投資家が撤退するのも当然だ。フェルドマンも指摘するように、今それにいちばん敏感なのは、日本の投資家である。私の資産はもう90%以上が外貨建てだが、収益率がマイナスになったのは円だけだ。

IPアドレスの市場

ARINが、IPv4アドレスを売買できるように制度を改める方針を検討しているという。IANAの首脳も「アドレスの市場」の創設に積極的だ。市場化はいずれにせよ避けられないので、放置しておくとブラックマーケットができるだけだ。

当ブログで何度も指摘してきたとおり、「アドレスの枯渇」などという問題は、現在の社会主義的な割り当て制度の生み出した幻想である。Wikipediaをみただけでわかるが、市場で取引するのに適していない公共財とは
  • 非競合性:ある人が資源を利用しても他の人と競合しない
  • 排除不可能性:他人の利用を排除できない
という二つの条件を満たすものに限られ、それ以外の財は市場で配分することが可能であり、効率的だ。IPアドレスは競合的で排除可能だから、典型的な私的財であり、市場で配分すべきである。

この改革によって「IPv6の普及が遅れる」などという心配は、本末転倒だ。どっちみちv6は、v4の代わりにはならない。世界のサイトの99.9999%以上から見えないアドレスが、グローバルアドレスになることはありえないからだ。ただ携帯端末やNTT版NGNやIP電話などの閉域網の中のアドレスとしては使い道はあるし、中国政府は検閲に便利なので喜ぶだろう。

v4アドレスの再配分を行なう場合、むずかしいのは所有権の初期設定だ。現在のアドレスは契約もなしに適当にばらまいたので、所有権の所在もはっきりしないが、それを大量にガメているアメリカの大学などから没収したり、遊休アドレスに「課税」したりすることは政治的に不可能だろう。コモンローだけで動いているNICには、司法権力がないからだ。したがって、こうした既得権はそのまま所有権として認めるしかない。

これには(アドレスを大量に買う側になる)途上国から「不公平だ」と強い反対が予想されるが、このようなbribeによって資源の効率的な配分が実現し、「枯渇」が解消するなら、所有権と市場による紛争解決のメリットはそのコストよりはるかに大きい――というのが「コースの定理」の教えるところである。

次にむずかしいのは、配分メカニズムの設計だ。温暖化ガス排出権のように取引コストが非常に大きいと、市場が機能しないおそれが強いが、アドレスの取引コストはきわめて小さい。ドメイン名では、すでに多くのオークションサイトができているので、それに準じてやればいい。ただ、あまりバラバラに配分するとアドレスが断片化してルーティングの効率が低下するので、各NICが規制したほうがいいだろう。

一番むずかしいのは、「市場主義」に反対する感情論をどうやって説得するかだ。こんな簡単な問題が、ここまで追い詰められないと理解されなかったように、経済学のわからない人は経産省や自民党以外にも多いようだから、以前からインターネットに市場メカニズムを導入するよう提言しているHal Varian(グーグルのチーフエコノミスト)をICANNにまねいて、講義してもらってはどうだろうか。

アマデウス

きのうNHKの衛星放送で、久しぶりに映画「アマデウス」を見た。名作であることは確かだが、もとの戯曲(ピーター・シェファー)に比ると、あまりにもハリウッド的だ。これは同じ監督(ミロシュ・フォアマン)の「カッコーの巣の上で」も同じで、原作の狂気が平板なヒューマニズムになってしまっている。

私が戯曲『アマデウス』を最初に読んだのは、1980年にブロードウェイで初演されたころだったと思う。当時は、ヒルデスハイマーの『モーツァルト』など、彼の(卑猥な冗談の多い)書簡をもとにして従来の「無垢の天才」というイメージをくつがえす研究が出はじめていた。その演劇版として読んだのだが、単なる偶像破壊ではなく、「神と人間」をテーマにした傑作だ。映画より、こっちをおすすめする。

日本では、江守徹がモーツァルトを演じたが、まったくイメージに合わなかった。1984年の映画でも、トム・ハルスのモーツァルトはただのバカにしか見えない(マレイ・エイブラハムのサリエリは名演)。また原作では、人格の破綻したモーツァルトに才能を与えた神に復讐するため、サリエリがモーツァルトの仕事を妨害し、彼の殺害者という偽りの噂を広めて歴史に名を残すという話になっている。そのため、最後に彼が自分の復讐の意図を告げてモーツァルトに衝撃を与える場面がクライマックスなのだが、映画では本当に殺してしまう。だから芝居でもっとも印象に残る
サリエリ:われわれは毒を盛られたんだよ、アマデウス。私はお前という毒を、お前は私という毒を。
というせりふも出てこない。ただ、どっちにしてもお話であって、モーツァルトの音楽は頭の中で完成していたので、下書きもしないで作曲したといった類の話は、ロマン主義的な天才伝説にすぎない。実際には、何度も書き直した草稿がたくさん残っている。晩年の彼が貧窮のどん底にあったというのも神話で、当時の作曲家としては最高クラスの所得を得ていたようだ。ただ生活が荒れていて借金が多かったことは事実で、寿命を縮めたのも不摂生が原因らしい。死因は不明だが、リューマチ性の病気と推定され、もちろん殺害説は事実無根だ。

それにしても人類最高の音楽が、著作権のない時代のウィーンで生まれたのは皮肉である。もちろんモーツァルトもパトロンから報酬を得て作曲したので、楽譜についての財産権はもっていたが、それが公のものになったあとは、むしろ広く演奏されて新しい注文が来ることを望んでいた。21世紀の音楽も、モーツァルトの時代に帰るのではないか。

バイオ燃料の意図せざる結果

Freakonomicsによれば、化石燃料をバイオエタノールに替えることによって、CO2排出量は今後30年間に2倍になるそうだ。事実、南米ではバイオ燃料ブームで価格の急騰したトウモロコシを栽培するため、熱帯雨林が大規模に伐採されている。

そもそも世界で数億人が飢えに苦しんでいる時代に、食料を燃やしてしまうという発想が倒錯している。また「2100年の温暖化」を心配する以前に、「世界の石油があと68年で枯渇する」という予測もある。もちろん石油業界の調査だから、額面どおりには受け取れないが・・・

後藤田正純氏の「三流消費者行政」

私は、消費者行政というのは、行政の中心を産業振興から競争政策に変えることだと思っていたが、自民党消費者問題調査会の事務局長である後藤田正純氏にとっては、規制強化のことらしい。彼はこういう:
今の政治に必要なのは、行き過ぎた市場主義を是正し、健全な資本主義が根付く様々な手立てを講じること。企業と消費者の関係で言えば、明らかに情報の格差がある。例えば家族が欠陥製品を購入して何らかの被害に遭った時、その製品のどこに原因があるのか、消費者は知ることはできない。
これは「行き過ぎた市場主義」とは何の関係もなく、情報の非対称性とよばれるありふれた問題だ。1990年代に慶応の商学部で経済学の授業を受けた彼は、必ず習っているはずだ。それとも、彼は経済学を勉強しなかったのだろうか。
力の格差もある。貸金業の問題では、カネを貸す側と借りる側では、圧倒的に借りる側の立場が弱い。論拠のはっきりしない割高な金利を押しつけられても、それに抗うことは難しい。
「割高な金利を押しつけられ」たら、借りなければよい。事実、彼が強行した貸金業法の改正で消費者金融の貸付残高は半減し、中小の金融業者は壊滅した。借りる先を失った債務者の2割は自己破産するという調査もある。借りられない消費者は「ネオ闇金」とよばれる業者に流れ、多重債務問題はかえって深刻化している。ところが上限金利規制を批判した経済学者を、後藤田氏は三流経済学者と非難し、「サブプライム問題というのは日本で言うサラ金問題だ」という。サラ金は無担保金融、サブプライムは不動産担保金融であり、しかもサブプライムはノンリコースローンだから多重債務問題は起こらない。どうせ彼は、その違いも知らないのだろう。そして問題の消費者行政の方針を、彼はこう語る:
今の日本で手っ取り早い景気対策は、公正取引委員会が不公正取引をもっと厳格に審査して、廉価販売などの流通を規制することだ。廉価販売を規制すれば、ものの値段は上がる。これは一時的には、消費者に不利かもしれない。しかし、消費者が安いものを買うのは、家計が苦しいから。家計が苦しいのは、中小企業が大企業からダンピングさせられたり、過当競争で会社の業績が落ち込み、人件費を削られるから。家計が苦しいから、安くしないと売れない。こうしたデフレスパイラルに陥ったままにしないためにも、政府が適切な価格を導く政策を上手にしないといけない。
この文章は、何度読んでも意味がわからない。たとえば公取委が、ドンキホーテの「廉価販売」を禁止し、すべて300円以上で売るように規制したとすると、「家計の苦しい消費者」はドンキホーテに行かなくなり、ドンキホーテの経営は悪化し、従業員はリストラされるだろう。そんな規制は、消費者にも企業にも有害無益だ。どうやら後藤田氏は、価格を(規制で)引き上げたら、需要は減らないで売り上げが増えると思い込んでいるようだ。これはサラ金の金利を規制で引き下げたら、資金供給が減らないで金利だけが下がる、と彼が主張していたのと同じ錯覚だ。

こんな幼稚な議論を消費者行政の責任者が公言し、消費者行政を規制強化と取り違えるとは、とんでもない話だ。後藤田氏には、「三流経済学者」を罵倒する前に『落ちこぼれでもわかる経済学』を読むことをおすすめしたい。

意図せざる結果の法則

コメントで教えてもらったが、Marginal Revolution(もとはFreakonomics)に意図せざる結果についてのおもしろい記事が出ている。これは当ブログで何度も取り上げた「一段階論理の正義」と同じ話だが、産業政策にあてはめると、こうなる:
ある役所が「オメガ計画」という大プロジェクトをつくり、日本の「ICT国際競争力」を上げるため、「日本発の国際標準」をとった企業に技術開発費を政府が全額補助することにした。しかし普通の携帯電話技術は欧米企業が特許をもっているので、日本メーカーX社はそれとは別の「次世代PHB」という規格を開発し、ITUに提案した。実際の開発は孫請けにやらせ、X社は「管理費」として2割とる。ITUは、どうせそんな技術はだれも使わないので、"**** Annex.J"という名称で国際標準として勧告した。X社は、開発した技術を使わないで放置した。それによって開発費の2割をリスクなしで得ることができるからだ。(*)
つまり「日本の国際競争力を増進しよう」という意図で行なわれた政策は、X社の「死蔵技術」に税金を投入する結果に終わるのだ。この寓話と似たような失敗を、通産省(経産省)は何千億円もかけて繰り返してきた。総務省の2.5GHz帯についての不可解な美人コンテストも、実質的には日の丸技術への補助金だ。

なぜこういう法則が成立するのかについて、Alex Tabarrokは「自然なインセンティブに反する規制を行なうと、人々がその規制を私的な利益に利用する」ためだとしているが、実はこれはもっと一般的な、古い問題である。なんとカール・メンガーが1883年にそれを指摘しているのだ。彼はドイツ歴史学派の「社会は個人の集合以上の有機体なので、全体的な目的をもった政府が正しく導く必要がある」という主張に反対して、こうのべる:
[歴史学派の]社会現象の「社会的目的」論の特色は、その建設を目指す社会の意図にある。すなわち、こういう社会現象が主権者たちの共同意志の意図されたとおりの結果になる[と想定されている]。これに反し、実際の社会現象は、国民成員の個人的努力、すなわち個人的利益を追求する努力の意図されない合成された結果として現われ、したがって前述の社会現象と反対に、疑いもなく「個人的目的」の意図されない社会的結果であるという点に特徴をもっている。(『経済学の方法に関する研究』岩波文庫p.217、一部改訳)
ハイエクは後年、彼がメンガーから学んだもっとも重要なことは、この「意図せざる結果」の概念だったと語っている。社会主義計画当局(あるいは経産省や総務省)の意図したとおりに人々が行動するという保証はどこにもない。歴史はむしろ、その意図と反対の結果が生じることを示しているのである。

(*)この寓話はフィクションであり、実在の会社とも官庁とも関係ありません。PHBは、Pointy-Haired Bossの略(?Scott Adams)。

日本の消費者運動はなぜだめなのか

今週の「サイバーリバタリアン」のテーマは、消費者行政。

日本で消費者行政が遅れている原因は、消費者運動がだめなのも一因だ。消費者運動というと、おばさんがしゃもじ持って・・・というダサいイメージが強いが、アメリカではラルフ・ネイダーに代表されるように、財界に負けない強力なロビー団体である。その原因は、企業に巨額の損害賠償を請求する集団訴訟が、弁護士にとって非常においしいビジネスなので、消費者を組織して政府と闘う強いインセンティブがあるからだ(ネイダーも弁護士)。

これに対して、日本の主婦連は「配給のマッチがつかない」と言ってマッチ箱をトラック一杯に積んで政府に陳情したのが、発足のきっかけだそうだ。要するに政府と闘う組織ではなく、お願いする団体なのである。だから発足から60年もたつのに、主婦連はいまだに任意団体だ。これでは訴訟の原告にもなれない。

アメリカのような訴訟天国も考えものだが、日本のように消費者が何も行動を起さないと、バカだの無責任だのと官僚になめられる。MIAUも法人格をとるそうだから、まず手始めに、B-CASについて公取委に告発ぐらいしてはどうだろうか。

実験経済学からハイエクへ

解析ツールで調べると、この3日間で当ブログにアクセスしたドメイン名の1位は東大、2位は京大で、3位のNHK以下を2倍近く引き離している。これは休日でテクニカルな話題だったことによるバイアスが大きいと思うが、当ブログは意外に(?)学問的にまじめに読まれているようなので、研究者や大学院生には本書を強くおすすめしたい(ビジネスマンにはおすすめできない)。

著者(Vernon Smith)は、実験経済学のパイオニアとしてスウェーデン銀行賞を受賞した有名な経済学者だが、"Constructivist and Ecological Forms"という副題から予想されるように、これまでの実験結果をハイエクの理論で体系化しようとするものだ。従来の新古典派的な行動仮説を計画的合理性、それに対してハイエクのいう進化的なプロセスで獲得された知識を生態学的合理性とよび、両者のどちらが実験結果についての(定性的)説明力があるかを検証する。結論を大まかにいうと、

  • 市場のような非人格的な関係においては、計画的合理性による「経済人」仮説の説明力が高い。しかしこの結果は財産権という外的な条件に依存しており、その発生を説明することはむずかしい。そういう規範が自発的に成立するかどうかの実験では、生態学的合理性の説明力のほうがはるかに高い。



  • こうした「協力の生成」については、繰り返しゲーム理論による説明がおなじみだが、被験者がそういう将来のペイオフを計算した形跡はなく、「相互性」などの感情の影響が強い。協力を無理にゲーム理論の計画的合理性で説明するより、多くの社会科学で採用されている標準的社会科学モデル(SSSM)を仮説として検証したほうがよい。



  • 従来の計画的合理性のみにもとづいて厳密に構成されたメカニズム・デザインの理論は、政策として実用にならない。人々は、そこで想定されているような多段階の複雑な推論をしないからだ。現実の制度を設計する上では、実験的な成果を踏まえ、生態学的合理性にも配慮した経済システム設計(Economic System Design)が必要だろう。
といったところだが、こうした仮説が具体的な実験データをもとにして詳細に検証されているのをみると、経済学もようやく一人前の実証科学になったような気がする。しかもその基礎理論が、ここでもハイエクだ。経済学がながく厳密な科学として物理学だけをモデルにしてきたのは、不幸なことだった。生物学や生態学には数式なんかほとんどないが、厳密な実証科学だ。21世紀の経済学は、生物学をモデルにして発展するのではなかろうか。

追記:Amazon.co.jpの価格は、為替レートの計算を間違えたのか、異常に高い。私はAmazon.comで買ったが、紀伊国屋でも約8000円で買える。

買収防衛策は有害無益だ(長文)

北畑隆生氏の「株主はバカ」発言は大反響を呼び、ブログ検索でみると倖田来未の「羊水」発言を上回っている。しかし経産省では、blog.goo.ne.jpは有害サイト(?)としてフィルタリングされているそうなので、官僚諸氏が休日に読めるように、これまでの議論を整理してみた。なお、この記事は専門的で、一部は過去の記事やコメントと重複するので、興味のない人は無視してください。

会社はだれのものか

今回の問題の本質は「バカ」発言ではなく、北畑氏の「真意」を説明した講演録にある。その「会社は株主だけのものか?」というタイトルに示されるように、彼のねらいは会社法の「会社は株主のものだ」という規定の批判にある。彼はこう問いかける:
今の会社を見たときに、利益を生み出しているのはだれだと言えるでしょうか。お金は日本に千四百兆円あるわけですし、世界中に金があふれ返っていて、お金を持っている人が「全部、おれのものだ」というので、ほんとうにいいのでしょうか。むしろ会社は、社長以下、研究者、従業員という、現場で日々、創意工夫、改善をする人たちが利益の源泉のはずであって、株主が全部、それを取っていいというのは、今の会社の実態から言うと納得ができません。
彼は、経産省が実質的に所管する会社法を理解しているのだろうか。そこには「全部おれのものだ」などということは書いてない。会社法の規定する株主の権利は、次のようなものだ:
第105条  株主は、その有する株式につき次に掲げる権利その他この法律の規定により認められた権利を有する。
 1.剰余金の配当を受ける権利
 2.残余財産の分配を受ける権利
 3.株主総会における議決権
この1と2は経済学ではキャッシュフロー権、3はコントロール権とよばれる。両者は別の権利だが、コントロール権があればキャッシュフローもコントロールできるので、まとめて所有権(財産権)とよばれる。ここで剰余(residual)というのは、雇用契約などにもとづいて債権者に支払った残り(あるいは損失)であって、「利益を株主が全部とる」権利ではない。「会社は株主のものだ」というのは、こういう具体的で限定された意味である。

これに対して、北畑氏は「会社はステークホルダー全体のものだと思います」というが、このステークホルダーとは誰のことだろうか。彼は「株主も含めた、従業員、取引先、消費者など」のことだというが、こういう雑多な利害関係者が、どうやって議決権を行使するのだろうか。こうして関係者を広げていくと「社会的責任」論と似てくるが、これはフリードマンもいうように、株主の金で経営者が名誉を買うモラルハザードだ。逆に、北畑氏のいうように「ステークホルダーを尊重することが企業価値の最大化につながる」のなら、それは結局、株主価値の最大化と同じことだ(Jensen)。

北畑氏は「雇用を維持することも経営者の責任だ」というが、これも逆効果だ。業績が低迷したとき、株主価値を犠牲にして雇用を維持するような企業にはだれも投資しないので、ますます資金繰りが苦しくなり、雇用が維持できなくなる。それより解雇規制を緩和する代わりに、労働者が他社に移動できる技能形成システムを整備したほうがいい。「解雇自由」のスウェーデンで失業率が低いのは、こうした制度のおかげだといわれている。

要するに、会社法105条が規定する意味で、会社は株主だけのものであり、それが経済的にも合理的なのだ。経営者も従業員も会社と契約を結んでいるだけで、所有権(コントロール権)はない。環境や地域社会などの問題については、政府がルールを決め、企業がそれに従うのが民主主義である。

企業買収は悪か

北畑氏のねらいは「株主=無責任」と決めつけることによって、(特に外資系ファンドによる)企業買収を妨害する制度をつくることにあると思われる。彼は、2004年のソトー事件や昨年のブルドックソース事件を例にあげて、堅実経営の企業が、ある日突然、敵対的買収にさらされる恐怖を訴える。しかし、この二つの事件とも、買収は成功しなかった。ソトーの場合は、1株13円だった配当を200円にしたら株価が急騰し、TOB価格を上回った。ブルドックソースの場合は、事後的にポイズン・ピルを導入した。その教訓を北畑氏は、こう要約する:
買収を防ぐためには企業価値を高めることが必要だ。時価総額が安いから買収をされる。買収を防ぐためには、日ごろから配当を増やして時価総額を上げていなければいけない。
その通りである。経営者が株主価値を最大化することが最善の買収防衛策なのだ。理論的にいえば、経営者が効率的に経営しているかぎり、その企業を買収して利益を上げることはできない(Grossman-Hart 1980)。どうしても買収されるのがいやなら、北畑氏も認めるように、MBOで非上場会社になればいいだけのことだ。

このように彼の講演録を読んでも、彼の力説する買収防衛策を導入する根拠はどこにも見当たらない。彼は(官僚の習性で)自分の主張に対する批判を先回りして予防線を張っているうちに、自分で自分の論旨を否定してしまったようにみえる。彼の論理を演繹すると、日本で買収防衛策が必要なのは、大部分の日本企業が効率的な経営をしていないからだ、という結論が導かれる。これは残念ながら事実だが、効率の悪い企業を守る制度などというものは資本主義のルールに反する。

種類株式は必要か

しかし経営者が効率的な経営をしていても、何らかの悪意をもって株主価値を下げるために敵対的買収を行なう(あるいは行なうと脅迫する)ファンドがいるかもしれない。それに対抗するために北畑氏が提案している政策が、無議決権株や多議決権株などの種類株式である。北畑氏は、それが買収防衛策として有効だと信じているらしいが、残念ながら経済学の通説は逆である。

いまブルドックソースの株価が100円だが、本来の株主価値(1株あたり)が200円だとする。そこにスティール・パートナーズが150円でTOBをかけてきたが、彼らが経営権を取得してブルドックを切り売りしたら、株価は50円になると予想される。この場合、ブルドックの株主はTOBに応じるべきだろうか?

株式がすべて(議決権つきの)普通株で、すべての株主が合理的であれば、このTOBは成立しない。スティールに売らないで経営を改善すれば、株価を(最大値の)200円まで上げることができるからだ。しかし株式の半分が普通株(A株)、あとの半分が無議決権株(B株)だとすると、スティールはB株にはTOBをかけないで、A株だけにかけるだろう。この場合、A株の株主は、150円でTOBに応じるか、拒否して経営を改善するかの選択に直面する。

これはゲーム理論でよく知られる「複数均衡」だ。もし経営改善の見通しがないと見切りをつけた大株主がTOBに応じると、他の人もなだれをうって同調し、TOBが成立する協調の失敗が起こる。その結果、スティールが会社を投げ売りしたら、A株の株主は利益を得るが、市場でしか売れないB株の株価は50円になるので、株主は損害をこうむる。

したがって無議決権株を買うと、企業買収によって損害をこうむるリスクが高いので、よほど高いプレミアムをつけないと買う投資家はいないだろう。要するに北畑氏の期待とは逆に、無議決権株を導入しても、企業の資金調達コストがかさみ、株主が損害をこうむるだけで、買収防衛策にはならないのだ。したがって1株1票の普通株が合理的だ、というのが通説である(Grossman-Hart 1988)。

買収防衛策は「ぬるま湯経営」を温存する

北畑氏が考えているのは、既存の日本企業をいかに守るかという政策ばかりで、外資系企業やベンチャーの参入障壁は高くなり、古い産業構造の改革もむずかしくなる。そもそも日本の多くの企業は「持ち合い」という鉄壁の買収防衛策をもっているので、大規模な企業買収は不可能だ。おかげで投資家が日本から逃げ、中国やインドに向かっている。それが株安の根本原因である。

企業買収は、非効率なコングロマリットを解体・再構築し、アメリカ経済の復活に貢献したというのが通説だ(Holmstrom-Kaplan)。敵対的買収はその数%しかなく、成功率も低いが、キャッシュフローを浪費している「ぬるま湯」的な経営を改善させる圧力としては大きな意味がある。それによって企業価値が破壊されるリスクよりも、グーグルの時価総額を上回る企業が日本に1社もなくなり、衰退の一途をたどる日本経済で、何もしないリスクのほうがはるかに大きいのではないか。

上のような話は、Tiroleの教科書にていねいに説明してある。もちろん通説がつねに正しいとは限らないので、「企業のかたち研究会」が通説に挑戦しようというのなら立派なことだが、その前に経済学者をまねいてファイナンス理論の勉強会をやってはどうだろうか。


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