2007年11月

大江健三郎という「嘘の巨塊」

15日の記事のコメント欄で少しふれたが、大江健三郎氏が11月20日の朝日新聞の「定義集」というエッセイで、彼の『沖縄ノート』の記述について弁解している。それについて、今週の『SAPIO』で井沢元彦氏が「拝啓 大江健三郎様」と題して、私とほぼ同じ論旨で大江氏を批判しているので、紹介しておこう。大江氏はこう弁解する:
私は渡嘉敷島の山中に転がった三百二十九の死体、とは書きたくありませんでした。受験生の時、緑色のペンギン・ブックスで英語の勉強をした私は、「死体なき殺人」という種の小説で、他殺死体を指すcorpus delictiという単語を覚えました。もとのラテン語では、corpusが身体、有形物、delictiが罪の、です。私は、そのまま罪の塊という日本語にし、それも巨きい数という意味で、罪の巨塊としました。
つまり「罪の巨塊」とは「死体」のことだというのだ。まず問題は、この解釈がどんな辞書にも出ていない、大江氏の主観的な「思い」にすぎないということだ。「罪の巨塊」という言葉を読んで「死体」のことだと思う人は、彼以外にだれもいないだろう。『沖縄ノート』が出版されてから30年以上たって、しかも訴訟が起こされて2年もたってから初めて、こういう「新解釈」が出てくるのも不自然だ。『沖縄ノート』の原文には
人間としてそれをつぐなうには、あまりも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き延びたいとねがう。(強調は引用者)
と書かれているが、この「つぐなう」という他動詞の目的語は何だろうか。これが国語の試験に出たら、「巨きい罪」をつぐなうのが正解とされるだろう。「罪の巨塊」を「かれ」のことだと解釈するのは「文法的にムリです」と大江氏はいうが、赤松大尉が自分の犯した「あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで・・・」という表現は文法的にも意味的にも成り立つ。というか、だれもがそう読むだろう。では大江氏のいうとおり「罪の巨塊」=「死体」と置き換えると、この文はどうなるだろうか:
人間としてそれをつぐなうには、あまりも巨きい死体のまえで・・・
これが「文法的にムリ」であることは明らかだろう。「死体をつぐなう」という日本語はないからだ。さらにcorpus delictiは、彼もいうように警察用語で「他殺体」のことだから、この文は正確には「あまりも巨きい他殺体のまえで・・・」ということになる。その殺人犯はだれだろうか。井沢氏は「自殺した人に罪がある」と解釈しているが、これは無理がある。Websterによれば、corpus delictiは"body of the victim of a murder"と他殺の場合に限られるから、犯人は「なんとか正気で生き延びたい」とねがう「かれ」以外にない。つまり大江氏自身の解釈に従えば、彼は(自殺を命じることによって)赤松大尉が住民を殺したと示唆しているのだ。事実、大江氏はこの記述に続いて、「かれ」を屠殺者などと罵倒している。

このように、どう解釈しても「かれ」は赤松大尉以外ではありえない。それが特定の個人をさしたものではなく「日本軍のタテの構造」の意味だという大江氏の言い訳(これも今度初めて出てきた)こそ、文法的にムリである。屠殺者というのは、明らかに個人をさす表現だ。単なる伝聞にもとづいて個人を殺人者呼ばわりし、しかもそれが事実ではないことが判明すると、謝罪もしないでこんな支離滅裂な嘘をつく作家に良心はあるのだろうか。こういうことを続けていると、彼は(大したことのない)文学的功績よりも、この恥ずべき文学的犯罪によって後世に記憶されることになろう。

追記:コメント欄にも書いたが、呉智英氏も指摘するように、「屠殺者」は差別用語である。私は「差別語狩り」は好ましくないと思うが、大江氏はこれを「虐殺者」の意味で使っており、食肉解体業者を犯罪者の比喩にしている。また屠殺の対象になるのは動物だから、渡嘉敷島の住民は動物扱いされているわけだ。大江氏の人権感覚がよくわかる。

ネットはクリエイターの敵か

岸博幸氏のコラムが、あちこちのブログなどで激しい批判を浴びている。私が彼に「レコード会社のロビイスト」というレッテルを貼ったのが彼の代名詞のようになってしまったのはちょっと気の毒なので、少しフォローしておきたい。

先日のICPFシンポジウムでわかったのは、岸氏は三田誠広氏のように嘘を承知で権利強化を主張しているのではなく、本気でそれが日本の「産業振興策」だと信じているということだ。しかし、これはある意味では三田氏よりも始末が悪い。本人がそう信じ、善意で主張しているので、コンテンツ産業の実態を知らない官僚や政治家には説得力をもってしまうからだ。

残念ながら、彼の信念は事実に裏づけられていない。岸氏は「デジタルとネットの普及でクリエーターは所得機会の損失という深刻な被害を受けている」というが、具体的にどれだけ深刻な被害を受けているのか、その根拠となるデータを示したことはない。学問的には、Oberholzer-Gee and Strumpf*(以下O-S)に代表される実証研究が一致して示すように、P2Pによるファイル共有がCDの売り上げに与える影響は、統計的にはプラスマイナスゼロに近い。日本でも、田中辰雄氏が同様の結果を発表している。

この理由は、ファイル共有が宣伝の役割も果たしているからだ。ラジオ局とJASRACは音楽の放送について包括契約を結んでいるが、その料金は実質的にはタダに近い。むしろレコード会社は、新譜を放送してくれるようにラジオ局に売り込んでくる。P2Pも、それと同じ役割を(はるかに低コストで広範に)果たしているのだ。O-Sによれば、ユーザーがCDを丸ごとコピーすることは少なく、むしろヒット曲だけを「サンプル」としてダウンロードする傾向が強い。気に入ったCDは、買うことが多いと推定される。

CDの売り上げが減っている主な原因は、他のメディアとの競争だとO-Sは推定している。最初のP2PソフトウェアNapsterが登場した1999年から2003年までの間にアメリカのCDの売り上げは26億ドル減ったが、DVDとVHSの売り上げは50億ドル増え、携帯電話の売り上げは3倍になった。日本でも、中村伊知哉氏なども指摘するように、携帯電話の通信料金がCDをcrowd outしている可能性が強い。

くわしくみると、スーパースターのCDの売り上げはP2Pの影響で減っているが、無名のミュージシャンの売り上げはP2Pのプロモーション効果によって増えている。現在では、CDの制作費(最低100万円もあればつくれる)にくらべて宣伝費のほうがはるかに大きいので、P2Pはクリエイターに損害を与えているのではなく、特定のミュージシャンに巨額の宣伝費をかけて(音楽的には質の高くない)メガヒットを作り出す現在のレコード会社のビジネスモデルを破壊しているのだ

逆にいうと、P2Pは無名だがすぐれたミュージシャンを発掘することで、音楽の多様性を高めていることになる。コンテンツ業界は極端なロングテールの世界で、特に音楽で食えるのは音楽家の数%だといわれる。その数%のスーパースターの(億単位の)収入が少し減る代わりに、多くの無名ミュージシャンがP2Pによって世に出ることは、音楽全体の質を高めるだろう。またP2Pによるレコード会社の損害はゼロに近い一方、ユーザーは大きな利益を得ているので、ファイル共有は経済全体の福祉には大きなプラスになっている、とO-Sは結論している。

岸氏がみているのは、本源的なクリエイターの利益ではなく、エイベックスというレコード会社の利益にすぎない。それが減っているのは、要するにレコード会社は衰退産業だからである。もっと効率的にコンテンツを流通させるメディアが出てきたら、CDが没落するのは当たり前だ。レコード会社にとってミュージシャンは不可欠だが、逆は成り立たない。マドンナにとってはCDよりライブのほうが重要だし、レディオヘッドのようにレコード会社を「中抜き」して、ミュージシャンが彼らの創造した価値の90%をとる時代が来るかもしれない。守るべきなのはクリエイターの利益であって、レコード会社の利益ではない。

(*)この論文の決定稿は、今年のJournal of Political Economyに発表された。

Supercapitalism

本書は重要である。それは著者が――みずからたびたび強調しているように――クリントン政権の労働長官として経済政策に大きな影響を与え、そしてもう一人のクリントンが大統領になろうとしているからだ。同じ意味で、クルーグマンの新著も重要だ。本書を絶賛しているレッシグを含む3人のうち、だれかが新政権に入るだろう。本書は、2009年以降のアメリカがどういう方向に進むかを予測する材料になる。

リベラルの本といえば、美しい建て前論ばかりで退屈なものと相場は決まっており、クルーグマンの本などはNYタイムズにさえ酷評されている。それに比べると、本書は21世紀なりの意匠がこらされている。ここ30年の所得格差の拡大についても、クルーグマンのように共和党政権を非難するのではなく、著者は「グローバル化とIT化の結果であり、この流れを政治の力で止めることはできない」という。どっちが経済学者だかわからない。

著者は「現代のガルブレイス」と揶揄されることもあるが、ガルブレイスのように巨大企業を批判するのではなく、「現代はもうGMのような恐竜の時代ではない」という。むしろ主役はマイクロソフトのようにグローバルに展開し、ウォルマートのように消費者にきわめて近く、シティグループのように投資家の資金を世界に効率的に配分する企業だ。情報技術革新によって恐竜は絶滅し、世界の消費者と投資家が国境を超えて経済を動かす「直接統治」の時代が始まったのだ。

したがって最終章の政策提言は、やや意外だ。企業という実体はもうないのだから、法人税は廃止すべきであり、「企業の社会的責任」にも意味がない。アウトソーシングする企業を非難するのもばかげている。「アメリカ企業の競争力を高める」のもナンセンスだ。もう企業に国籍はないのだから。大事なのは「スーパー資本主義」が政治の領域を侵し、民主主義を腐敗させるのを防ぐことだ。そのためには、世界でもっとも「自由」なアメリカの政治資金規制を強化し、労組を含めてロビイストの活動を制限する必要がある。

こうした現状分析は当ブログでも書いているような経済学の常識に近いが、伝統的な民主党の政策とはかなり違い、「リベラル2.0」とでもいうべき新鮮さがある。特に法人税の廃止というのは、フリードマンを初め多くの経済学者が提案してきた(しかし絶対に実現しない)政策だ。かつてクリントン政権が「小さな政府」をめざして成功したように、こういう政策をヒラリー政権がとるなら、民主党政権も悪くないかもしれない。ひるがえって日本をみると、同じ民主党の次元の低さにうんざりするが・・・

コンプライアンス不況

木村剛氏のブログに「コンプライアンス不況」という話が出ている。特にひどいのは住宅で、建築基準法が改正されてから、9月の住宅着工は前年比44%減となり、1965年に住宅着工統計ができて以来の最低を記録した。この原因は、いうまでもなく姉歯事件でメディアにたたかれた国交省が、建築確認の審査を異常に厳格化したためである。しかも古い建物の増改築にも新しい耐震基準が適用されることになったため、改築ができなくなり、かえって住宅の老朽化が進むおそれが強い。だいたい首都圏のマンションの30%が1982年の耐震基準以前の建築物であり、「姉歯マンション」を取り壊すなら、こうしたマンションも取り壊さなければならない。新築や増改築だけを規制しても、町は安全にならないのである。

それにしても、この騒ぎの発端となった姉歯事件とは何だったのか。「共犯者」として逮捕され、会社も倒産したイーホームズの元社長の『月に響く笛:耐震偽装』を読むと、この事件を「構造的問題」として国会に証人喚問までした構図が、まったく架空だったことがわかる。警察の逮捕容疑も、耐震偽装とは無関係な粉飾決算であり、結局、姉歯元建築士以外に刑事訴追された人は誰もいない。要するに、これは(技術の足りない)一建築士の個人的な犯罪だったのである。

姉歯事件のようなモラル・ハザードを防ぐ方法として、今回のように書類審査を強化するのは意味がない。施工主に本当のことをいわせるメカニズムが欠けているからだ。大事なのは書類を整えることではなく、彼らに基準どおり建てさせることだ。たとえば完成検査を厳格に行なって、耐震強度などの基準を満たしていなければ、その施工主と建築士の免許を取り消せばよい。廃業になるリスクをおかして手抜き工事を行なう業者はいないだろう。ルールさえ十分詳細に決めれば、書類審査は廃止してもかまわない。

セキュリティの分野でも、同じような過剰コンプライアンスが起こっている。個人情報保護法などによって情報管理が異常にきびしくなったため、会社の中でハードディスクもUSBメモリも使えないとか、青森県職員が4人の個人情報を「漏洩」しただけで新聞記事になるなど、過剰反応が広がっている。個人情報の賠償額も高騰し、昨年の判決では1人6000円。もしヤフー!BBが450万人の被害者全員にこの額を払わなければならないとすれば、賠償額は270億円にのぼる。

PTAの「緊急連絡名簿」に住所も電話番号もなく役に立たない、などというのは笑い話ですむが、先日起きた佐賀の殺人事件では、病院が「個人情報保護」のため、病室に名札をつけなかったことが誤認殺人につながったとみられている。「個人情報保護が殺人をまねいた」などと報じている毎日新聞こそ、プライバシー過剰保護をあおった主犯だ。

こうした過剰コンプライアンスが、ただでさえリスクのきらいな日本の経営者を萎縮させて「確実性への逃避」を引き起こし、経済を停滞させている。来週、情報セキュリティ大学院大学で行なわれるシンポジウムでも、こういう問題が議論され、私も発表する。そのドラフトに、いかにこうした情報ガバナンスの欠陥を是正するかを書いた。コメントは歓迎します。

追記:貸金業法改悪の影響も出てきた。NTTデータ経営研究所の調査によれば、上限金利の引き下げや総量規制の影響で、ローン利用者の4割が必要な資金を借りられなくなり、60万人が自己破産する可能性があるという。

スパコンの戦艦大和「京速計算機」

先日の記事で、地球シミュレータの次のスーパーコンピュータについて疑問を呈したところ、100以上のコメントがつき、関係者からも情報が寄せられた。こうした情報から考えると、この「京速計算機」というのは、悪評高い「日の丸検索エンジン」を上回る、まさに戦艦大和級のプロジェクトのようだ。

そもそも、このプロジェクトの発端は、地球シミュレータの年間維持費が50億円と、あまりにも効率が悪く、研究所側が「50億円もあったら、スカラー型の新しいスパコンができる」という検討を始めたため、ITゼネコンがあわてて次世代機の提案を持ち込んだことらしい。事実、最近のスパコンと地球シミュレータの性能価格比は、次のように桁違いだ:

名称完成年 最高計算速度(TFlops) 建設費($) TFlops単価($) 
TACC Ranger2007504300万6万
IBM Blue Gene/L20043601億28万
Earth Simulator2002365.5億 1500万

もちろんCPUの性能は、ムーアの法則で3年に4倍になるので、完成年の差は勘案しなければならないが、地球シミュレータのコストを1/5に割り引いても、TFlops単価は300万ドルと、アメリカの最新機の50倍以上である。総工費1150億円で建設される予定の京速計算機は、10PFlopsをめざしているというが、かりにそれが2010年に実現したとしても、逆にムーアの法則で割り引くと420万ドル/TF、最新機の70倍以上だ。おまけに開発期間が長すぎるので、2010年に計画どおり完成したとしても、性能は他のスパコンに負けている可能性が高い。もっとも「ベンチマークテストで世界一を取り返す」などというのは、プロジェクトの目的としてナンセンスだが。

このようにコスト・パフォーマンスが大きく違う最大の原因は、アメリカのスパコンがAMDのOpteronやIBMのPowerPCなど、普通のPCに使われるスカラー型CPUを多数つないで並列計算機を実現しているのに対して、日本が特別製のベクトル型プロセッサを新規開発するからだ。ベクトル型のスパコンを生産している国は、日本以外にほとんどない。スパコンGRAPEを開発した牧野淳一郎氏も指摘するように、ベクトル型の寿命は20年前に終わっているのだ。

しかもこの1150億円というのは、現段階の建設費だけの見積もりにすぎない。能沢徹氏によれば、建屋は3階建で総床面積は地球シミュレータの3.5倍程度、2000台近くのラックの消費電力は40MWで、年間維持管理費は80億円強。建設予定地には関電の専用発電所の建設まで決まったというから、総経費はさらに莫大になる。文科省の専門評価調査会のフォローアップでも、次のような疑問が指摘されている(強調は引用者):
  • 本プロジェクトで提案されているグランドチャレンジとして示されたアプリケーションは、絞込みが必ずしも十分でなく、そこで期待される成果目標や、実現のために計算機システムに要求される機能、性能等、明瞭でない部分がある
  • 本計算機の目標性能も0.5ペタFLOPS(フロップス)と低いことから、国家プロジェクトとしてベクトル計算機の開発に本格的に着手する必要性が必ずしも明確となっていない
  • 計算科学技術におけるテーマの規模やサイズはさまざまであり、すべてが京速計算機を必要とするわけではないことから、大規模、中規模計算機を重層的に各地に展開すべきと考えられる。
所管官庁の評価委員会が、進行中のプロジェクトについてこのように否定的な評価を行なうのは異例だが、これ以外にもっと深刻な問題点がある。それは、このように巨額のプロジェクトが随意契約でITゼネコン3社の共同受注となり、上に指摘されるように「何を計算するのか」という目的がないまま、1150億円というハコモノの予算だけが決まったことだ(*)。建設地をめぐっては、各地の自治体が誘致合戦を行なったが、最終的には神戸のポートアイランドに決まった。ここは交通の要衝であり、スパコンのような交通の便の必要ない施設が立地するのはおかしいという声が地元でもあったが、埋め立て地があいて困っている地元の政治家とゼネコンの運動で決まったという。

要するに、これはスパコンの名を借りた公共事業であり、世界市場で敗退したITゼネコンが税金を食い物にして生き延びるためのプロジェクトなのだ。米政府がスパコンを国家プロジェクトでつくるのは、軍事用だから当然である(Blue Gene/Lの目的は核実験のシミュレーション)。調査会も指摘するように、京速計算機で目的としてあげられているような一般的な科学技術計算に国費を投じる意味はない。むしろ東工大のTSUBAME(わずか20億円で、性能は地球シミュレータを上回った)のように、各研究機関がその目的にあわせて中規模の並列計算機を借りればよいのである。

最大の問題は、税金の無駄づかいよりも、ただでさえ経営の悪化している日本のITゼネコンが、こういう時代錯誤の大艦巨砲プロジェクトに莫大な人的・物的資源を投じることによって、世界の市場から決定的に取り残されることだ。1980年代のPC革命の中で、通産省が「第5世代コンピュータ」などの大規模プロジェクトに巨費を投じた結果、日本のIT産業を壊滅させた失敗を、今度は文科省が繰り返そうというのだろうか。

(*)しかも発注する理研のプロジェクトリーダーは、受注したNECから「天上がり」した人物だ。これは明白な利益相反であり、通常の政府調達では認められない。

追記:牧野氏が、京速計算機についてきびしい評価をしている。「 2010年度末には大体のシステムを完成させる、ということになっています。プロセッサから新しく作るのであるとまあ 5年はかかりますから、これは、既に時間が足りない、ということを意味しています」。つまり「新たにCPUから作る」という計画が、ムーアの法則を無視した愚かな発想なのだ。私は来月、アスキー新書で『過剰と破壊の経済学:「ムーアの法則」で何が変わるのか?』という本を出す予定である(ドサクサにまぎれて宣伝)。

オークション理論とデザイン

17日の記事で「2.5GHz帯の審査を公開せよ」と書いたら、総務省は急きょ22日に業者の「討論会」を開くと発表した。しかし「落選確実」を出された業者は「こんな短期間で、まともなプレゼンテーションはできない。ただのアリバイ作りだ」と反発している。このような議論が行なわれるのは、美人投票もなしに談合で決まった時代に比べれば一歩前進だが、世界的には15年前の状況である。

本書は、1994年に行なわれたアメリカの周波数(PCS)オークションを設計したポール・ミルグロム(たぶん10年以内にノーベル賞をとるだろう)が、オークション理論の基礎から電波政策などへの応用までを解説したものだ。内容は高度で一般向けではないが、「オークションは業者の経営を圧迫するのでよくない」という反対論がなぜ間違っているのか、といった点についてもていねいに解説されている。何よりも大事なのは、政府が直接介入するのではなく、市場を利用して自発的に目的を達成させるメカニズム・デザインの考え方だ。

PCSオークションは、ゲーム理論を実際の政策に応用し、コンピュータ・ネットワークを使って並列に100近いオークションを行い、数百億ドルの国庫収入を上げた「史上最大の社会実験」であり、経済理論の劇的な勝利だった。ゲーム理論の開拓者ジョン・ナッシュの生涯を描いた映画「ビューティフル・マインド」では、統合失調症から回復したナッシュが、オークション成功のニュースを聞いて「私の理論が役に立ったことを誇らしく思う」とコメントしていた。

本書も紹介しているように、オークションの設計にはいろいろなバリエーションがありうる。少なくとも今回のような密室審査よりましなメカニズムは、いくらでも設計可能だ。以前スタンフォード大学で著者と議論したとき、私が「スペクトラム拡散で動的に帯域を割り当てれば、オークションは不要だ」といったら、彼は「無線LANでも実際には混雑が起こる」といい、それを防ぐにはfast trackをオークションで端末に割り当てるなど、いろいろなアイディアを話してくれた。

日本語版への序文で著者は、築地の魚河岸で見た見事なせりのもようが本書を書くきっかけの一つだったと語っている。世界で初めて大規模なオークションや先物市場を実現したのは、大阪の堂島米市場だった。「日本人には市場主義は向いていない」などというのは、歴史を知らない人だ。今度の2.5GHz帯の混乱を契機に、総務省は電波政策を考え直すべきだ。本書は、そのための必読書である。

追記:著者はコンサルティング会社をつくって、各国のオークションなどの設計を請け負っている。総務省も、コンサルタントとして雇ってはどうだろうか。

市場と法

私は大学院で「コーポレート・ガバナンス」を教えているが、ビジネススクールで企業統治というと、本書のような「コンプライアンス」の話が多く、もっぱら後ろ向きの法律論ばかり教えられる。それはもちろん現実の企業防衛策としては必要なのだが、企業全体が保守的になり、海部美知さんのいうように、「全国がコストセンター」みたいな状況になっている。

特に日本では最近、刑事司法が経済事件で突出した動きを繰り返しているが、村上ファンドやライブドアに刑事罰は必要だったのか。市場の問題は、市場の番人が解決するのが本筋ではないのか。人質司法といわれるような、古い「お上」的な捜査手法が残っているのではないか。刑事訴追によって企業統治を改善する効果はきわめて限定的であり、副作用のほうがはるかに大きい、と企業統治の教科書は教えている。

特に日本では、法律家が経済学を知らないため、経済全体に及ぼす波及効果を考えない事後の正義(当ブログで「一段階論理の正義」と呼んでいるもの)によって過剰規制を行い、企業を萎縮させる傾向が強い。法律家は怒るかも知れないが、経済問題においては法律は効率を改善するための手段の一つにすぎず、法務費用はなければないに越したことはない死荷重である。磯崎さんもいうように、司法試験の科目に「法と経済学」を入れるべきだと思う。

企業統治は、本質的にはファイナンスの問題である。最近の実証研究が示しているように、国ごとの成長率や生産性の差にもっとも大きな影響を与えるのがガバナンスの効率だ。グリーンスパンも「企業統治の問題をエンロンやワールドコムのような事件と取り違えてはいけない」と警告しているように、メディアのスキャンダル報道に惑わされてSOX法のような過剰規制を行なうのは、愚かなガバナンスの見本である。特に日本企業に必要なのは、むしろもっと果敢にリスクをとることであり、そのためには刑事司法の暴走にブレーキをかける必要もあるのではないか。

本書は日経新聞の編集委員が最近の経済事件をまとめたものだが、「エンロン・ワールドコム」的バイアスをまぬがれていない。新聞記事の切り抜きのような記述や、資料を全文引用するような冗漫な記述も目立つ。こういう「事件簿」や法律論ではなく、産業構造や企業組織の問題としてガバナンスを考えないと、日本は長期停滞からいつまでたっても脱出できないだろう。

次世代無線は仕切り直せ

2.5GHz帯のブロードバンド無線の審査は密室で行なわれ、提出された事業計画も審査基準も明らかでないのに、「KDDIとウィルコムが当確だ」といった情報がもれてくる。ソフトバンクなどが「審査内容を公開しろ」と呼びかけたのは当然だ。

当ブログで何度も書いたように、周波数の配分はオークションで行なうのが世界的な常識であり、こういうコマンド&コントロールでやっている先進国は日本とフランスぐらいだ。両国とも、IT産業から落伍している点で共通している。特に日本では、事前に政治家がからんで「一本化調整」をやって審査もしないケースが多く、こうした電波社会主義が日本の無線業界の大きな立ち遅れの原因だ。

特に2.5GHz帯は、最初から「WiMAXと次世代PHS」という規格が(内々に)総務省によって決められ、アッカとウィルコムの「出来レース」になる予定だった。そこへソフトバンクが乱入して「美人投票」までは来たが、IPモバイルの事件をみてもわかるように、総務省の「審美眼」は信用できない。以前の記事でも書いたように、1.7GHz帯と2.0GHz帯もあいたのだから、この3つの帯域(4つの枠)をまとめて(オークションが無理でも)合格基準を明示して公開審査をすべきだ。特に1.7GHz帯は、GSM(およびその上位技術)を採用すれば、iPhoneも使えるようになる。

追記:総務省は、22日に4陣営による公開討論会を開くことにしたようだ。どうせなら、2.5GHz帯に限定しないで、2GHz帯もあわせてやったらどうか。

「正義の国」の日本人

マイク・ホンダ議員の「慰安婦非難決議案」のとき、産経新聞などがしきりに流したのが、中国ロビーの献金や選挙区事情(中国・韓国系のほうが日系よりはるかに多い)などの政治的背景だが、そういう打算だけで何回否決されても同じような決議案を出すとは考えにくい。ホンダ自身のいう「かつて私が強制収容所に入れられたことに対して米政府が謝罪したように、日本も謝罪すべきだ」という素朴な正義感があるのは、たぶん本当だろう。だとすれば、その正義感の背景にあるのは何か――という問題をさぐったのが本書である。

著者は「元ロサンゼルス特派員」という奇妙な肩書きになっているが、NHKの職員である。NHKの名前が出ると、慰安婦がらみの訴訟の問題で経営陣が神経質になるので、伏せたらしい。同じ配慮で、慰安婦についてもくわしくはふれていない。テーマは、ホンダの行動に日本人の多くが感じた「日系人がなぜ日本を非難するのか」という疑問に対して、アメリカの日系社会の実情を説明して答えるものだ。

日系人は、戦時中には「敵国民」として迫害されたため、戦後は過剰にアメリカへの忠誠心を強調するようになった。しかしアメリカ人から見ると、日本人も中国人も韓国人も区別がつかない。おまけに最近は中国系・韓国系の移民が増え、アジア系移民のなかで日系は6位の少数派だ。特に9・11をブッシュ大統領が真珠湾攻撃にたとえたことで、日系への敵意がふたたび高まり、差別事件も起きた。これによって日系人は、自分たちのアジア系としてのアイデンティティをアピールするようになったのだ。

中国系や韓国系は結束が強いが、日系社会はバラバラで「日系」といわれることをきらい、日本を自虐的に批判する傾向が強いという。これはアジアの中での日本人の特殊性を示している。中国や韓国では血縁がいまだに重視されるが、日本人は地縁を重視する。これは「イエ社会」として知られている話で、日本の「一族郎党」は血縁共同体ではなく、機能的集団だったのである。だからイエが会社になっても、血縁のない他人とすぐなじみ、集団に同化しやすい。

逆にいうと同族意識は薄いので、利害を共有しない日本人には関心がない。だからホンダ議員は、自分が白眼視されないために、いくら事実誤認を指摘されても慰安婦非難決議案を出し続け、NYタイムズのオオニシ記者は、ステレオタイプな日本人差別に迎合したデマ記事を流すのだ。そして彼らと連携し、「海外からの批判」を理由にして歴史的事実を「アサヒる」のが、日本のメディアだ。慰安婦問題の誤報に口を閉ざす朝日新聞が、読売新聞に対して「真実を読みたい」と求めるのを「目くそ鼻くそを笑う」という。

彼らは一種の虚言症であり、こういう病人と議論するのは無駄である。意図的なdisinformationに対しては、質的にも量的もそれを大幅に上回る正しい情報を、政府も含めて日本が世界に発信するしかない。数少ないまともな日系人である伊勢平次郎氏もいうように、アメリカ人は日本の歴史なんかそもそも知らないのだから。日本の外交にもっとも大きく欠落しているのは――日本軍以来の伝統だが――こうしたインテリジェンスである。

追記:こうした日本についてのデマゴギーに反論する英文サイトを立ち上げた("Comfort Women"の衣替え)。

空気読め

今年の流行語大賞の候補のトップに「KY」があがっている。これは最初は「空気読め」の略だったが、最近は「空気が読めない」と他人をあざける意味で使われるという。今週の『SAPIO』で曽野綾子氏と対談したときも、戦時中の「空気」の正体が話題になった(*)。沖縄で集団自決が起こる前にも、サイパン島の「バンザイクリフ」で1万人もの民間人が投身自殺したが、これを「軍の強制」だという人はいない。沖縄でも、同じことが起こったと考えるのが自然だろう。軍が強制しなくても、人々にみずからの命を絶たせるほど強力な空気とは、何だったのだろうか。

これについては、山本七平の『「空気」の研究』という有名な本がある。連合艦隊の軍令部次長だった小沢治三郎が、戦艦大和の特攻出撃について「全般の空気よりして、当時も今日も特攻出撃は当然と思う」と戦後30年もたってから語っているのだ。山本は、この空気とは何かを考えるのだが、「おそらく科学的解明も歯が立たない”何か”である」という結論ならざる結論しか出せない。

日本の超国家主義の特徴が「無原則な付和雷同」にあるという点は、丸山眞男なども指摘しているが、彼はその原因を天皇を頂点として「私事の倫理性と国家の合一」する家産制国家の前近代性に求めた。だとすれば、21世紀になっても空気が跋扈しているのは、なぜなのか。日本はまだ官僚の家父長主義による家産制国家なのだ――というのも一つの答かもしれないが、問題はそういうウェーバー的な図式では片づかない。

90年代の長期不況をもたらした原因も、空気である。グリーンスパンは、2000年に日本を訪れたとき、当時の宮沢蔵相にアメリカがRTCによる担保不動産の処分で金融システムを再建した経験を話し、日本も迅速に不良債権を処理すべきだと進言した。ところが宮沢は、「あなたの分析は鋭いが、それは日本のやり方ではない」と答えたという。グリーンスパンは、日本の不良債権処理を遅らせた最大の原因は、経済の回復よりも「体面」を重んじる日本の文化だとしている。

戦争や不況のような不確実性が大きい状況で付和雷同的な行動をとるのは、ゲーム理論で合理的に説明できる。こういう「複数均衡」の状態では、どの答が本当に正しいかわからないが、人々がバラバラに行動するのは最悪なので、正解はどれだけ多くの人々がそれを正しいと思っているかに依存する。空気は、人々の行動を一つの解に収斂させるコーディネーション装置の役割を果たしているのだ。

こういう行動は日本人に固有の特徴ではなく、不確実性のもとで「流動性への逃避」が起こるのは金融市場でも同じだが、グローバルな市場では、こうした「相対主義」に対してファンダメンタルズのような絶対的価値にもとづいて逆張りするプレイヤーが必ずいるので、ある程度で歯止めがかかる。ところが日本では、こういう少数派をKYとして集団から排除してしまうので、暴走しはじめたら止まらない。

さらに悪いのは、メディアがKY的な群衆行動を増幅することだ。集団自決をめぐっても慰安婦をめぐっても、朝日新聞は事実の検証はそっちのけで、「沖縄の心」や「海外の目」などの空気で押し切ろうとするKY的な編集方針をとった。思えば、戦時中もっとも激烈に好戦的な空気をあおったのも朝日だった。戦後60年以上たっても、彼らは戦争から何も教訓を学んではいないのだ。そして既存メディアに反抗するネットイナゴも、自分たちの「村」を批判する者にはKYを連呼する。日本人というのは、この程度の国民なのだろう。

追記:「ネット流行語大賞」の候補のトップは「アサヒる」。「偽造、捏造する」という意味だそうだ。

(*)山崎行太郎とかいう自称評論家が、曽野氏の発言で「巨魁」と表記されているのを「誤読」だと書いているが、これは対談なんだよ。彼女は「キョカイ」と発音し、それを「巨魁」と誤記したのは編集部である。売れない評論家は、対談もやったことないのか。だいたいこんな表記の問題は、論旨と何の関係もない。著書といえば自費出版しかなく、2ちゃんねるで荒らしをやっているようなイナゴ以下の人物が、評論家を自称するとは笑止千万だ。



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