2008年01月

Roger Norrington

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ノリントン指揮、シュトゥットガルト放送響(SWR)のコンサート(サントリーホール)を聞いた。メインは、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲とベートーヴェンの交響曲第3番。メンデルスゾーンは・・・だったが、ベートーヴェンは相変わらず元気で、安心した。20年前、古楽器で小編成のLondon Classical Playersを率いて、超スピードのベートーヴェンで世界に衝撃を与えた彼も、今年は74歳。さすがに往年の切れ味はないが、楽団員までリラックスして楽しそうに演奏していたのはよかった。

彼がLCPでデビューしたときは、国内盤さえ出なかった。もちろん『レコード芸術』なども無視。小林秀雄以来の「泰西名曲」をあがめて「楽聖」を絶賛する御用批評家たちにとっては、ベートーヴェンの指定したメトロノームを逆用して従来の重々しい演奏をぶち壊すノリントンのアプローチは、我慢できなかったのだろう。国内に情報がないので、ファンがKanzaki.comというノリントン専門サイトまで作った。

その後、SWRで常識的な編成にしてからは国内盤も出るようになり、2003年にはレコード・アカデミー賞を受賞。「『演奏新時代!』とかいう評者のコメントが今更で笑いを誘います」と神崎氏は書いている。しかし演奏としては、LCPの全集のほうが今でもフレッシュだ。5枚組で4000円強というバーゲン価格で出ているので、こっちをおすすめする。ただ癖が強いので、万人向けではない。ベルリオーズの「幻想交響曲」やメンデルスゾーンの「イタリア」はよかったが、モーツァルトはぱっとしない。特に「魔笛」は最悪だった(いずれもLCP)。

SWRになっても、ノリントンのアプローチは基本的に変わらない。それは、ベートーヴェンを「楽しむ」という姿勢だ。モーツァルトまでの音楽は貴族のための「大衆芸術」だったが、ベートーヴェン以降は近代的な「純粋芸術」として、ありがたく鑑賞するものだ――と誰もが思い込んでいたが、彼はその通念を破壊したのだ。Authenticという建て前だが、もしベートーヴェンが聞いたら怒るだろう。これは、あくまでも20世紀の演奏である。

新左翼とは何だったのか

29ac5bb2.jpg著者は、いわゆるブント日向派(荒派)の元委員長であり、新左翼に(去年やっと)見切りをつけて、今は「環境運動」をやっているそうだ。日向派の教祖は廣松渉だったので、東大駒場にはたくさんいた。理屈とビラまきはうまいが、武装闘争はからきしだめで、そのうち革マルに追い散らされた。

そういう当事者が語るのだから、新左翼のおかした誤りについてちゃんと総括するのかと思えば、まるで他人事のように60年ブント以降の歴史を解説するだけ。あげくの果てには「共産主義各国の崩壊は、ハイエク流にいえば設計主義の破産であり、自生的秩序に反したからだ」。30年も党派を率いてきた委員長が、こんな(半世紀以上前からわかりきっていた)総括をするのでは、彼の言葉を信じて人生を棒に振った数百人の党員が泣くだろう。

あとの解説は、著者と同世代の人々には無価値だが、今の若い世代には「サヨクのおじいさんたちって、こんなバカなこと大真面目にやってたんだ」という悲喜劇としては、けっこう笑えるだろう。中でも致命的な誤りは、著者も指摘するように、内ゲバだった。私は党派とは無関係だったが、私のいた駒場のサークルでは、部員10人中4人が(革マルまたはそれと誤認されて)内ゲバで殺された。当時「この報復は絶対する」と言っていた革マルの活動家が、今は東大教授になっている。彼は、自分の過去の行動をどう総括しているのだろうか。

インターネットを生み出した「サイバーリバタリアン」は、実はハイエクやフリードマンとは対極にある、60年代の対抗文化から出てきたものだ。John Perry BarlowやJohn Gilmoreなどは、学生運動でドロップアウトしたヒッピーである。それは政治運動としてはナンセンスだったが、彼らがインターネットという「トロイの木馬」に忍び込ませたラディカルな自由主義のウイルスは、今や世界中に広がり、資本主義を食い尽くそうとしている。

それに比べて、日本の左翼は何も生み出さず、またぞろ「環境保護」という名のパターナリズムに活路を求めている。就職氷河期世代も「希望は戦争」というだけで、現実的な力にはならない。民主党にいたっては、支離滅裂なポピュリズム政党に化けてしまった。日本が変われない理由は、ここにもあるのだろう。

もはや一流ではない日本経済──諸悪の根源は「家父長主義」にあり

Ascii.jpに毎週連載するコラム「サイバーリバタリアン」の第1回が公開された・・・とだけ書くのも芸がないので、脚注を書いておこう。

この話のネタ元は、レッシグの『CODE2.0』の訳本が9年ぶりに出たことだが、内容はほとんど変わっていない(訳文もあいかわらず下品だ)。初版の出たとき、多くの人々が(私も含めて)批判した介入主義も変わっていない。特に「電話回線を規制して新規参入させろ」という彼の主張に鼓舞されて多くのCLECがブロードバンドに参入したが、ITバブル崩壊とともに全滅した。

最近の彼らの「ネット中立性」を求める主張(オバマも政策に掲げている)も、「問題をさがしている答」だ。レッシグのように「正しい政府」をナイーブに信じることのできるアメリカは幸福な国だと思ったが、最近は彼も考えを変えて、政府の意思決定がいかに歪んでいるかを研究しているようだ。

天羽優子氏の記事についての公開質問状

山形大学学長 結城章夫様

私は、上武大学大学院で教員をしている池田信夫というものです。きょう山形大学の教員、天羽優子氏の記事に対して電子メールで、私を中傷する記事を削除するよう要求したところ、彼女はそれに回答せず、私信を山形大学のウェブサイトで公開しました。

http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=7608

これは記事を削除する意思がないものとみなし、学長に質問します:

1.山形大学のサイトで、他人を根拠なく「名誉毀損」と中傷することを、学長としてどうお考えになりますか。法務担当者なり顧問弁護士にお聞きになればわかりますが、「間抜け」という表現で名誉毀損が成立することはありえません。この天羽氏の記事こそ、私が名誉毀損という犯罪を行なったかのような印象を与える、名誉毀損行為だと考えますが、いかがでしょうか。

2.また山形大学のサイトで、他人の私信を無断で公開することについて、どうお考えになりますか。こういうことを許すと、一般の研究者も山形大学の教員に電子メールを出すことができなくなり、研究活動に支障をきたすと私は考えますが、いかがでしょうか。

この書簡は、下記の私のブログで公開します。回答をお待ちしております。

池田信夫
上武大学大学院経営管理研究科
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo

追記:多くの批判を受けて、天羽氏は「私信の公開はマナーとしてすべきではないことは私も同意する」と認めた。マナーとしてすべきでないことをしたのなら謝罪するのが常識だが、それもしない。こういう異常な人物を相手にするつもりはないので、その後の記事は読んでいない。

まぐれ―投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか

まぐれ―投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのかDan氏のところには訳本が届いたようだが、私は原著しかもっていないので、それをもとに書く。したがって例によって、これは書評ではない(書評は2/25発売の週刊ダイヤモンドに書く予定)。

原著は2004年に出て大反響を読んだが、同じ著者のこれを上回る傑作、Black Swanが出たあと訳本が出たのは残念だ。本書の議論はBlack Swanで深められているので、1冊読むなら、そっちを読んだ方がいい。実は、本書は別の版元で最後まで訳したのだが、あまりにも訳がひどくて廃棄され、ダイヤモンド社でやりなおしたという経緯がある。

ここでは、1点だけコメントしておく。それは著者の議論のコアになっている素朴ポパー主義だ。ポパーについては、当ブログで私が批判すると、アマチュアから粘着的なコメントが来るが、もはや見捨てられた過去の哲学者であることは世界の常識だ。著者もそれを前提にしているのだが、彼はあえてポパーの反証主義を文字どおり実行する。つまり1度でも反証された理論はすべて棄却するのである。

そうすると当然のことながら、すべての経済理論も統計的推計も棄却される。そこから先、どうやって相場を読むかというのが本論なのだが、ここでは省く(本を読んでください)。興味あるのは、著者が科学哲学における通約不可能性理論と同じ結論に達していることだ。彼の議論を論理的につきつめると、ファイヤアーベントのいうように、すべての科学理論は宗教の一種であり、客観的知識なんて存在しない、という知的アナーキズムになる。

これは英米の分析哲学業界ではひんしゅくを買ったが、フランスでは受けた。それはデリダやドゥルーズなどの不可知論と、実質的に同じだからである。おもしろいことに、最先端の物理学のリーダー、サスキンドも同じ意見だ。彼は反証主義を否定して「科学的真理というのは科学者集団の主観的コンセンサスにすぎない」と主張し、この意味で神学と物理学に本質的な差はないと認めている。

この問題の根源には、有名なヒュームの問題がある。あなたがこれまでに見たすべての白鳥が白かったとしても、そこから「すべての白鳥は白い」という結論を出すことはできない。明日あなたが黒い白鳥に出会う可能性を排除できないからだ。したがって帰納の論理は、存在しえない。あなたが未来を正しく予測するためにもっとも重要なのは、それが不可能であるという事実を知ることなのだ。

業務連絡:大学は来週から休みに入るので、献本はICPFか自宅にお願いします。自宅の住所は、大手メディアのデータベースには登録されていると思いますが、右記の連絡先にメールをいただけばお知らせします。

追記:Black Swanの版権も、ダイヤモンド社が取ったそうだ。いまだに完璧に反証された神学理論を護持している経済学者には、両方とも必読書だ。著者の結論は「ハイエクを読め」。

最強の経済学者 ミルトン・フリードマン

先ごろ死去したフリードマンの伝記。彼の著書をまったく読んだことのない人には、わかりやすい入門書だが、経済学者が読んでも得るものはないだろう。著者はジャーナリストで、フリードマンの理論を学問的に検討してはいないからだ。彼が20世紀でもっとも影響の大きな経済学者の一人だったことは疑いないが、彼ほど敵が多く、誤解された経済学者も少ない。今でも、次のような見方が世間には多い:
アメリカの経済がうまくいかなくなってきた1970年代から、ハイエクやフリードマンといった人々がケインズを批判し、再び古典派経済学を持ち出しました。[・・・]時代錯誤とも言えるこの理論は、新古典派経済学などと言われ、今もアメリカかぶれのエコノミストなどにもてはやされているのです。(藤原正彦『国家の品格』p.183)
これは徹頭徹尾でたらめである。ハイエクやフリードマンは、当時の主流だった新古典派に挑戦したのであって、「古典派経済学を持ち出した」のではない。おまけに藤原氏は、シカゴ学派と新古典派を混同している――と私が編集者(『電波利権』と同じ担当者)に指摘したら、新しい版では「新自由主義経済学」と訂正されたが、そんな経済学も存在しない。

こういう素人だけならまだしも、宇沢弘文氏は、私の学生のころから「フリードマンがポンドの空売りをしようとして銀行に断られ、これを聞いた師匠のフランク・ナイトが激怒して、彼を破門した」という話をしていた(飲み屋で10回ぐらい聞いた)。しかしこれも、田中秀臣氏が検証しているように、宇沢氏の作り話だ。このようにフリードマンを「保守反動」と指弾し、ケインズのような「計画主義」を賞賛するのが、80年代まで日本の「進歩的知識人」のお約束だった。

理論面でも、フリードマンは初期にはほとんど受け入れられなかった。名著『資本主義と自由』も、出版された当時は酷評されたし、彼の提唱した通貨供給の「*%ルール」を採用する中央銀行もなかった。このルールの有効性は理論的にも実証的にも疑わしく、この意味で彼は「マネタリスト」としては成功しなかった。彼の最大の功績は、1968年に発表した「自然失業率」の理論である(*)。これは大論争を呼んだが、「財政政策は長期的には無効だ」という彼の理論は、その後の歴史によって証明され、ケインズ理論は葬られた。

・・・と思っていたら、FRBのバーナンキ議長は、先週の議会証言で財政政策が必要だとのべ、ブッシュ政権は1500億ドルの景気対策を発表した。これは選挙向けの人気取りに、バーナンキが迎合したという印象が強い。一昨日の記事でもふれたように、ケインズの『一般理論』も、失業対策を求める政治家のための理論武装だった。しかしクルーグマンマンキューの意見が珍しく一致するように、財政政策というのは、他の政策がきかないときの「やけくそ戦略」でしかない。日本でも、これをまねする政治家が出てこないことを祈りたい。

追記:Reinhart-Rogoffは、今回のサブプライム危機が90年代の日本の金融危機と似ていると指摘している。かつて「インフレ目標を設定しない日銀はバカだ」と言い放ったバーナンキはどうするのだろうか。彼の尻馬に乗って日銀総裁を罵倒していたリフレ派も、自分の言論に責任をとってほしいものだ。

(*)この理論のわかりやすい説明が、1976年のノーベル賞受賞講演にある。

NHK新会長への提言

NHKの福地新会長がきょう就任し、職員に「NHKはがけっぷちに立っている」と訓示したそうだ。たしかに今度の事件は深刻だが、彼はNHKがどんながけっぷちに立っているかご存じだろうか。

これまでにもNHKは、何度もがけっぷちに立ってきた。最初は1990年ごろ、島会長が赤字財政を立て直そうとしたときだ。彼は報道をグローバルな24時間ニュースにする一方、番組制作局をプロダクションとして切り離し、ラジオ第2放送や教育テレビや衛星第2を廃止して「ビデオ販売に切り替える」と言っていた。今でいえば、ネット配信だ。

動きの激しい多メディア時代には、経営に国会承認が必要な公共放送では競争に勝てないので、NHK本体にはニュースと送出機能だけを残し、実質的な制作部門はMICO(国際メディア・コーポレーション)が中枢となり、世界の番組を輸入するとともに世界にNHKの番組を売る、というのが島の構想だった。いま思えば大風呂敷にすぎた面もあるが、福地氏には当時の経営戦略(NHKにまだ残っているだろう)を読んでみることをおすすめしたい。

しかし島に左遷された海老沢氏が、1991年にクーデターを起し、島とともに改革派を一掃してしまった。海老沢氏とその子分は、メディア戦略どころかテレビも知らない派閥記者で、ここからNHKの「失われた13年」が始まった。デジタル放送も、海老沢氏が技術陣のいいなりで始め、最初は「デジタルの伝道師」などと気取っていたが、やってみて失敗に気づいた。

今回の事件の示しているNHKの最大の問題は、情報システムまで含めて、技術がNHKのテレビ技術者に丸投げになっていることだ。彼らは個人的には優秀だが、その発想は20年前のIBMのメインフレーム技術者や10年前のNTTの「交換屋」の人々と同じで、レガシーシステムをいかに延命するか、という角度からしかものを考えない。それがISDB-Tからコピーワンスに至る混乱した戦略の原因だ。

私が9年前にNHKの技研に職員研修にまねかれたとき、「これからはすべてIPになるから、地上デジタル放送なんかやめるべきだ」といったら、質疑で出てきたのは「論理的には同感だが、どうすれば軌道修正できると思うか」「プラットフォームはむしろXMLになるのではないか」といった的確なものが多かった。当時の技研の所長も次長も「IPに対応しないと、われわれの食い扶持もなくなる」と言っていた。

ところが技術陣の本流は研究所ではなく、技術本部で調達や運用を行なっている人々だ。彼らは「放送ゼネコン」と癒着し、I通信機を初めとする調達先に大量に天下り、そこに開発させた機材を民生用の10倍ぐらいの価格で随意契約することで利権を温存している。まず、この利権構造にメスを入れる必要がある。技研も、民間に売却すべきだ。研究所をもっている放送局なんか、他の国にはない。

今度のお粗末なセキュリティも、そこから派生した問題である。私のいたころは局内に5社・6系統のコンピュータ・ネットワークがあり、たびたび「システム統合委員会」が開かれた。私も呼ばれたが、必ずITゼネコンの講師が出てきて「統合するなら当社のシステムで」とやり、それぞれに技術陣の応援団がついていたため、2年間に20回ぐらい会議をやっただけで何も結論は出なかった。

NCシステムで、いまだに20年前と同じメインフレームを使っているのには驚いたが、おそらく他のシステムもそう変わっていないだろう。「ネット配信」のセンターになるはずの川口のアーカイブのサーバに入っているのは、ベータマックス(!)の試写用映像だけで、それを東京からオンラインで見て資料請求すると、テープをトラックで運ぶ。60万本の資料テープの90%以上は、データ化もされていない。こんな石器時代みたいなシステムで、ネット配信なんかできっこない。

福地会長は、まず現在の理事を総辞職させ、外部からインターネットのわかる理事をまねくとともにCIOを設け、局内のシステムを報道・編成・資料・経理まですべてイントラネットに統合すべきだ。ついでに送出もIPに統合すれば、地デジもいらなくなる。だいたい地デジのストリームもIP over WDMで局間伝送しているのだから、それを電波に変換しないで、そのままDSLやFTTHに流せばいいのだ。

2011年にアナログを停波して地デジに移行できると思っている職員は、私の知るかぎり1人もいない。むしろ彼らが恐れているのは、もう1080iが最新技術ではないということだ。「フルハイビジョン」の液晶モニターで見ると、MPEG特有のツブレがはっきり見えて、アナログより汚ない。ハリウッドが(マスター画質である)1080pでネット配信を始めたら、地デジの唯一のセールスポイントである「高画質」も売り物にならない。

今からでも遅くない。UHF帯はすべて政府に返納し、コーデックをH.264に変更してVHF帯のガードバンドで地デジをやれば、中継局も視聴者のアンテナも今のままでデジタル化できる。今までに売れた受信機にはH.264のチューナーを配布すればよい。UHFの中継局を全国に建てるコストよりはるかに安い。

・・・という文章が理解できる理事も、おそらく1~2人しかいないだろう。賛成であれ反対であれ、この記事がわからないような職員は、たとえ「文科系」だろうと理事にしてはいけない。今回は、これまでのボタンの掛け違えをリセットし、古い約束を破る最後のチャンスである。

パンフレットとしての『一般理論』

いわずとしれた経済学の古典中の古典だが、これを最後まで読んだ経済学部の学生は、100人に1人もいないだろう。まず高い。私の学生時代までは、塩野谷九十九訳の古文みたいな分厚い単行本しかなく、5000円ぐらいした。その後も同じぐらいの値段の全集版(塩野谷祐一訳)しかなく、それをソフトカバーにしたバージョンが出たのは1995年。それでも3500円だ。私のような貧乏学生は、丸善から出ている500円の原著を読んだ。

東洋経済新報社は、ケインズの死後50年にわたって独占利潤を得たが、そのおかげでこの重要な本が読まれずに語られた弊害は大きい。著作権がいかに「反文化的」な制度かを示す好例だ。今度やっとパブリックドメインになって岩波文庫に入ったのはめでたいが、訳が最悪なので、ちゃんと勉強する人は原著を読んだほうがいいだろう。

しかし原著で読んでも、非常にわかりにくい。教科書に書いてあるIS-LMみたいな明快な分析はどこにもなく、哲学的な話が延々と書かれていて面食らう。大恐慌のさなかに政策提言としてバタバタと書かれたので、議論が未整理で曖昧なのだ。「古典派」が間違っている例として、いろいろアドホックな不完全性が挙げられるが、なぜそういう不均衡がずっと続くのか、という理論的説明はない。それなのに、有効需要が完全雇用をもたらす水準と一致するのは「特殊な場合」で、一般にはその必然性はない、という結論が何度も繰り返される。

要するに『一般理論』は、そのタイトルに反して、30年代の特殊な状況に対応して「失業対策に政府が金を出せ」という処方箋を書いた政治的パンフレットなのである。ケインズ自身が、師マーシャルの追悼文で、経済学者の本業はパンフレットを書くことだとのべている:
経済学者たちは、四つ折り版の栄誉をひとりアダム・スミスだけに任せなければならない。その日の出来事をつかみとり、パンフレットを風に吹き飛ばし、つねに時間の相の下にものを書いて、たとえ不朽の名声に達することがあるにしても、それは偶然によるものでなければならない。
経済学は、自然科学のように真理を探究する学問ではない。それは応用科学にすぎず、政策として役に立たなければ何の価値もないのだ。国際ジャーナルに載せるためには、定理と証明という形で論文を書かなければならないが、これは茶道の作法みたいなものだ。その作法を守らないと家元に認めてもらえないので、ポスドクのころは一生懸命に論文を書くが、終身雇用ポストを得るとやめてしまう。そんな作法が生活の役に立たないことをみんな知っているからだ。

しかしインターネットは、そういう状況を変えつつある。2年も3年もかけて国際ジャーナルに載せるより、本当に大事な論文はディスカッションペーパーでウェブに出して、いろいろな人に引用してもらったほうが有利だ。そして、いくら数学的に優美でも、政策的に意味のない論文はウェブでは相手にされない。これは健全な傾向だ。ケインズも言ったように、経済学はジャーナリズムだからである。手前味噌をいわせてもらえば、当ブログのような「パンフレット」こそ経済学者の本業かもしれない。

BaiduがGoogleを抜く方法

きょう世界第3位の検索エンジン、Baidu(百度)の日本語サイトの運用が始まり、それに合わせて中国本社のCEO、Robin Li氏が来日した。そのミーティングにまねかれたので行ってみたら、記者会見ではなく、佐々木俊尚氏やDan氏など、おなじみのブロガーばかり10人ほど。ブログから1次情報の出る日が来たのかもしれない。

気の毒な大手メディアのために、とりあえず第一報を提供しておくと、Li氏は39歳。NY州立大学で修士号をとった、絵に描いたようにハンサムな中国の新世代エリートだ。Baiduの中国内シェアは70%、世界市場シェアは5%で、Google、Yahoo!に次ぐ。日本での戦略は、Yahoo!などに対抗するのではなく、「セカンド・サーチエンジン」をねらうという。特徴は「遊ぶ」検索サービスで、動画検索や画像検索に力を入れる。漢字文化圏どうしの強みを生かして、検索精度も上げる。

ただし「キラー・アプリ」のMP3検索は、日本語版にはない。質問も当然そこに集中したが、「日本では日本の著作権法に従う」とのこと。「日本では検索エンジンそのものが違法なんですけど。Yahoo!Japanもgooもサーバをアメリカに置いてるけど、著作権法は属地主義だから、事業所が日本にあると違法ですよ」と私がまぜかえすと、答に困っていた。「日本でうまく行く知恵はないか」というので、私が提案した思いつきは2つ:
  • 日本語版でMP3検索サービスを始める:プロバイダ責任制限法で、著作権法違反を指摘されたら削除しなければならないが、ファイルを検索可能にすること自体は合法である(*)MP3.comも、初期にはDMCAで合法だった。こういうサービスを始めれば、世界中のメディアが注目し、Napsterのように何も広告を出さなくても3000万ユーザーぐらい行くだろう。

  • サーバだけでなく、日本向けサービス部門も中国に置いて日本語でMP3検索サービスを始める:これは、今のところ中国では合法だ。最高人民法院まで行ってどうなるかは、中国共産党の意向しだいだが、彼らがこれを合法化すれば、Baiduは愚かな著作権法のもとで営業せざるをえない欧米の検索エンジンに比べて、圧倒的な優位をもつ。権利者は許諾権を放棄する代わり、収益をシェアすればいいのだ(Baiduは現に中国でやっている)。
中国共産党のウォッチャーも当ブログを読んでいると思われるので、ぜひBaiduのMP3検索を合法化してほしい。中国が世界の8割を供給しているともいわれる海賊DVDの映像なども検索可能になれば、Googleを抜いて世界のナンバーワンになることも不可能ではない。ここに「蟻の一穴」があけば、そこから19世紀以来のアンシャン・レジームであるベルヌ条約が崩壊し、ウェブで「共産主義」を実現することも可能だ。しかもコストはゼロである。毛沢東にもできなかった世界革命をBaiduがサイバースペースで実現すれば、21世紀は文字どおり中国の世紀になるだろう。

(*)もちろん著作権法を厳密に適用すると、検索エンジン自体が違法だが、いくら愚かな日本の警察でも検挙できないだろう。日本の会社はおとがめなしでBaiduだけやったら、国際問題になる。

オリジナリティの神話

知的財産権の権威として知られる、東大の中山信弘教授の最終講義が、きのう行なわれた。

その中で「従来は権利者側だけだったが、情報を扱う機器のメーカーも、すべてのユーザーもプレーヤーとして登場した。そのことを印象づけたのが、2004年に起こった海外向け邦楽CDの還流(逆輸入)禁止の動きだった」というのが印象に残った。あの騒ぎのきっかけになったのは、私がCNETに書いたコラムだったからだ。今のMIAUのメンバーも、あのころそろっていた。

「権利者の利益だけでなく、社会全体の利益との調和点を探ることが必要だ」というのも当たり前のことだが、文化庁の職員の端末の壁紙にでも大書してほしいものだ。「所有権のドグマ」を批判した中山氏の教科書も、異例の売れ行きを見せた。「現行の知財法体系を全面的に改めるような新体系」の研究も始まっているようだ。確実に流れは変わっている。

「コンドルは飛んでゆく」で巨額の印税を得たポール・サイモンは、それをペルーに還元したわけではない。もし五線譜の記譜法がなかったら、民謡を採譜してヒット曲にすることもできない。作者が100%オリジナルにつくった作品などというものは存在しないのだ。「私が遠くまで見ることができるのは、先人の肩の上に乗っているからだ」というニュートンの有名な言葉のように、知識はすべて先人の蓄積の上に成り立っているのである。

ポズナーも指摘するように、かつて書物は、著者と印刷工と版元の共同作業であり、シェイクスピアの作品は過去の作品の改良版だった。著者やオリジナリティという概念は、個人がすべてを創造するという18世紀のロマン主義が作り出した神話にすぎない。そしてオープンソースによって、21世紀の社会はシェイクスピアの時代に帰ろうとしている。

「はじめに文化ありき」と称して、作品がゼロからできたかのように語っているのは、自分で文化を創造したことのない、既得権にぶら下がる人々だ。市川団十郎氏は、自分で歌舞伎を書いたのか。「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。すべてのものは、これによってできた」というヨハネ伝の最初の言葉は、最初に神の言葉があり、人々はそれを継承することによって世界を築いた、という彼らの意図とは逆のことを語っているのである。




スクリーンショット 2021-06-09 172303
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