2007年10月

若者を見殺しにする国

8年も雑誌の書評を担当していると、たくさん献本をいただくが、一つ一つお礼できないので、ここでまとめてお礼をさせていただく(*)。ブログでも、いただいたことは書かないし、だからといって取り上げることもないが、本書は原型となる論文を当ブログで2回(9/149/23)紹介した経緯もあるので、本としての評価も書いておく。

結論からいうと、コアになる2本の論文(第4章)のインパクトに比べて、本としては弱い。他の部分が、2本の論文を書くまでの経緯とそれに対する批判への反論という形で書かれていて、どっちも中途半端だ。それよりも著者の日常をきちっと描いて、「32歳、フリーター」のルポルタージュにしたほうがよかったと思う。特に後半は、批判の内容がわからないまま延々と反論が続くので、わかりにくい。「識者」のコメントも全文掲載すべきだった。

全体としての論旨も、2本の論文の域を出ず、身辺雑記と論評と社会への不満が雑然と並んでいて、ブログの日記をそのまま読まされているような感じだ。分量(350ページ)も長すぎ、繰り返しが多い。編集者が手を入れて論旨を整理し、200ページぐらいに圧縮したほうがよかった。

ただ、このとりとめのなさが今日的なのかなという気もする。たまたま「就職氷河期」に当たっただけで、その後の人生が狂ってしまい、敗者復活のできない日本への、やり場のない怒り。それに対して「戦争で自分が死ぬことを考えてないのか」(佐高信)とか「他人の不幸を利用して立場を逆転させようとする性根が汚い」(斉藤貴男)などというボケた反応しかできない「左派」の識者たち。著者も認めるように、そういうダメな大人に対抗する論理を彼が築きえているわけではないが、ポイントはとらえている。

左翼のいう「平和」や「平等」とは、組織労働者の既得権を守ることにすぎない。そして私の記事にボケたコメントをしてきた厚労省の天下り役人にみられるように、行政の視野にもフリーターやニートは入っていない。著者の「戦争が起きて、平和が打破され、社会に流動性が発生することを望む」という欲望は、ドゥルーズ=ガタリの「戦争機械」のように根源的なものだ。本としては未熟だが、2007年の日本の現実の一断面を確かにとらえてはいる。

(*)送り先は、職場(〒103-0028 八重洲1-3-19 上武大学大学院経営管理研究科)にお願いします。

一六世紀文化革命

著者の前著『磁力と重力の発見』はベストセラーになり、いくつもの賞をとったが、率直にいって私には何がいいたいのかさっぱりわからず、途中で投げ出した。そういう賞の選考委員の世代にとっては、山本義隆という名前は神話的存在であり、学問の世界から忘れられていた著者が、本格的な学問的業績でカムバックしたことへのご祝儀だったのかもしれない。

それに比べれば、本書は「17世紀の科学革命の源流を16世紀にさぐる」というテーマが明確であり、これは一昨日の記事でも書いた産業革命ともつながる重要な問題だ。Mokyr "The Gifts Of Athena"などの経済史の研究も指摘するように、産業革命が18世紀の西欧に起こったのは、17世紀の科学革命によって実証的な知識が蓄積されたことが大きな要因である(少なくとも出生率よりは説得力がある)。

では、その科学革命はなぜ起きたのか、というのが本書のテーマである。16世紀というと、ルネサンスなどの芸術や人文学についてはよく知られているが、近代科学はまだない時代だと思われている。著者は一次資料を使ってこうした通説をくつがえし、16世紀に起こった文化革命が科学革命の基礎になったとする。その最初のきっかけはグーテンベルクによる印刷革命であり、それによって起こった宗教改革、そしてラテン語から日常語による出版という言語革命である。

全共闘時代のなごりか、革命という言葉が乱発されるが、実際の歴史はそれほど不連続に発展したわけではなく、現在の歴史学では、産業革命も長期にわたって続いた漸進的なイノベーションの積み重ねであり、革命と呼べるかどうかは疑わしいとされている。Clarkの図のように所得が飛躍的に上がるのは、18世紀初めに蒸気機関が発明されてから100年近くたってからである。著者のいう印刷術や日常語の普及はもっとゆるやかな過程であり、革命的な変化とはいえない。

それはともかく、それまで職人の勘と経験で継承されてきた技術的知識(ギリシャ語でいうテクネー)が、日常語で出版されることによって学問的知識(エピステーメー)と融合したのが16世紀の特徴である。特に経験を実験という科学的方法に高めることで、それまでの演繹的推論だけで構築されてきたアリストテレス自然学を帰納的に反証する方法論が確立した。

この意味は大きく、たとえば物理学によって砲弾の着弾位置を正確に計算できるようになったことで、欧州の軍事力は飛躍的に強くなり、こうした軍事的な優位が西欧文明が世界を制覇する原因になった。つまり著者の避けている軍事革命が、近代科学の最大の要因なのだ。

こうした変化がなぜアジアで起きなかったのか、という問題には著者は直接には答えていないが、科学革命の基礎にはキリスト教的な自然観があったとしている。アジアでは人間を自然の一部と考え、自然の実りをわけてもらう営みとして農業をとらえるのに対して、キリスト教では自然は人間世界の外側の征服すべき対象であり、実験とは自然を「拷問にかけて自白させる」ことだとのべたロバート・ボイルの有名な言葉に代表される攻撃的な自然観が、近代科学を築いたのである。

・・・と要約すると大して斬新な話ではなく、MokyrやShapinなどによって、もっと包括的に経済史や政治史との関係で語られている事実を、一次資料で精密に立証した、というところだろうか。学問的には超一流の業績とはいいがたいが、科学革命の解説書としてはよく書けているし、前著よりはるかに読みやすく、最後まで読める。要点だけなら、第2巻だけ読めばわかる。

1枚の図でわかる世界経済史

以前の記事でも少し紹介したGregory Clarkの"A Farewell to Alms"を読んでみた。第1章は「16ページでわかる世界経済史」と題されていて、このPDFファイルだけ読んでも概要がわかる。中でもポイントになるのは、下に掲げた「1枚の図でわかる世界経済史」と題した図である。これは紀元前1000年から2000年までのひとりあたり所得を図示したものだが、1800年ごろの産業革命期を境に急速に所得が上がっている。これをどう説明するかが、西欧文化圏が世界を制した原因を考える上で最大の問題である。
これまでの通説とされているのは、オランダやイギリスで財産権(特に特許などの知的財産権)が確立されて市場経済が成立し、技術革新が進んだとするNorth-Thomasの説だが、著者はこれを批判する。財産権は、世界の他の地域でもっと早くからみられる。知識を財産とみなす制度が確立したのは、産業革命よりずっと後であり、それが技術革新のインセンティブを高めたという証拠もない。むしろMokyrのように、科学者と技術者のコラボレーションによって自然科学が工業に応用されるようになったことを重視する見解もある。最大の謎は、なぜ産業革命が欧州の端の小国イギリスに起こって、他のもっと豊かな大国で起こらなかったのかということだ。

著者は、通説のいうような特徴はイギリスに限らなかったと指摘する。特に歴史上もっとも長期にわたって世界の最先進国だった中国には、制度も財産権も技術もあったし、教育水準も高かった。商人や米市場などは、日本のほうが早くから発達していた。ただアジアでは、労働生産性の高い階層の出生率が低かったために、「社会的ダーウィニズム」が働かなかった。それに対して、イギリスでは生産性の高い階層の所得が上がり、彼らが多くの子孫を残したため、人口も急増して市場も大きくなり、産業が発達した、というのが本書の結論である。しかし、なぜアジアで富裕層の出生率が低かったのか、という点は説明されていない。

18世紀の所得や出生率などの具体的な経済指標を推定し、産業革命を数量経済史によって再現する本書の議論は、データとしてはおもしろいが、経済学者の論評は批判的なものが多い。特にブルジョア階級の出生率という特殊な(しかも推定による)要因だけでイギリスの優位性を説明する著者の仮説は、この複雑な問題に単純な答を出しすぎている、というGlaeserの批判は当たっていると思う。実際は、上にあげたような原因が複合して起こったのであり、マルサス的な要因はその一つだろう。残念ながら、やはり世界の経済史は1枚の図では語れないのだ。

「情報通信法」のゆくえ

きょうのICPFセミナーは、総務省情報通信政策局の鈴木総合政策課長に、いろいろ話題を呼んでいる「情報通信法」(仮称)の話をしてもらった。会場から出た質問は、主に次の2点:
  • これまで規制のなかったインターネットに「公然通信」として言論統制が行なわれるのか?
  • レイヤー別の規制というのは、通信業者には抵抗がないだろうが、放送局は「水平分離」には反対するのではないか?
このうち前者については、「どの分野も、今より規制が強まることはない」との答だった。実は、放送には(あまり知られていないが)「番組編集準則」というのがあって、民放でも教育番組*%、教養番組*%というように時間配分まで決められている。実際には、お笑い番組を教養番組に算入したりして空文化しているのだが、この過剰規制をやめるのが主眼らしい。インターネットについては、今でもプロバイダー責任制限法などがあるが、幼児ポルノなどの違法コンテンツをISPが削除する法的根拠がないので、その法的根拠を与えるといった形で、行政が直接介入するものではないようだ。

放送業界は、パブリック・コメントでは反対を表明しているが、2001年にIT戦略本部が「水平分離」を打ち出したとき、民放連の会長が官邸にどなりこんだような強い拒否反応は、今のところないそうだ。法案化が2010年と先は長いので、今はおとなしくしているのかもしれない。ただ、今のまま水平分離してキー局の番組がIPで全国に流れたら、ローカル局は死ぬので、レイヤー別の規制に移行するなら、放送業界の再編は不可避だろう。集中排除原則を緩和して持株会社化を可能にするなど、総務省も手を打っているが、ローカル局はキー局の子会社になるぐらいなら、政治家を使って法案をつぶしにかかるかもしれない。

・・・というわけで、来月のセミナーでは放送局の立場から話してもらう。

ICPFセミナー 第23回「通信・放送の総合的な法体系に対する放送事業者の考え方

総務省では「通信・放送の総合的な法体系に関する研究会」を組織し、通信法制と放送法制の統合について研究を深めています。この新しい法体系によって通信と放送の融合が促進されるかどうかについて、世の中には賛否両方の意見が存在します。

情報通信政策フォーラム(ICPF)では月次セミナーでこの新しい法体系について議論を深めていくことにしました。連続セミナーの第2回目は、TBSメディア総合研究所の前川英樹社長をお招きし、放送事業者の考え方を伺います。

スピーカー: 前川英樹(TBSメディア総合研究所社長)

モデレーター: 山田肇(ICPF事務局長・東洋大学教授)

日時: 11月26日(月)19:00~21:00 ※開始時刻が通常より30分遅れます。

場所: 東洋大学・白山校舎・6号館6216教室
      東京都文京区白山5-28-20
      キャンパスマップ ※いつもと教室が違いますのでご注意ください。

入場料: 2000円 ※ICPF会員は無料(会場で入会できます)

★申し込みはinfo@icpf.jpまで、氏名・所属を明記してe-mailをお送り下さい

地球温暖化を防ぐ経済的な方法

京都議定書よりはるかに低コストで、温暖化を防ぐ方法がある。大気中に微粒子をまくのだ。この効果は、ピナツボ火山の噴火などで実証されている。毎秒5ガロンの速度で硫酸塩の微粒子を成層圏にばらまけば、向こう50年は気温の上昇を防げる、とKen Caldeiraは提案している。

1992年にも全米科学アカデミーが、ロケットか大砲などで微粒子を散布することを提案し、Nordhausも「真剣な検討に値する」と評価している。しかし、なぜか政府レベルでは検討されたこともない。Mankiwも懐疑的だが、理由ははっきりしない。

沖縄「集団自決」をめぐる事実と政治

きょうの産経新聞で、曽野綾子氏が、沖縄の「集団自決」について語っている。私は、この問題については一次資料を見たことがないが、雑誌の企画で曽野氏と対談することになったので、『「集団自決」の真実』を読み返してみた。

曽野氏の調査によれば、命令を出したとされる赤松隊長も隊員も、「上陸した米軍への応戦で手一杯で、自決命令を出しに行くどころではなかった」と証言している。ただし米軍の砲撃が始まって混乱に陥ったとき、(正規の訓練を受けていない)防衛応召兵が、隊長の命令なしに手榴弾を住民に渡したことは事実らしい。

住民の証言では、当時の村長が「軍の命令だから自決しろ」と言ったというのだが、当の元村長は「私は巡査から聞いた」という。その元巡査は、赤松大尉から逆に「あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてください」といわれた、と証言した。ではなぜ集団自決が起こったのか、という点について元巡査は「どうしても死ぬという意見が強かったもんで、わしはサジ投げて・・・」と語っている。したがって、赤松大尉を「屠殺者」などと罵倒した大江健三郎氏の記述が誤りであることは明白だ。

もう一つの座間味島についても、当時の隊長だった梅澤裕氏が赤松元大尉の遺族とともに、岩波書店と大江氏らに対して名誉毀損訴訟を起こしている。座間味島については、秦郁彦氏が『歪められる日本現代史』で梅澤氏の手記や住民の証言をもとに検証しているが、ここでも自決するための爆薬を求める村の助役ら5人に対して、梅澤少佐が「決して自決するでない。壕や勝手知ったる山林で生き延びてください」と答えた、と当時の村の幹部が証言している。遺族会の会長(当時の助役の実弟)は「集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく、助役の命令で行なわれた。これは私が遺族補償のため隊長命として[厚生省に]申請したものだ」というわび証文を梅澤氏に渡している。

これに対して沖縄の住民側の主張は、沖縄タイムスにまとめられているが、上のような証拠はなく、「11万人結集 抗議/人の波 怒り秘め/真実は譲らない」といった情緒的な記事ばかり。沖縄戦では、この両島以外にも集団自決の伝えられている島があるが、沖縄タイムスは他の島でも「軍の強制」の証拠を示していない。したがって、これまでの証言・証拠からみるかぎり、末端の兵士の関与はあったものの、隊長の命令があったとはいえない。まして、軍の方針として集団自決が強制されたということはありえない。

今回、問題になった検定では、たとえば三省堂の『日本史A』では「日本軍に『集団自決』を強いられたり、・・・」という記述が「追いつめられて『集団自決』した人や・・・」というように「日本軍」という主語を削除するように求められたものがほとんどである(強調は引用者)。上のような実態を考えると、後者のほうが中立的な表現だろう。

私は教科書検定という制度に反対なので、この検定意見を擁護しようとは思わないが、沖縄タイムスの記事を見ても、軍が集団自決を命じたとか強制したという証拠は他の島にもない。むしろ軍が命令もしていないのに、民間人が自発的に集団自決したとすれば、そのほうがはるかに恐るべきことである。曽野氏もいうように
戦争中の日本の空気を私はよく覚えている。[・・・]軍国主義的空気に責任があるのは、軍部や文部省だけではない。当時のマスコミは大本営のお先棒を担いだ張本人であった。幼い私も、本土決戦になれば、国土防衛を担う国民の一人として、2発の手榴弾を配られれば、1発をまず敵に向かって投げ、残りの1発で自決するというシナリオを納得していた。
というのが本質的な問題だろう。事実関係の検証もしないで「11万人集会」や九州知事会で検定の訂正を求めるなど、政治的な動きが拡大し、それに屈した形で文部科学省が教科書の「自主的な訂正」を認める、という経緯には疑問を感じる。慰安婦問題と同様、ここにも「悪いのは軍だけで、民衆は被害者だった」という都合のいい図式があるが、『日中戦争下の日本』にも書かれているように、当時いちばん勇ましかったのは新聞であり、末端の国民まで「生きて虜囚の辱めを受けず」という気分が蔓延していた。その(山本七平のいう)空気が、戦後は一国平和主義という空気に変わっただけで、メディアの幼児性は変わらない。歴史を政治のおもちゃにせず、冷静に事実を検証することができないものか。

破綻する企業年金

NTTの企業年金訴訟でNTT側が敗訴し、年金の支給額が減額できないという判決が東京地裁で出た。この影響は大きい。NTTの年金債務は約5兆5000億円、それに対して年金資産は約2兆円しかなく、差し引き3兆5000億円もの積み立て不足があるからだ(*)。判決では「NTT東西は年間1000億円の利益を上げている」というが、その利益の35年分が吹っ飛ぶ額である。他にも、日立が1兆3000億円、松下が1兆2000億円など、巨額の積み立て不足を抱えた企業は多い(2003年現在)。

NTTはこの債務を削減するため、確定給付型の年金を確定拠出型に変更しようとし、労使で合意して(法律で定められる)受給者の2/3の同意も得たにもかかわらず、厚労省に認可されず、訴訟になったものだ。この程度の裁量権も経営にないとなると、正社員のコストは非常に高くなる。NTTの場合は、社員ひとりあたり約2800万円もの隠れ給与を負担することになるからだ。

たしかに個々の年金受給者にしてみれば、事後的に支給が減額されるのは「約束が違う」という気持ちになるだろう(今度の騒動も、そういう共産党系の組合の訴訟が原因だったらしい)。彼らに同情して厚労省や裁判所は人道的な配慮をした、とワイドショーなどでは評価されるかもしれない。しかしこういう判決が出ると、企業の経営は悪化し、ますます高コストになる正社員の需要は低下する。その結果、派遣や請負、さらには失業が増えるわけだ。

おわかりだろうか。これは当ブログでおなじみの一段階論理の正義の一例である。個々の正社員にとっては望ましい既得権の保護によって、マクロ的には最も弱い立場の非正規労働者や失業者が犠牲になるのだ。この造語はあまり語呂がよくないので、代わりの言葉をさがしていたら、朝日新聞の取材班のおかげで合成の誤謬という言葉を思い出した(彼らはまちがって使っているが)。

朝日新聞は、夕刊の1面で「手をつなげ ガンバロー」という連載をしたりして「弱者救済」に熱心だが、こういうキャンペーンが合成の誤謬の典型である。厚労省が次の通常国会に出す予定の労働者派遣法の改正案をめぐっても、福島みずほ氏などは規制強化を求めているが、そうすると企業は派遣を請負に変えるだろう。その請負も朝日新聞のキャンペーンで規制されるようになったから、あとは海外にアウトソースするだけだ。彼らの主観的な善意が、結果的には日本から大連に行って年収60万円の労働者を生み出しているのである。

こういう誤謬はケインズの時代からあったぐらいだから、きわめてありふれたもので、しかも説得がむずかしい。目に見えるのは「派遣社員が正社員に登用された」といった個別のいい話だけで、マクロ的な失業率は実感としてわからないし、中国に行った労働者は視界から消えてしまうからだ。この症状は、特に福島氏のような法律家に多いので、司法研修所では経済学を必修にしてはどうだろうか。といっても高度な経済学は必要ない。サミュエルソンの入門書にこう書いてある:
Fallacy of composition: A fallacy in which what is true of a part is, on that account alone, alleged to be also true on the whole.
(*)この数字は、NTTが給付の減額を決めた当時のもので、有価証券報告書では「未払退職年金費用」にあたるが、最新の数字では1兆6000億円まで改善しているようだ(p.81)。

ワトソンの不都合な真実

ジェームズ・ワトソンの「黒人の知性は白人と同じではない」という発言は、たちまち国際的なブーイングの嵐を巻き起こした。彼は全面的に謝罪したが、予定されていたロンドン科学博物館での講演はキャンセルされ、彼が所長をつとめるコールド・スプリング・ハーバー研究所の理事会は、彼を停職処分にすると発表した。

問題のインタビューを読むと、たしかに軽率にしゃべった印象はまぬがれない。世界一有名な分子生物学者のコメントとあれば、当然科学的な根拠のある話だろうと読者は思うが、彼はこの点も「科学的根拠がない」とあっさり引っ込めてしまった。

しかしIQと遺伝子には明らかな相関があり、その遺伝子の一部も同定されている。また、かつて大論争を巻き起こした"The Bell Curve"のように、黒人のIQが平均して白人より低いとする研究はこれまでにもある。カリフォルニア大学などでは、ハンディキャップをつけないとアジア系が圧倒的多数を占めて、黒人がほとんど入学できないという実態もある。

IQが「知性」の指標として適切なのかという問題はあるが、他にそれよりすぐれた指標があるわけでもない。IQを教育によって上げるのが困難であることも事実だ。またIQと社会的成功に因果関係があることは、アメリカ心理学会の"Bell Curve"に関するフォローアップでも確認されている。したがって
He says that he is “inherently gloomy about the prospect of Africa” because “all our social policies are based on the fact that their intelligence is the same as ours – whereas all the testing says not really”
というワトソンの発言は、まったく非科学的というわけでもない。黒人の皮膚の色が(遺伝的に)白人と違うように、彼らのIQが遺伝的に違っていても何の不思議もない。これは肌の色で差別する理由にもならない。成功する黒人もいるだろうし、落ちこぼれる白人もいるだろう。結果がすべてである。むしろ問題は、本人の弁明も聞かないで停職処分にする研究所の過剰反応だ。こういう発言が、特にアメリカでpolitically incorrectであることは確かだが、それについての議論まで封じるのはおかしい。

公平にみて、人種と知能の関係は、科学的に決着のついていない問題だ。その大きな原因は、この問題を取り上げること自体がタブーだからである。しかし、かりに黒人のIQが白人より平均的に低かったらどうだというのか。その代わり、黒人は運動神経や音楽の才能は平均的にすぐれているかもしれない(こういう話題もアメリカ人とは禁物だ)。人類の生存してきた数十万年の歴史の99%以上で、IQなどというものは何の役にも立たなかった。運動神経のいい黒人のほうが、生存確率は高かっただろう。

要するに、黒人のIQが低いということが事実だとしても、それは最近の欧米社会の尺度による「成功」の確率が低いということにすぎない。特にアフリカの社会を考えた場合、むしろ欧米的な成功を彼らに押し売りすることが問題だ。Easterlyも指摘するように、アフリカにはアフリカ本来の「自生的秩序」があるのだから、その中で生活水準の改善を考えるべきで、欧米的な価値観をトップダウンで押しつけてもうまく行かない。そもそも彼らの文化をここまで破壊したのが、欧米の植民地主義だったのである。

P2Pのメカニズム・デザイン

先日の記事では、メカニズム・デザインは実用にならないと書いたが、ハーバード大学ではBitTorrentによるファイル共有を効率的に行なうメカニズムの研究が行なわれているそうだ。この記事だけではわかりにくいが、別の記事と総合すると、こういうことらしい。

BitTorrentは他のピアとキャッシュを共有することで効率的なダウンロードを実現する。これはダウンロードする側にとっては便利だが、アップロード側は帯域を他人に占有されるので、自分のほしいファイルだけダウンロードしたらBitTorrentを閉じてしまうことが「合理的」な行動になる。しかし、これは「囚人のジレンマ」で、全員がそういう行動を取ったらP2Pネットワーク全体のパフォーマンスが低下する。

そこで、こうしたピアの過去のダウンロード/アップロードの履歴をデータベースに蓄積する「分散型評判システム」をつくり、高速かつ切断されないピアを選んでダウンロードする。このとき「仮想通貨」を相手のピアに渡し、アップロードに協力した「よいピア」は多くの通貨をもち、ダウンロードするとき優先的に接続できるように設計する。

これはメカニズム・デザインの言葉でいえば、協力すれば通貨をもらえるので、互いに協力することもナッシュ均衡になるから、囚人のジレンマを「マスキン単調」な協調ゲームに変換することになる。マスキン単調性は、目標とする状態にナッシュ誘導できるための必要条件だから、これに加えて仮想通貨を適切に設計すれば、よいピア同士で効率的にファイル共有することがナッシュ均衡になる。

人間社会でナッシュ誘導が実用にならないのは、他人のペイオフを知ることができないからだが、Triblerによって各ピアの情報を共有すれば機能するかもしれない。これはP2Pトラフィックの急増に悩まされているISPにも応用可能だ。経済学の側からいうと、これはP2Pネットワークを使って誘導メカニズムの社会実験ができることを意味する。人間と違ってコンピュータは必ず合理的に行動するから、メカニズム・デザインはコンピュータ・サイエンスに応用できるかもしれない。

追記:こういう評判システムを応用すれば、はてなのイナゴ対策も設計できるかもしれない。今はプラスの星をつけることだけが可能だが、マナーに反する記事やコメントについては星を(第三者が)減らすことも可能にし、点数がマイナスになったらドクロのマークでもつけ、ドクロの累計が一定数を超えたらアカウントを削除するのだ。

所有権のドグマ

教科書を書評するのは初めてだが、本書はそれぐらいの価値がある。これが著者のような大御所の初めての著作権の教科書というのは意外だが、今後のスタンダードになるだろう。しかし大御所の教科書にありがちな前例踏襲型ではなく、時代の急速な変化に著作権法が追いついていないことを認識し、それをどう是正するかという未来志向型で書かれている。たとえば序章で、著者はこう問いかける:
デジタル化の波は著作権法制に極めて大きな影響を与えていると考えられる。著作権法を所有権法制の枠内で捉え、その微修正でその場しのぎをしている現状は大きく変更されなければならないのかもしれない。万人が著作物の複製・改変をし、発信をする時代において、著作権法システムが従来のように所有権のドグマに捕らわれていたのでは、情報の利用にとってマイナスとはならないのか。(p.9、強調は引用者。以下も同じ)
この「所有権のドグマ」についての著者の問題意識は一貫しており、第3章では著作権が物権的な構成になっているのは、たまたまそれを借用しただけだとしている。
現行著作権法は物権法から多くの概念を借用しており、物権的構成を採用してはいるが、それはあくまでも便宜上のものであるということを忘れてはならない。立法論的には物権的構成が唯一のものではなく、対価請求権的な構成も可能である(p.205)
対価請求権とは、当ブログでも何度か提案した包括ライセンスのようなしくみである。また「著作権は他人の行為を禁止するものであるため、他人の表現の自由を妨げる」(p.342)という緊張関係をふまえ、問題の保護期間については、
独占は創作へのインセンティヴを与えるのに必要にして十分な期間を認めるべきであり、それ以上の期間は却って社会厚生へのマイナス要因となる。[・・・]死後50年以上も経済的価値を維持している著作物はごく少数であり、かつ死後50年も経済的価値を維持している著作物は、既に十分な利益を得ているごく一部の著作物(例えばミッキーマウスの絵)と考えられ、それらに更に利益を与える必要はないであろう。(p.343)
と明快に言い切っている。おととい発足したMIAU(私も賛同者のひとり)が文化庁と闘うときも、強い味方になるだろう。文化庁も「国際協調」という名の横並びばかり気にするのではなく、所有権のドグマを超えて、日本からデジタル時代にふさわしい新しい著作権制度を世界に提案するぐらいの志があってもいいのではないか。




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