15日の記事のコメント欄で少しふれたが、大江健三郎氏が11月20日の朝日新聞の「定義集」というエッセイで、彼の『沖縄ノート』の記述について弁解している。それについて、今週の『SAPIO』で井沢元彦氏が「拝啓 大江健三郎様」と題して、私とほぼ同じ論旨で大江氏を批判しているので、紹介しておこう。大江氏はこう弁解する:
このように、どう解釈しても「かれ」は赤松大尉以外ではありえない。それが特定の個人をさしたものではなく「日本軍のタテの構造」の意味だという大江氏の言い訳(これも今度初めて出てきた)こそ、文法的にムリである。屠殺者というのは、明らかに個人をさす表現だ。単なる伝聞にもとづいて個人を殺人者呼ばわりし、しかもそれが事実ではないことが判明すると、謝罪もしないでこんな支離滅裂な嘘をつく作家に良心はあるのだろうか。こういうことを続けていると、彼は(大したことのない)文学的功績よりも、この恥ずべき文学的犯罪によって後世に記憶されることになろう。
追記:コメント欄にも書いたが、呉智英氏も指摘するように、「屠殺者」は差別用語である。私は「差別語狩り」は好ましくないと思うが、大江氏はこれを「虐殺者」の意味で使っており、食肉解体業者を犯罪者の比喩にしている。また屠殺の対象になるのは動物だから、渡嘉敷島の住民は動物扱いされているわけだ。大江氏の人権感覚がよくわかる。
私は渡嘉敷島の山中に転がった三百二十九の死体、とは書きたくありませんでした。受験生の時、緑色のペンギン・ブックスで英語の勉強をした私は、「死体なき殺人」という種の小説で、他殺死体を指すcorpus delictiという単語を覚えました。もとのラテン語では、corpusが身体、有形物、delictiが罪の、です。私は、そのまま罪の塊という日本語にし、それも巨きい数という意味で、罪の巨塊としました。つまり「罪の巨塊」とは「死体」のことだというのだ。まず問題は、この解釈がどんな辞書にも出ていない、大江氏の主観的な「思い」にすぎないということだ。「罪の巨塊」という言葉を読んで「死体」のことだと思う人は、彼以外にだれもいないだろう。『沖縄ノート』が出版されてから30年以上たって、しかも訴訟が起こされて2年もたってから初めて、こういう「新解釈」が出てくるのも不自然だ。『沖縄ノート』の原文には
人間としてそれをつぐなうには、あまりも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き延びたいとねがう。(強調は引用者)と書かれているが、この「つぐなう」という他動詞の目的語は何だろうか。これが国語の試験に出たら、「巨きい罪」をつぐなうのが正解とされるだろう。「罪の巨塊」を「かれ」のことだと解釈するのは「文法的にムリです」と大江氏はいうが、赤松大尉が自分の犯した「あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで・・・」という表現は文法的にも意味的にも成り立つ。というか、だれもがそう読むだろう。では大江氏のいうとおり「罪の巨塊」=「死体」と置き換えると、この文はどうなるだろうか:
人間としてそれをつぐなうには、あまりも巨きい死体のまえで・・・これが「文法的にムリ」であることは明らかだろう。「死体をつぐなう」という日本語はないからだ。さらにcorpus delictiは、彼もいうように警察用語で「他殺体」のことだから、この文は正確には「あまりも巨きい他殺体のまえで・・・」ということになる。その殺人犯はだれだろうか。井沢氏は「自殺した人に罪がある」と解釈しているが、これは無理がある。Websterによれば、corpus delictiは"body of the victim of a murder"と他殺の場合に限られるから、犯人は「なんとか正気で生き延びたい」とねがう「かれ」以外にない。つまり大江氏自身の解釈に従えば、彼は(自殺を命じることによって)赤松大尉が住民を殺したと示唆しているのだ。事実、大江氏はこの記述に続いて、「かれ」を屠殺者などと罵倒している。
このように、どう解釈しても「かれ」は赤松大尉以外ではありえない。それが特定の個人をさしたものではなく「日本軍のタテの構造」の意味だという大江氏の言い訳(これも今度初めて出てきた)こそ、文法的にムリである。屠殺者というのは、明らかに個人をさす表現だ。単なる伝聞にもとづいて個人を殺人者呼ばわりし、しかもそれが事実ではないことが判明すると、謝罪もしないでこんな支離滅裂な嘘をつく作家に良心はあるのだろうか。こういうことを続けていると、彼は(大したことのない)文学的功績よりも、この恥ずべき文学的犯罪によって後世に記憶されることになろう。
追記:コメント欄にも書いたが、呉智英氏も指摘するように、「屠殺者」は差別用語である。私は「差別語狩り」は好ましくないと思うが、大江氏はこれを「虐殺者」の意味で使っており、食肉解体業者を犯罪者の比喩にしている。また屠殺の対象になるのは動物だから、渡嘉敷島の住民は動物扱いされているわけだ。大江氏の人権感覚がよくわかる。